スズカはパドックを見ている

菜凪亥

第1話

 いつもは何でもない空気が美味しく感じられる場所――丹波たんば航太郎こうたろうにとっては阪神競馬場のことだ。

 老体に鞭を打って働く彼の年に数度の超娯楽の日。カラりとした晴天に恵まれた初冬の仁川が航太郎を出迎えた。

 今日は中位それなりの当たりが出たらいいな。

 航太郎は穏やかな人相で入場し、一先ず来られたことに満足した。

 訪れたタイミングが土曜の昼食時と言うこともあってか、入場口から近いパドックの人口密度はそれほど濃く無い。次のレースのパドックが始まるまでも少し時間があると見た航太郎は馬券を買うためのマークカードを取りに行った。最近はインターネットを通じて買うこともできるが、ホームページに入るだけで精一杯の彼にはまだハードルが高い。

 鋭い北風が髪を浚いけても避けても顔にペシペシと当たる。今年一番の寒さと予報のあった今日だが、寒いのは日陰に居る時と強い風が吹いている間だけで、日向に居ると、重ね着してきた衣類を一枚脱いでも良いぐらいだった。

「お隣、いてますか?」

 背後からハキハキとした女性の声が通る。まさか自分に対してでは無いだろうと思いながら聞こえてきた左側を航太郎はチラリと覗く。そこには日本人男性の平均身長並み――航太郎と同じか少し高い背丈で、黒いボディバッグ一つの若いが立っていた。

 色落ちして空色になったようなジージャンに胸元の輪郭が程よく出ている生地素材の黒のネックシャツ、これもまた色落ちして灰色になったようなジーンズに主張のない黒のランニングシューズ。昨今の流行やステータスなどを全く気に留めてない身なりは却って人を惹きつけよう。

 声とシャツから見えた胸元のふくらみがなければ、航太郎は彼女を男だと錯覚しただろう。多様性の社会に距離のある航太郎はしばし押し黙ることを選んだ。

 その女性はぱっちり開いていた目を細くして笑みを浮かべ「お隣空いてたら、いいですか?」と今一度丁寧に訊ねた。

 航太郎は静かに見惚れていたところから我に返り、空いていた右隣に避けて、自分の居た場所から自分の気配を消した。

 女性は彼に短く礼を言うと何事もなかったように前を向いた。

「おっちゃんはさぁ、馬好き?」

 女性が航太郎に訊ねた。そのイントネーションは彼にとってこれ以外でないと違和感を感じるほど聞き馴染みのあるもの。

 初対面のくせして馴れ馴れしい言葉遣いだが、「おじさん」ではなく「おっちゃん」、「はさぁ」でテンションをなだらかにし、「馬好き?」を上振れした声で発音する。間違いなく阪神このあたりに馴染みのある人柄であることが窺えた。

 その時の所作もそうだ。癖なのか地方血筋なのか自分に分かるようになのか。何を訊きたいのか分かるように表情筋を使って話し、パドックを周る馬に向けて手を指している。

 航太郎は控えめに首を縦に振って答えると、彼女はふふんと笑みを浮かべて「一緒だ」と返した。

 じゃなきゃこんなところに来ないだろうという浅はかなツッコみは心の中だけにする。

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