第1話:始まりの日(3/6)~星華の独白。"来なかった明日"への決意~

 いつもと変わらない日々、そのはずだった、そう思っていた。幸せで充実した毎日、気がかりだった事といえば大きな悩み事が一つだけ。手を伸ばせばすぐ届く距離にいる彼との関係……いや違う、彼に対する私の振る舞いが―――はっきり言うと自分でも煮え切らなくて不誠実だった事、それくらいだったろう。それだっていつか踏ん切りをつけてなんとかしようとは思っていた。

だけど―――


「渡っちゃ駄目だ!左、暴走車が来てる!!」

私の良く知る声が後ろで弾けた。振り返ったその先の、彼の真剣で切迫したな表情。だけど、その必死の言葉は、平和な日常の光景とは少しかけ離れたものだったから、理解にほんの僅かな時間を要したのだろう。それは多分私だけじゃなくて、反応を見た限りだと他の大勢の人も同じで……逆に言えば、それだけ多くの人がこの"いつもの、平和な日常"を享受していた、という証左だったのかもしれない。


「来てる!?」「戻るんだ!」「本当に来てるぞ!」「むちゃくちゃな速さで来てる、みんな戻れ!」

彼の声から少し遅れて、色んな方向から叫び声が飛んでくる。釣られて視線を向けた先―――本当に向こうから、異常な速さで車が迫ってくる。

そこでようやく、今起こっていることを実感として把握できたんだと思う。でも、それだけじゃなくて―――


「あ……」

前を向くと背筋が寒くなって、顔から血の気が引くような感覚を覚えた。先頭に飛び出していた子供がきょとんと立ち尽くしている。

「純ちゃん!こっちに!」

母親の声を受けても立ち尽くしている。状況を把握できていない……というよりも、飲み込むのに時間がかかっているのだろう。あのままじゃ撥ねられる……いけない―――

危ないと、助けないと……という思考が芽生えるけどそこまでだった。あそこに行けば自分も危ないと分かっているから。そんな理由で、思考に反して足は全く動かなかった。


そんな私のすぐ脇を―――

「え……?」

通り過ぎていく誰かの姿。それが誰で、何をしようとしているのか一瞬理解が追いつかずに。

「開斗くん…?だめ!!」

そして、誰が、何をしようとしたのか。気付いたときにはただ彼の名を大声で叫んでいた。止めたかった。でも止められない。


目の前で、もう車は視界に入っている。2人とも撥ねられる―――

次の瞬間、開斗くんの身体が、別人になったように大きく動いた。見蕩れてしまうくらいに綺麗なフォームで駆け、飛び込み、腕が伸びて、子どもを抱え込む。そのままの勢いで転がる。彼らのすぐ後ろを車がかすめ、通り過ぎていった。助かった、と思った。けれど。


「―――」

その少し後に鈍い音。開斗くんの頭が、信号機の柱にぶつかったのが見えた。そして、動かなくなる。

息が、止まった。ほんとうに、止まった。

「開斗くん……開斗くん!」

彼の名をひたすら連呼する。もう彼の事しか考えられなかった。脇目も振らずに駆け寄る。足がもつれて転びそうになった

「開斗くん!!かい……」

「……?お兄ちゃんが助けてくれたの?」

彼のすぐ側に寄り、抱き起こす。やはり完全に意識を失っているみたいだ。けれど…かすかな呼吸の音は聞こえる。少し安心した。唐突に、彼ではない男の子の声が胸元から聞こえてくる。そこで漸く、彼が助けようとした子供の事を思い出した。自分が視野狭窄に陥って、完全に開斗くんの事以外は何も考えられなくなっていた事にも気が付いた。よりにもよって彼が助けようとした命の事さえ見えなくなるなんて……本当に、自分が情けなくて嫌になる。


「ええ、このお兄ちゃんが貴方の事を助けてくれたの。……大丈夫?」

開斗くんの腕を解いて、この子が出られるようにしてあげる。見る限り彼には怪我はないようだ。本当に良かった。

「純ちゃん!」

後ろから声が聞こえる。この子の母親だろう。純ちゃんは立ち上がり、母親の所まで飛び込んでいく。子供を、本当に大切そうに、安心したように抱きしめる母親の姿を見て開斗くんの守ったものを実感した。だけど……

