第27話
王都の最高級ホテル、最上階のロイヤルスイート。
広さは一〇〇平米。
床には厚さ五センチの絨毯。
天井にはクリスタルのシャンデリア。
そして、部屋の中央にはキングサイズの天蓋付きベッドが鎮座している。
「……無駄に広いです」
私は部屋を見渡して、第一声を放った。
「二人で宿泊するのに、この空間容積は必要ありません。冷暖房効率が悪すぎます」
「……ユエン」
背後で鍵をかけたアレクセイ様が、苦笑交じりに近づいてくる。
「今は効率の話はやめよう。……雰囲気というものがあるだろう?」
「雰囲気? 非実用的な概念ですね」
私は窓際に逃げた。
夜景が綺麗だ。
だが、ガラスに映る自分の顔は、茹でたタコのように赤い。
(……逃げ場がありません)
結婚式という一大プロジェクトは成功した。
しかし、本当の「納品」はこれからだ。
『初夜』。
夫婦としての契約履行。
頭ではわかっている。覚悟も決めたつもりだ。
だが、いざこの「魔王」と二人きりの密室に放り込まれると、私の防衛本能(生存本能)が警報を鳴らしまくっていた。
「……こっちへ来い」
アレクセイ様が手招きをする。
彼はすでにタキシードの上着を脱ぎ、シャツのボタンを二つほど開けている。
その隙間から覗く鎖骨と筋肉が、無駄に艶かしい。
「……あの、まずは業務報告を」
「後だ」
「では、明日のスケジュールの確認を」
「なしだ」
「……お風呂! お風呂に入ってきます!」
私がバスルームへダッシュしようとすると、長い腕が伸びてきて、襟首を掴まれた。
「捕まえた」
「ひゃっ!?」
私は軽々と持ち上げられ、ふわふわのベッドの上に放り投げられた。
ボフッ。
「……あう」
沈み込む体。
すぐに起き上がろうとしたが、覆いかぶさってきたアレクセイ様の影に封じられた。
「……観念しろ」
至近距離。
彼の瞳が、熱っぽく潤んでいる。
「俺はもう、限界だ」
「げ、限界……?」
「式の最中、お前が可愛すぎて……理性が焼き切れそうだった」
彼は私の頬に手を添えた。
「ユエン。……俺はお前を、壊したくない。大切にしたい」
「は、はい。推奨します。私は耐久性の低いデリケートな機材ですので、取り扱いには注意を……」
「だが」
彼は唇を舐めた。
「今夜は、手加減できる自信がない」
「えっ?」
「お前が悪いんだぞ? あんな可愛い誓いの言葉を言うから……」
彼の顔が近づいてくる。
キスされる。
私はギュッと目を閉じた。
……が、何も起きない。
「……?」
恐る恐る目を開けると、アレクセイ様が困った顔で固まっていた。
「……どうしたのですか?」
「……ドレスの構造がわからん」
彼は私の背中のホックと格闘していた。
「なんだこの複雑な紐は。暗号か? どこを引けば脱げるんだ?」
「……ああ、コルセットですね。それは三次元的な紐解きアルゴリズムが必要です」
雰囲気が台無しである。
「貸してください。私がやります」
「いや、俺がやる。……夫の特権だ」
彼は真剣な顔で、太い指先を駆使してレースの紐と格闘し始めた。
その様子は、熊が編み物をしているようで、少し可愛い。
「……くそっ、ちぎっていいか?」
「ダメです! レンタル品ですよ! 弁償金が発生します!」
「金なら払う!」
「資源の無駄です! ……ああっ、そこじゃなくて、そのループを右に……!」
すったもんだの末、ようやくドレスが脱げた頃には、二人とも汗だくだった。
「……ふぅ。魔物討伐より疲れた」
アレクセイ様が額の汗を拭う。
私は下着姿(※マリーが用意した勝負下着)になり、恥ずかしさで爆発しそうだった。
「……見ないでください」
シーツを体に巻きつけて隠す。
「無理だ。……綺麗だ」
彼は恍惚とした表情で私を見ている。
「ユエン。……電気を消していいか?」
「はい。光熱費の節約になります」
「そうじゃない」
パチン、と部屋の明かりが消え、常夜灯だけの薄暗い空間になる。
アレクセイ様がベッドに入ってきた。
ベッドが大きく沈む。
重い。熱い。
「……ユエン」
彼が背後から私を抱きしめる。
その体温が、肌に直接伝わってくる。
心臓が痛い。
「……あ、あの、閣下」
「アレクセイだ」
「アレクセイ。……確認ですが、工程表(マニュアル)はありますか?」
