第28話

ガルガディア辺境伯領での結婚式から、五年という月日が流れた。


かつて「北の果ての貧乏領地」と呼ばれたこの場所は、今や大陸有数の観光・産業都市へと変貌を遂げていた。


街道は整備され、物流網が確立。


山から湧き出る温泉を利用した「魔王リゾート」は、連日満室の大盛況。


そして、特産品である『魔王饅頭』は、そのキモ可愛い見た目とロシアンルーレットの中毒性で、国境を超えて愛される銘菓となっていた。


そんな活気溢れる街を見下ろす領主の館。


その執務室で、私は今日も電卓を叩いていた。


「……ふむ。今期の経常利益、対前年比一二〇パーセント増。温泉部門の伸びが著しいですね」


私は満足げに頷き、眼鏡の位置を直した。


「母様。そこの計算、間違っていますよ」


足元から、冷静な指摘が飛んできた。


見下ろすと、私の膝丈ほどの身長の男の子が、小さなそろばんを持って立っていた。


黒髪に、深い碧眼。アレクセイ様譲りの整った顔立ちだが、その瞳には私と同じ「冷徹な光(ビジネスアイ)」が宿っている。


私たちの一人息子、アラン(四歳)だ。


「あら。どこですか?」


「減価償却費の計上漏れです。温泉施設の改修費用が含まれていません」


「……おや。本当ですね」


私は修正液を取り出した。


「鋭い指摘です、アラン。監査役としての適性(スペック)が高いですね。ご褒美に、おやつの饅頭を一つ追加しましょう」


「感謝します。ただし激辛は勘弁してください」


「確率は一二分の一ですよ。リスクを恐れては利益は得られません」


「……母様、教育方針がスパルタすぎませんか?」


四歳児とは思えない語彙力で溜息をつく息子。


間違いなく、私のDNAだ。


「二人とも、根詰めすぎだぞ」


そこへ、大きな扉が開いて、アレクセイ様が入ってきた。


五年経っても、その逞しさは変わらない。いや、幸せ太り……ではなく、幸せな生活のおかげで、表情が以前よりずっと柔らかくなっている。


「パパ!」


アランがそろばんを置いて駆け寄る。


「おお、アラン。いい子にしていたか?」


アレクセイ様は軽々と息子を抱き上げ、高い高いをした。


「うわぁ! 高い! 視界良好です!」


「ハハハ! そうかそうか!」


「……閣下。執務室で暴れないでください。書類が飛びます」


私が窘めると、アレクセイ様は息子を抱いたまま、私の元へ歩み寄ってきた。


「ユエン。少しは休憩したらどうだ? 顔色が仕事モードのままだぞ」


「休憩? 必要ありません。数字を見ている時が一番リラックスできますから」


「嘘をつけ。……昨夜、肩が凝っていると言っていただろう」


彼は空いた片手で、私の肩を優しく揉んだ。


ゴツゴツした手の温かさ。


五年前と変わらない、安心する温度。


「……うっ。ツボに入っています」


「だろう? マッサージの腕も上がったからな」


彼はニカっと笑った。


この五年間、本当に色々なことがあった。


結婚式直後の温泉ブーム到来。


ミナ様からの「南国のフルーツ」輸入事業の立ち上げ。


そして、アランの誕生。


忙しくも、目が回るような充実した日々。


かつての「悪役令嬢」としての汚名は完全に消え失せ、今や私は「北の繁栄の女神(ただし守銭奴)」として、畏敬の念を集めているらしい。


「そういえば、手紙が来ていたぞ」


アレクセイ様が懐から封筒を取り出した。


「南のミナ嬢からだ」


「あら、ミナ様から?」


私は手紙を受け取り、開封した。


便箋からは、南国の甘い香りと共に、彼女の元気な文字が躍り出てきた。


『お姉様、元気ー!?

こっちは最高よ! 旦那様(元副団長)が毎日お魚を釣ってきてくれるから、私、ちょっと太っちゃったかも!