「あの、彼は……?」

「っ……」

その母親はこちらに近づき、恐る恐る尋ねてきた。心配してくれているのはよくわかる。でも、私だってどう答えればよいのかもわからない。そんな中で、偶然彼の後頭部に触れると、どろりとした生暖かい感触。血だ。


「ひっ……?」

「っ……」

再度思考が硬直してしまう。彼の命が失われていくように感じてしまう。怖い、怖い、怖い。嫌だ、嫌だ……どうすればいい?パニックになって。働かない頭で、それでも精一杯の思考を働かせる。そうだ、すぐに応急処置をしなければ―――。ハンカチを取り出して傷口に当てる。何か固定するものは……そうだ。今履いているニーソを脱ぎ、それを彼の頭に巻きつける、キツく縛って、結ぶ。これで良いのか、不安になる。


「救急車! 誰か救急車を――!」

「119だ」

いつの間にか、大勢の人だかりができていた。周りが言い合う声が聞こえる。誰かがスマホを取り出す。誰かが叫ぶ。興味本位の野次馬ばかりじゃない、彼を助けようとしてくれてる人も何人もいるというのは伝わってくる。それなのに私は―――


「……病院……!」

目に入ったのは、黎山病院――学校の隣にある総合病院だ――の看板だった。

距離にしたら数分。直接運べば救急車を待つより早いかもしれない――その思考が正しいのか、正しくないのか、もうわからない。だけど私はその場で、縋るように結論を作った。

「病院がすぐそこ……! 運べば……!」

「誰か手伝って!彼を黎山病院に……早く……」

なんとか彼を抱き起こす、周囲に助けを求める。早くしないと。単なる女子相応の筋力しかない私では彼を抱えて短時間でそこまでいくのは無理だ。大人か、男子生徒の力を借りないと……大事な人を救えない自分の非力さに心底嫌気が差す。頭の中がもうぐちゃぐちゃだ。指先の感覚がなくなるようにさえ感じる。


「――落ち着きたまえ」



背後からの冷静で落ち着いた声に、私は反射的に振り向いた。


そこにいたのは、長身の男子生徒。背筋がまっすぐで、真っ直ぐな視線。一目見ただけで彼が冷静で知的で頼れそうな人だという印象を抱く。生徒会長の霧島先輩、生徒会メンバーで登校時間に通学路の見回りをやっているというのは聞いた事があった。でも今の私にとってはそういう付随情報なんかよりも、今この場に、私が誰かしら頼れそうな人がいるというのが大切で。

「開斗くんが車から子供を助けて、大怪我して、意識もなくて…早く何とかしないと。……っだから。病院……! すぐそこの黎山病院に……!」

言うべき内容は頭の中にあるのに、言葉として上手く繋がらない。口が回らない、それでも、息も切れ切れに浮かんだ言葉を絞り出す。

「ん……」

あの親子と開斗くん、そして人だかりの方に視線を移して霧島会長は小さく頷く。一瞬で事態を把握したようだ。

「おおまかには分かった。が……君の言うようにそのままそこの黎山病院に運び込んでも、そこで確実に受け入れ可能かはわからない。受け入れられない場合、そこから他所へ回されて――時間がかかり、彼を危険に晒すことになるかもしれない。結局119に連絡して救急車を呼ぶのが確実ではあるのだが…」

「が……そうだな。事が事だし場所も場所だ。特例として受け入れてもらえないか、私が黎山病院に連絡してみよう」」

話す途中で言葉を切り、一瞬考え込み、更に告げてからスマホを取り出し、病院へ連絡を入れる……恐ろしいほどスムーズだ。一瞬で状況を把握しただけじゃない、彼の為にどうすべきか、それを冷静に的確に判断して、分かりやすい言葉で私に説明してくれて行動に移す。


(すごい…怖いくらい落ち着いてて、何でもできて……)

今だって淡々な口調で、でも真剣さが伝わってくる声で病院の人と話し合っている。彼はこういう事が出来るから生徒会長になってその役目を全うしている、特別な人なんだっていう事を差し引いても自分の無知と、未熟さと、無力さが嫌になる。


「……はい!ありがとうございます!! 本当に……感謝いたします―――ええ、それでは」

「特別に受け入れてもらえるようだ。良かった……」

今の今まで冷静だった会長の、初めての感情の篭もった声が聞こえる。明るくて喜びの篭もった声だ。胸を撫で下ろす―――と同時に、彼が救われることを我が身のように喜んでくれた会長の思いやりが嬉しくて、敬うべき人だと心底感じて、そして自分の卑近さを思い知らされるようで、辛い。