「……ない。本能に従う」
「本能! 最も危険な行動指針です! リスクヘッジのために、まずは話し合いを……」
「喋りすぎだ」
彼は私の体をくるりと反転させ、唇を塞いだ。
「んっ……!」
言葉が封じられる。
甘く、深いキス。
思考回路が溶けていく。
彼の手が、背中を這う。
その手は大きくて、ゴツゴツしていて、でも驚くほど優しい。
「……愛してる」
合間に零れる、彼の囁き。
「ずっと、こうしたかった。……お前と一つになりたかった」
「……私も……」
抗えない。
もう、計算も理屈も通用しない。
私は彼の首に腕を回し、しがみついた。
「……優しくしてくださいね? 初期不良(初めて)ですので」
「ああ。……俺の全てをかけて、愛する」
そして、夜は深まり――。
「……いっ、痛いです!」
「す、すまん! 力の加減が……!」
「物理演算がおかしいです! 質量差を考慮してください!」
「どうすればいいんだ!? 動くなと言うのか!?」
「角度調整が必要です! 座標X軸を修正して……!」
「数学を持ち込むな! ……くそっ、可愛い!」
「きゃっ、そこはデリケートゾーンです!」
……色気があるのかないのか分からない会話が、しばらく続いたとか、続かなかったとか。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。
「……うぅ」
全身が痛い。
まるで、馬車に轢かれたような、あるいは激しい筋肉痛のようなダルさだ。
「……損害(ダメージ)甚大ですね」
私は天井を見上げて呟いた。
隣を見ると、アレクセイ様が幸せそうな顔で眠っていた。
その寝顔は、いつもの険しさが消え、完全に無防備な少年のようだ。
「……満足そうですね」
私は彼の頬をつついた。
昨夜の彼は、途中から「魔王モード」全開だった。
私の「待った」も「タイム」も聞き入れず、文字通り朝までコース。
「……持久力(スタミナ)がありすぎます」
私はため息をついたが、不思議と不快感はなかった。
むしろ、体の痛みすら、愛された証のように思えて、胸がじんわりと温かい。
(……これが、夫婦になるということですか)
私はシーツの中で、彼の手を握った。
「……ん」
アレクセイ様が目を覚ました。
私を見ると、パァッと顔を輝かせる。
「おはよう、ユエン。……体調はどうだ?」
「最悪です。全身打撲に近い症状があります。労災を申請します」
私が睨むと、彼は申し訳なさそうに頭をかいた。
「すまん。……止まれなかった」
彼は私の肩を抱き寄せ、おでこにキスをした。
「でも、幸せだった。……お前はどうだ?」
直球な質問。
私は顔を赤らめ、視線を逸らした。
「……ノーコメントです」
「素直じゃないな」
「……悪くは、なかったです。……星、四つくらいはあげます」
「一つ足りないな。次は満点を目指して頑張るか」
「次!? しばらく休業期間を設けます!」
「毎晩営業してくれ」
「過労死します!」
私たちは朝から、そんなどうしようもない会話を繰り広げた。
窓の外には、新しい一日の太陽が昇っている。
昨日までとは違う、新しい関係。
私たちはもう、ただのビジネスパートナーではない。
心も体も結ばれた、本物の夫婦だ。
「……腹が減ったな」
アレクセイ様が言った。
「ルームサービスを頼みましょう。最高級の朝食を」
「ああ。……その前に」
彼はまた、私に覆いかぶさってきた。
「朝のデザートを」
「却下です! 朝食が冷めます!」
「冷めてもいい」
「私が持ちません!」
私の悲鳴(と、少しの笑い声)が、ロイヤルスイートに響き渡った。
こうして、怒涛の初夜と翌朝は過ぎていった。
王都でのイベントは、これですべて終了。
あとは、私たちの愛する領地へ帰り、本当の「幸せな生活」を築き上げていくだけだ。
「……帰りましょうか、あなた」
「ああ。帰ろう、俺の愛しい妻よ」
私たちは身支度を整え、チェックアウトを済ませた。
ホテルのロビーで待っていたセバスチャンとマリーが、私の首元のキスマーク(隠しきれなかった)を見て、顔を見合わせてニヤニヤしていたことは、記憶から抹消することにした。
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