あ、そうそう。例の「ジェラルド君」の情報だけどね……』


ミナ様の手紙には、衝撃の近況が綴られていた。


廃嫡され、湿地帯に飛ばされたジェラルド元殿下。


彼はなんと、現地で新種の毒ガエルを発見し、その毒から特効薬を作ることに成功したらしい。


今や『カエル博士』として学会で注目され、現地の村娘と結婚して幸せに暮らしているという。


『あいつ、カエルのことになると天才的ね。幸せそうでムカつくけど、まあ許してあげるわ!』


手紙はそう結ばれていた。


「……ふっ」


私は思わず吹き出した。


「どうした?」


「いえ。……みんな、適材適所(あるべき場所)に落ち着いたようですね」


私は手紙を畳んだ。


「ジェラルド様も、王宮という合わない環境から解放されて、ようやく才能を開花させたようです。……彼にとっても、あの婚約破棄は『成功』だったのかもしれません」


「お前のおかげだな」


アレクセイ様が言った。


「お前が、それぞれの生きるべき道を示してくれた。……俺も、その一人だ」


彼はアランを床に下ろし、改めて私に向き直った。


「ユエン。……俺は今、幸せだ」


「……急に何ですか。改まって」


「言いたくなったんだ。お前と出会って、俺の世界は変わった。……灰色だった景色が、鮮やかになった」


彼は私の手を取り、薬指に光る指輪に口付けた。


「ありがとう。俺を……選んでくれて」


その瞳は、出会った頃のような怯えも、孤独もない。


ただ真っ直ぐな愛と、自信に満ち溢れている。


私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


不整脈?


いいえ。これはもう、私の体の一部となった、愛おしい鼓動だ。


「……感謝するのは、私の方です」


私は彼の手を握り返した。


「私の無茶な経営改革に文句も言わず付き合い、私の作った実験料理を完食し、そして……私が弱音を吐いた時は、必ず抱きしめてくれた」


私はアランの頭を撫でた。


「貴方という優良物件(パートナー)への投資は……私の人生において、最も成功したプロジェクトです」


「投資、か。お前らしい」


彼は苦笑した。


「で? その投資の収支(リターン)は、どうなんだ?」


私は少し考えて、ニヤリと笑った。


「計算不能(プライスレス)ですね」


私は窓の方へと歩いた。


カーテンを開けると、夕日に染まる領地の全景が見えた。


煙突から立ち昇る煙。


行き交う人々の笑顔。


そして、遠くに見える雪山。


かつては寒くて何もない場所だった。


でも今は、私たちが作り上げた、温かくて豊かな「王国」だ。


「……アレクセイ。アラン」


私は二人を呼んだ。


二人が私の両脇に立つ。


大きな手と、小さな手が、私の手を握る。


「これから、もっと忙しくなりますよ。隣の領地との貿易協定、鉱山の新規開発、そしてアランの帝王学教育……」


「うへぇ、まだ働くのか?」


「母様、僕はそろそろおやつの時間が……」


「ダメです。時は金なり。……でも」


私は二人の顔を交互に見て、心からの笑顔を向けた。


「今日は少し早めに切り上げて……みんなで、温泉にでも行きましょうか」


「「!!」」


二人の目が輝いた。


「やった! パパ、背中流して!」


「よし! ユエン、お前もだぞ! 混浴だ!」


「……家族風呂ですよ。変な期待はしないでください」


「期待くらいさせろ!」


私たちは笑いながら、執務室を後にした。


廊下には、私の作った『幸福追求プロジェクト』の契約書が、今も大切に飾られている。


その一番下の行には、こう書き足されていた。


『追記:この契約は、永遠に更新され続けるものとする。――愛を込めて』


悪役令嬢として転生したわけでも、特別なチート能力があるわけでもない。


ただ、少しだけ計算高くて、合理的で、そして不器用な私。


そんな私が手に入れたのは、世界中のどんな財宝よりも価値のある、「損益分岐点」を遥かに超えた愛だった。


「……さて、行きますか!」


私は夫と息子の手を引き、力強く歩き出した。


私の新しい人生の決算報告書には、今日も、明日も、明後日も。


きっと大きく、太い文字で『黒字』と刻まれ続けることだろう。

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悪役令嬢は、その婚約破棄を「契約満了」として受理します。 パリパリかぷちーの @cappuccino-pary

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