第1話 「名もない疑い」
第1話 「名もない疑い」
夜明けの鐘が鳴る前から、町は咳をしていた。
乾いた咳、痰の絡む咳、胸の奥を引っかくような咳。冬の入り口みたいに冷たい空気が、石畳の隙間から立ち上って、足首をじっとり濡らす。鼻の奥には、酸っぱい乳の匂いと、腐りかけた干し草の匂いが混じっている。
アンナは戸口に立ち、指先で木のささくれを撫でた。湿り気を含んだ板はざらつき、爪の間に細い棘が刺さる。痛みは小さかった。痛みより、目の前の静けさの方が、ずっと重い。
「アンナ」
呼ぶ声がした。
声の主は、朝の市場でいつも鳥を売っている女――グレーテだった。声が大きく、笑いも大きく、そして何より、噂を運ぶ足が速い。
アンナは返事をする代わりに、ゆっくり顔を上げた。
「……何」
「あんた、今朝も戸口に突っ立ってるのね」
グレーテは両手を腰に当て、わざとらしく周囲を見回した。誰かが見ていることを確かめるみたいに。
「薬草、ある?」
アンナは一瞬だけ目を伏せる。
小屋の中には、乾かしたセージとヤロー、苦いタンジー。少しだけ残ったカモミール。どれも、今年は採れが悪かった。雨が降らず、草が痩せた。根も浅く、香りが薄い。
「あるけど……」
「いくら」
グレーテの目が、アンナの口元を舐めるように動いた。言い値を待っている目。だがその奥に、別の光が混じっている。焦り。苛立ち。眠れていない人の目だった。
アンナは喉の奥が乾くのを感じた。唾を飲み込むと、紙を擦るみたいに音がした。
「……前と同じ」
「前と同じ? 冗談でしょ」
グレーテの声が跳ね上がる。
その瞬間、周囲の家々の窓が、ひとつ、ふたつ、かすかに開く気配がした。木の軋み。息を殺す音。見えない視線が、アンナの背中に刺さる。
「草が採れないのは、みんな同じなのよ? あんた、何よ。薬草だけは増えるって言うの?」
「増えないよ」
アンナは淡々と言った。淡々としすぎて、かえって冷たく聞こえたのかもしれない。グレーテの口元が引きつる。
「だって、あんたの庭だけは青いって、みんな言ってる」
「……青くない」
「青いのよ。私、見たもの」
嘘だ、とアンナは思った。
庭は枯れている。去年よりずっと。土は硬い。指を突っ込めば、粉みたいに崩れて、爪の下が黒くなる。青いはずがない。けれど、グレーテは嘘をついている顔ではなかった。もっと厄介な顔だ。信じたいことを信じている顔。
アンナは、小屋の中から小さな布袋を持ってきて渡した。乾いた葉がこすれ合い、しゃり、と音がした。苦味の匂いが立つ。グレーテは袋を受け取ると、鼻先で嗅いだ。
「……ふん。効くんでしょうね」
「飲みすぎないで」
「はいはい。医者気取り」
その言葉に、アンナの胸の奥が、ちくりと痛んだ。
医者気取り。
そう言われるたび、思い出す。夫の手の冷たさ。最後の夜、指先から温度が消えていったこと。あの時、アンナは泣かなかった。泣けなかった。涙は出なかった。ただ、胸が空っぽになって、呼吸だけが残った。
グレーテが去っていくと、代わりに、別の影が戸口の前に立った。
ハンスだった。農夫。肩幅が広く、いつも土の匂いをまとっている男。今朝はその匂いが、いつもより酸っぱく感じた。汗と、焦げたような乾きと、そして――牛舎の匂い。
「アンナ」
「……ハンス」
ハンスは帽子を取らない。礼儀よりも、胸の中の何かが先に口を開きそうだった。
「牛が……まただ」
アンナは息を吸った。冷たい空気が肺を刺す。
「乳が出ない?」
ハンスは頷く。頷き方が荒い。怒っているのか、泣きたいのか、本人にも分からない顔。
「昨日までは出てた。今朝、搾ったら……水みたいなのが、ちょろっと。子どもが飲めない。妻が……」
「見せて」
アンナは外套を羽織り、戸を閉めた。鍵はかけない。かける意味がない。町の誰かが本気になれば、戸なんて薄い板だ。
牛舎までの道は、いつもより静かだった。
いつもなら鶏の鳴き声、桶を叩く音、笑い声。今日は、咳と、遠くで泣く赤子の声だけが浮いている。赤子の泣き声は、胸の奥をぎゅっと掴んだ。音が細い。息が弱い。
「うちだけじゃない」
ハンスが低く言った。
「隣もだ。向こうの家も。みんな……変だって」
「病かもしれない」
アンナはそう言ったが、自分の声が頼りなく聞こえた。病。そう言えば済む時代ではない。原因の分からないものを、人は怖がる。怖がったものに、名前をつけたがる。
牛舎に入ると、獣の体温がむっと押し寄せた。
湿った息。糞の匂い。藁の埃。牛の目が、暗い中で光っている。アンナは近づき、牛の腹に手を当てた。皮膚の温度が高い。脈が速い。舌を見せてもらうと、乾いて白っぽい。
「熱がある」
「治るのか」
ハンスの声が、少しだけ震えた。
「……やってみる」
アンナは布袋から乾かした葉を少し取り出し、湯に溶かして搾り、牛の口に含ませた。苦い匂いが立つ。牛は嫌がって首を振った。アンナの指に唾がかかり、ぬるりとした。生き物の温かさがそこにあるのに、どこか遠かった。
「これで……戻るかもしれない」
「“かもしれない”ばかりだな」
ハンスが言った。
声は責めるというより、追い詰められた人の声だった。
アンナは、何も言えない。