「私が彼を運ぼう。深沢くん、悪いが職員室へ行って事情の説明を頼む」


会長の背後にいた、生徒会の深沢先輩がこくり、と頷きすぐに走り出す。既に会長も開斗くんを抱え起こして自分の背に預けさせていた。やりとりも動きもスムーズだ。そのとき。……


「開斗ぉーっ!」

息を切らした声が飛び込んできた。


駆け寄ってきたのは……木島レンくんだ。同じクラスの、少し軽そうで、いつも変な発明品の話ばかりしてる子――くらいの認識。だけど開斗くんと特に親しく話していたりよく一緒にいたりする彼の友人、それは印象に残っていて、彼の名前と顔はよく覚えていた。辺りの様子をぐるっと見回して会長の方に向き直って。

「え……と、開斗を黎山病院まで運ぶって事でよね。多分。だったら俺がいきますよ。こいつとは友達なんで」

おそらくさっきのやりとりは聞こえていなかったはずなのに。この光景を一目見ただけで全て察して判断したのだろうか。彼の飲み込みの速さと頭の回転は会長とそう変わらない程だと思えた。会長はほんの少しだけ驚いた顔で色々考えてたようで、そしてすぐに答えた。

「わかった。彼のことを頼む。木島くん」

彼に任せても大丈夫だ、と判断したのだろう。頷き答える会長の声を受けて、開斗くんの身を受け取った木島くんは少し力みながら開斗くんの体を背負い、病院に向かっていった。


「あの……」

よく知る声がすぐそこから聞こえてきた。目を向けると一緒に登校していたあかり達3人の姿。あまりに衝撃的であわただしいことばかり続いていたせいでみんなの事を失念していた。今の声は澪里だ。物静かで、皆から一歩引いた振る舞いの多い澪里が珍しく前に出て、何かを訴えるようにこっちを見ている。

「お医者さんが診断とかするのに、状況とか知ってる方がやりやすいと思うから……私、見てたから一緒に行って説明してきます……」

「え、あっ……だったら私が……」

「あの、ごめんね。今の星華ちゃん。すごく慌てて、悲しんでて、多分色んなことで頭の中がいっぱいに見えるから、色々説明するのは大変だと思うの。今は私の方が星華ちゃんより落ち着いてると思うから……だから私に任せて」

「―――っ!!、……! っ、!!!!、……すぅ。 う、ん。そう……だよね。」

澪里の提案、というか申し出。言われてみればあった方が良いことだろうと思う。だけど……「私が」という声に当てられた反論は、ぐうの音も出ないほどの正論だった。当たり前だ、私は"それ"に思い至る事さえなかったのだから。澪里の方がどう考えても冷静で、説明できるのは明らかだろう。普段は引っ込み思案な澪里がここまでよく考えて積極的に動いているのに……私は何をしているんだろう。


「さて、そうなると……深沢くんを走らせておいて悪いのだが職員室には私が説明に行くことにしよう。私は事を直接見たわけではない。先生方に説明して彼の事を飲み込んでいただくにあたっても目撃者の証言があるとありがたいと思う。同行頼めるかな、風露さん?」

「えっ……?」

「確かに今しがたのやりとりは見ていたがね。……動かない彼を目の前にして病院で、というよりは職員室に行って説明する分にはいくらか頭も冷えて落ち着いて話せるだろう。難しい事があれば私もフォローするつもりだ」

「会長……はい、ありがとうございますっ」

戸惑う私の目を真っ直ぐに見ながら、会長は真摯に説明をしてくれた。言っていることはわかる。目撃者の説明があったほうが確かにやりやすいだろう。だけど―――本当はそういうのじゃなくて、私の事を気遣ってくれての事だ、というのは私の頭でもすぐに理解できた。私が開斗くんの為に何かしたいのに、何もできなくて焦っていることも彼にはお見通しに違いない。澪里が指摘していた私の状態についても最大限把握した上で、すぐに私のできる事…いや、私がしたい事を提示してくれた。そうでないと私の気分が崩れてしまうから、というのも察しはついているんだろう。……いや、今は自己嫌悪している場合ではない。折角会長が私の事を気遣ってくれたんだ、せめてそれには応えよう。私はどうにか元気を取り繕い、そのまま会長の後を追った。



職員室では、だいたいは会長が主導して事の経緯を説明してくれた。先生たちは顔色を変えて、何度も「大丈夫か」「病院は」と確認してくれて、私も見たことを口にして、必要なことを答えた。どれくらいうまくできたかは分からない。「フォローする」と言ってくれた通り、話の流れに応じて、私が整理して応えやすいように会長が質問を度々振ってくれたのは大いに助かった。そして、説明がひととおり終わって―――職員室を出た廊下で。


 会長が、ぽつりと言った。

「これでやれる限りのベストは尽くしたつもりだが……いや、子どもに、適当なことを言って言いくるめるような真似をしてしまったかもしれないな……」

会長が、少し俯き加減で難しい顔をしている。何でも軽々とこなしてしまう彼のこういう表情を見るのは珍しい。適当なことを言って言いくるめるような真似、というのは多分あの時の事だろう。



―――現場を後にして職員室に向かう直前。開斗くんに助けられたあの子がこちらに駆け寄ってきていた。

「お兄ちゃん…大丈夫だよね?死んだりしないよね?」

不安そうで、泣きそうな顔だった。

そうだ、いい年をした私でもあれほど混乱して取り乱したような出来事だ。年端も行かないこの子にとって、自分を助けてくれた人が、そのせいでもしもの事に……なんていう事になれば平静でいられないのも無理はない。だけどどう言えばいい?私自身彼がどうなるか不安で心配なのに……と思っていると、会長が踵を返しこちらに来た。腰を落とし、あの子と視線を合わせる。

「ああ、大丈夫だ。彼は身を挺して君の事を助けてくれた。いわばヒーローだ。ヒーローはこんな事で死にはしないさ」

優しく微笑みかけてその子の頭をなでる。伝わったのか、泣きそうだった顔は笑顔に変わっていた。その後立ち上がって母親に2、3言を……会長に何度も頭を下げてあの親子はここを後にした―――



「もちろん私だってあの子に言った言葉が本当になるのが一番いいと思ってはいる。ただ、本当に無事なのかそうではないのか、確証も無いのにあんな事を言ったのは誠実な態度ではなかったのかもしれない、とね……」

歩きながら会長はため息をつく。どこか自分を嘲るような表情、力の抜けた声だ。彼のような人でさえこういう事はあるのだろうか。でも……と私は思う。彼のその気持ちと行為が、悪とか間違いであるはずはない、あっていいはずはない、と。考えると同時に口が開いていた。

「会長のそれは……不誠実や誤魔化しなんかじゃない。もし開斗くんがあの後取り返しのつかない事になったかもしれないって知らされたらあの子の心の傷になって、ずっと後を引いてたかもしれない。開斗くんもそんな事は望まないはずです。会長もそこは考えていらっしゃったんでしょう?だからあの言葉は会長の優しさで、気遣いだって…私は思います」

思ったままを、ただ口にする。果たして正しい事を言ってるかどうかなんて自分でも分からなかったけれど、言わなきゃいけないような気がした。


「みんな、本当に何でもできて、色んな人を助けて。でも私は……」

「ありがとう、風露さん。お気遣いに感謝する自分ではあれで正しかったかどうか確信はもてていないのだがね……そう言ってもらえるなら救われる。それに……君は、何もしなかったわけじゃない。最初に彼の側に付いてあげて手当てを施したのも君だろう。目の前であんな事が起こって皆が動転していた中で。」

彼を気遣った事を言うつもりだったのに、塞ぎこんでいた気持ちを抑え切れなくて自分への愚痴をぶつけてしまっていたと気付いたのはそれを口にした後だった。会長にまた気遣わせて励まさせてしまっている。最低だ。

「確かにそれ以上の事をやったのは私や木島くんといった他の人たちだった……だが私らは皆、あの瞬間あの場にはいなかった、だから君よりは落ち着いて考えて対応できた、とも言えるんじゃないかな。」

「誰だっていつでも自分の思うとおりにやれるわけじゃない。普段は"そんなことやるはずがない"と考えているような愚考を自らやらかす事もあるかもしれない。"こんなはずじゃなかった" も "こうするべきだった" も "もっとやれたはず" も、私だって何度も経験はしてきた。そういう運や巡り合わせの良し悪しや、もちろん力のあるなしでも、足りないところを補い合って助け合っていけるのが人間の力だろう? 現に君だって、今私を気遣う言葉を言ってくれたじゃないか。正直に言ってあれでいくらか気分は楽になれたと思う。その上で自分に納得がいかないのなら…それでも、君は今日の事を悔いたり悪く思うべきじゃない。 また明日、いや、明日できなくても明後日やその次の日……自分ができるとき、やれるときに他の誰かを助けて補ってあげればいいじゃないか。君が、今、そうしてくれたように」