“確かだ”と言えない。言えるほどの力はない。祈りなら言えるだろう。神なら断言できるのかもしれない。だが、アンナは草しか持っていない。
牛舎を出ると、空が少し明るくなっていた。
しかし太陽は、薄い雲の向こうに滲んでいて、光は冷たい。
道端の水たまりに映る空は、白い布みたいで、どこにも青がない。
家に戻る途中、広場の方から声がした。
「また死んだって」
「薬草の女に見せたの?」
「見せたけど、効かなかったって」
「じゃあ……」
“じゃあ”。
その言葉の先が、空気の中で形になる前に、アンナの胃がきゅっと縮んだ。
グレーテがいた。市場の女たちが数人、桶の周りに集まっている。桶の中には、黒ずんだ水。そこに布が浸されている。病人の汗拭きだろう。酸っぱい匂いが、朝の冷気に混ざって漂う。
アンナが通りかかると、視線が一斉に突き刺さった。
「アンナ」
グレーテが呼んだ。今度は、さっきより甘い声だった。甘い声は、刃の前触れだ。
「ねえ、聞いていい?」
アンナは足を止めなかった。止めたくなかった。だが、足が勝手に止まった。ここで逃げたら、もっと早い足が噂を追いかける。
「……何」
「夫が死んだ時さ」
グレーテが、にっこり笑う。
その笑いは、町の冬の空より冷たい。
「ほんとに、泣かなかったの?」
アンナの胸に、氷が置かれたみたいに冷えた。
あの夜。
灯り。
薬草の苦い匂い。
夫の指の冷たさ。
涙は出なかった。ただ、喉の奥が熱くなって、息が上手くできなくなった。
「……泣かなかった」
答えた瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。
「ほら」
グレーテが囁いた。
「やっぱり」
「泣けなかっただけだよ」
アンナの声が、少しだけ強くなる。強くなった分、危うくなる気がした。
「泣く泣かないで、人の心は決まらない」
「決まるわよ」
別の女が言った。名も覚えていない女。だが、声はよく覚えている。夜の酒場で、いつも男たちに相槌を打っている声。
「泣けない女は、何かが欠けてるの」
「欠けてるなら、ちょうどいいじゃない。悪魔が入る隙があるって」
笑い声。
乾いた笑い声。
その笑いが、アンナの耳の内側をざらざら擦った。
アンナは、唇を開いた。
何か言おうとした。
否定。怒り。説明。
でも、どれも違う気がした。どれを選んでも、別の形にねじ曲げられる未来が見えた。
だから――アンナは黙った。
その沈黙が、桶の水面みたいに、揺れもせず落ちた。
「……ね」
グレーテが顔を寄せる。
香油の甘い匂いが鼻につく。
その匂いの奥に、焦げた脂と、汗と、恐怖の匂いがする。
「黙るのね」
「……」
「言い返さないのね」
「……」
「やっぱり、そういうことなのかしら」
アンナの喉が鳴った。
言葉が、喉の内側に引っかかる。
息が苦しい。
心臓が、胸の骨を叩く音がする。
「違う」
やっと出た声は、掠れていた。
「私は……ただ……」
ただ、生きていただけ。
ただ、草を摘んでいただけ。
ただ、治そうとしただけ。
そう言いたかった。
でも、その“ただ”は、ここでは危険な言葉だ。
“ただ”は、説明を拒む。
説明を拒む者は、疑いを呼ぶ。
ハンスが、遠くからこちらを見ていた。
牛舎の匂いをまとったまま。
顔が硬い。目が濁っている。
彼はまだ何も言わない。だが、その沈黙が、アンナの胸に刺さった。
“いつまで、味方でいてくれる?”
アンナは、自分でも気づかないうちに、指先を握りしめていた。爪が掌に食い込み、皮膚が痛む。痛みがあることで、まだ自分がここにいると分かる。
グレーテは、ゆっくり言った。
「ねえ、アンナ。今度、審問官が来るって」
「……審問官?」
言葉の響きが、石のように冷たい。
「教会から。異端を調べる人。魔術とか……そういうのを」
女たちが、同時に頷いた。
誰も見たことがないのに、もう知っている顔をしている。
来る前から、結論ができている顔。
「安心じゃない?」
グレーテが言った。
「原因が分かるわ。誰のせいか。何のせいか」
アンナの胸が、ひゅっと縮んだ。
“誰のせいか”。
その言葉が、すでに自分の家の戸口に貼りついているのを感じる。
アンナは、広場の石畳を見下ろした。
霧が薄くなり、石の模様がはっきり見える。
そこに、自分の影が落ちている。細く、頼りない影。
「……私は」
言いかけて、やめた。
言葉は、ここで武器になる。
黙れば、罪になる。
アンナは、初めて思った。
――泣かなかったことが、こんな形で帰ってくるのか。
――声を出さなかったことが、罪になるのか。
グレーテの笑顔の奥で、町の不安が、じっとこちらを見ていた。
凶作の匂い。腐った乳の匂い。病人の汗の匂い。
その全部が、アンナの家の前で止まっている。
そして、止まった不安は、もう動かない。
「ねえ」
グレーテが、最後に言った。
「ほんとに、何もしてないの?」
アンナは答えなかった。
答えられなかった。
答えた瞬間、その言葉はきっと、別の名前に変えられる。
その沈黙の中で、朝の鐘が鳴った。
音は、祈りのように響き、同時に、判決のようにも聞こえた。
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