会長が言葉を続ける。長く、演説のように、そして口には出してもいない私の心を読んでいるかのように、確実に私のもやっとした気持ちの芯を突き刺してくるような言葉だった。この完璧すぎるような人にもそんな事はあるのかな?なんて思考が一瞬頭をよぎったけどそれは本題じゃない。忘れよう。確かに、この人の言うとおり……明日から、いや、今からでも、少しでも。上手く前向きにやっていけるなら……


そうは思うけど、上手く答えを言葉にできない。会長も私の反応を急かさなかった。無言の時間、他の生徒の足音や窓の外から入ってくる風の音が妙に耳に残る。廊下の分かれ道で、しどろもどろに、どうにか「ありがとうございました」という私に彼は笑顔で返す。どれだけちゃんとやれるか分からないけど。明日から、いや、今からだ。今日の、あの時の自分より少しでも前に進めるように―――



元気で前向きで、勇敢でいつも私を守ってくれていた彼が変わってしまったのは間違いなく4年前の飛行機事故が原因だっただろう。300人以上を乗せた飛行機が墜落、乗客は1人を残して全員が死亡……その唯一残った生存者が彼だった。

いくら自身の命だけは助かったとは言え、同情していたご家族全員を喪い、かつ凄惨な破壊と死者の束が渦巻く地獄にひとり残されたのだろうとは…それがどれほど酷かったのかとても実感できるをは言えないけれど…理解はできた。

彼のご両親には身寄りがいなかったようで、結局、私の父が彼のお父さんの親友だった事もあってうちで彼の身元引き取ることになった。

この時――開斗くんが塞ぎこんでいたり、当り散らしていたらまだ分かりやすかったのかもしれない、とほんの少しでも思ってしまう自分の卑しさが本当に嫌になる。風露家に引き取られてから、彼は以前以上に笑顔を見せて、"家族"を気遣うような振る舞いを見せるようになった。出過ぎないように穏やかで、献身的になって……。

"自分を気遣って助けてくれた人たち"に対して、気を回して明るく振舞っているのは当時小学生だった私にさえすぐに分かった。だけど彼に直接言うのは怖かった……同じ家で暮らしていたはずなのに。

お父さんに相談したときは「情けない事だが私にもどうにもできない。けれど、こういう形でも我々が彼を支えていけば、きっと彼は元気になって生きる力を取り戻してくれる」と言っていたけど、一緒に暮らしているうちは結局それを実感できなかった。だけど、最近の開斗くんを見ていると確かに生き生きとしているように見える。他の人たちと確かな時間を分かち合って幸せな日々を生きていけるようになった……ようにも見える。

少し前、彼が「もういい年になるし、これ以上お世話になるのも申し訳ないと思うので、高校に上がったら元の家で一人で暮らしたいと思います」と言い出したときはショックで心臓が止まるかと思った。やっぱり私では、私達では駄目だったんだろうか…と。でもそうじゃなくて、彼が立ち直ったから、だからなのかもしれない。結局、彼の身に降りかかった悲劇だけが原因じゃない、私が勇気を出して彼に向き合えていなかった、という事だったんだろう。だからこれから――開斗くんに、もっと真っ直ぐ、ちゃんと向き合おう。



と―――決意はしたのだけれど。そう簡単に変われるわけではないのが人間…いや、私という人間であったのは痛感させられた。


4時限目の授業の直前、開斗くんが教室に入ったときは本当に驚いた。彼の事はクラス中で噂になっていたようで、彼が入ってきたときは教室内に歓声が響いてた。

授業が始まったのはすぐで、話しかけることもできなくて……でも時間があったとしても、かけるべき言葉に迷って結局話しかけられなかったかもしれない。

先生には申し訳なかったのだけれど、英語の授業中はずっと開斗くんの様子を伺うのに集中していた、今考えると周りから見て不振な挙動だったかもしれない。彼は授業を真面目に聞いているようで、どこか上の空というか何か考え事をしているようにも見えた。あんな事の直後だ。無理もないだろうとは思う。途中、先生に当てられてなんだか格好いい解答をしたときは、本当に格好いい……と心底思ってしまった。いや、彼は普段から格好いいのだけれど。


お昼休みに入って彼がこっちに向かってきたのには驚きを通り越して心臓が止まるかと思った。彼を正視すると、何考えたら良いかわからなくなりそうで。慌てて窓の外のほうを見ていたのだけれど……。要件は今朝の件について、澪里にお礼を言いに来たようだった、本当に律儀で、そういう所も素敵だ。ただ……実際、あの時の澪里はよくやってたと思う、私なんかよりもずっと。ちらっと見るとそれで少し恥ずかしがってるようにも見える、控えめで内気な子だから無理もないけど……それだけじゃなくて、彼に対して気があるのか?とか考えてしまう。それならそれで結構なことだろう。2人とも私から見て素晴らしい人たちだ、付き合うならきっとよくお似合いだろう。


「最初に佐神くんを助けてくれたのは星華ちゃんだったから。だからまず星華ちゃんにお礼言って」

だけど、あの時の私の事を澪里は開斗くんに話してしまった。何ならあかりや麗奈までもが続けて説明してしまう。軽く全身が強張ってしまう、絶対にあっちの方は向きたくなくなった。みんなが私の事を気遣ってくれてるのは分かる。でもあの時の、あの行為は私にとっては恥や汚点としか思えなくて……だから知られたくないと思った、それで木島くんにも口止めしたのだけれど……


「それでも……風露さんがすぐに来てくれて助けてくれたのは事実なんだろう?それなら、結果的に意味があったとか無かったとか、そういう事で"星華ちゃん"のしてくれた事とか、気持ちとか無かったことにはしたくないんだ。僕自身は助けられたし嬉しかったって思ってる。これも僕にとって確かなんだ。」

開斗くんはそう言ってくれた。お世辞とか形だけの感謝とかじゃない、真剣な気持ちは伝わってくる。気付けば顔は彼のほうを向いていた。すぐ側まで来ている、私の事を真っ直ぐに見つめている。ここで―――あの小賢しい口止めがどれほど愚かな行為だったのかという事をよく痛感した。こんなにも自分の気持ちを真っ直ぐぶつけてくれるような人に向けて―――最低だ。だけど、それなのに、頭の中が熱くなってる気がする。全身が燃えそうになってるように感じる。息が荒くなってるのが自分でも分かる。なんだか目の焦点が合わないみたいに視界がぼやけている……と思えば、彼の顔、姿は視界の中で、これ以上なく明確に像を結んでいた。何か、何か言わなければ……と思考は必死で回転するのだけれど、何しろ「星華ちゃん」と呼んでくれた事にさえ気づかないくらい頭の中がもうぐちゃぐちゃだ。、伝えるための言葉が定まらない。


「……僕の言いたい事はそれだけだから。本当にありがとう、風露さん、七海さん。 あと日向さんと一条さんも、お昼の時間邪魔しちゃってごめん」

(あ……あぁぁぁっ……?)

でも、私が言葉を固めて口を開く前に、彼は行ってしまった。彼のほうから向き合ってくれたのに、時間はあったはずなのに、なんて私は愚図で愚かなんだろう。いたたまれなくなって、これ以上彼のほうを見ていたら気がどうにかなりそうだった。結局、また窓の外のほうに目が向いてしまう。この昼休みでも失態続きだったけど、とりあえず……視界に空を入れて、ちょっとでも思考をクリアにして冷静にならないと。すぐ側で3人が佐神くんの事で話しているのが聞こえてくる、そりゃそうだろう。気にならないはずはない。あまりその話に首を突っ込む気はなかったのだけど、反射的に「彼はかっこいい」とか「素敵だ」とか我慢しきれずに色々と言ってしまったような気がする。



そういうわけで―――決意を新たにした早々に人はそう簡単に変われない、という現実を私は突きつけられた。けれども朝よりはずいぶん明るくて前向きな気持ちになれたような気がする。彼が無事で、少しでも彼と話せて、僅かにだけ向き合えたからだと思う。慌てる必要はないんだ。今日は彼のほうから来てくれたけど少しずつでも良い。会長が言ってくれたように、明日は今日よりほんの少し、明後日は明日よりほんの少し……そうやって、動こう。自分から彼と向き合おう、気持ちを伝えよう。




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