第25話
ガルガディア辺境伯領への帰還から一夜明けた、早朝。
私は、いつものように執務室でデスクに向かっていた。
ただし、私の目の前にあるのは領地の帳簿ではない。
徹夜で作成した、分厚い羊皮紙の束だ。
「……よし。リーガルチェック完了。誤字脱字なし。条文の整合性も完璧です」
私は満足げに頷き、眼鏡の位置を直した。
ガチャリ。
タイミングよく、ドアが開く。
「おはよう、ユエン。……早いな」
アレクセイ様が入ってきた。
彼はまだ寝癖がついたままの髪で、あくびを噛み殺している。
昨夜は「朝まで離さない」という予告通り、私たちは一つのベッドで眠った。
……といっても、長旅の疲れもあって、お互いに泥のように爆睡してしまっただけだが。
(……色気のない初夜(仮)でしたね)
私は少しだけ赤面しながら、咳払いをした。
「おはようございます、閣下。……いえ、アレクセイ」
私は立ち上がり、デスクの前の椅子を指差した。
「座ってください。重要な『商談』があります」
「商談? 朝飯の前にか?」
アレクセイ様は不思議そうに首を傾げつつも、素直に椅子に座った。
私は、手元の書類の束を、彼の前にドスンと置いた。
「これは?」
「新しい契約書の草案(ドラフト)です」
私は宣言した。
「これまでの『雇用契約』を破棄し、新たな関係性を定義するための『婚姻契約書』……および『相互幸福追求に関する覚書』です」
「……幸福追求?」
「はい。私たちはいよいよ結婚という一大プロジェクトに着手します。しかし、愛だの恋だのといった感情は流動的で、数値化できません。そこで、互いの権利と義務を明文化し、持続可能な関係(サステナビリティ)を構築する必要があります」
私は指示棒で、第一条を指した。
「まず、第一条。『甲(ユエン)の責務』について」
私は読み上げた。
『甲は、乙(アレクセイ)の心身の健康を管理し、領地経営を黒字化することで、乙に精神的な安定と物理的な豊かさを提供する義務を負う』
「……ふむ」
「つまり、私が貴方を養い、守り、楽をさせるということです。貴方はもう、資金繰りに悩む必要も、一人で魔物と戦って傷つく必要もありません。全てのバックアップは私が請け負います」
アレクセイ様が目を丸くした。
「……それじゃ、俺はヒモじゃないか?」
「違います。『象徴(シンボル)』です。貴方はただ、そこにいて笑っていてくれればいいのです。それだけで領民の士気(モチベーション)は維持されます」
私はページをめくった。
「次に、第二条。『乙(アレクセイ)の責務』について」
『乙は、甲に対し、無制限かつ無条件の愛を提供し、甲が「もう無理」と音を上げるまで甘やかす義務を負う。また、甲の作成した食事は、たとえ失敗作であっても笑顔で完食すること』
「……後半、リスクが高くないか?」
「愛があれば消化できます」
私は強引に進めた。
「そして、ここが最重要項目です。第三条。『契約の解除条件』」
私はアレクセイ様の目を見つめた。
「この契約は、どちらかが死亡するまで解除できません。……いえ、死亡後も魂の所有権は継続されるものとします。つまり、永久契約(エターナル・ボンド)です」
私は息継ぎをした。
一気に喋ってしまった。
心臓がうるさい。
こんな、ガチガチの契約書という形にしなければ、「一生そばにいたい」と言えない自分がもどかしい。
「……どうですか? 異議申し立て期間は設けますが」
私が尋ねると、アレクセイ様は書類をじっと見つめ、そして……。
「……くっ」
肩を震わせた。
「ぷっ……はははは!」
彼は豪快に笑い出した。
「なんだこれは! 『失敗作も完食』とか『魂の所有権』とか……! お前、本気でこれを徹夜で作ったのか?」
「わ、笑うところではありません! 大真面目です!」
私は顔を真っ赤にして抗議した。
「私はビジネスライクに、最も合理的でリスクの少ない愛の形を提案しているのです!」
「ああ、わかってる。……わかってるよ」
彼は笑い涙を拭うと、愛おしそうに私を見上げた。
「ユエン。……お前は本当に、愛くるしいな」
「か、可愛くはありません! 合理的と言ってください!」
「いや、可愛い。……こんな契約書、世界中探してもお前しか書けない」
彼は書類を引き寄せ、ポケットからペンを取り出した。
「異議なし。……全面的に合意する」
彼は迷うことなく、署名欄にサインをした。
力強い筆跡。
『アレクセイ・ガルガディア』。
「……いいのですか? よく読まなくて」
「必要ない。お前が書いたものなら、俺にとっては聖書と同じだ」
彼はサインした書類を私に手渡した。
「これで、俺の魂までお前のものだ。……責任、取ってくれよ?」
「……はい。必ず、黒字(しあわせ)にしてみせます」
私は書類を胸に抱きしめた。
羊皮紙の冷たい感触の奥に、彼の体温を感じる気がした。
「あ、そうだ。一つだけ追加条項を入れたいんだが」
アレクセイ様が言った。
「何ですか? 修正ペンを持ってきます」
「いや、口頭契約でいい」
彼は立ち上がり、机越しに身を乗り出した。
「『甲(ユエン)は、辛い時や苦しい時、乙(アレクセイ)に頼ること。一人で抱え込まず、乙の胸で泣く権利を行使すること』……これを義務付けたい」
彼の大きな手が、私の頬に触れる。
「お前は強がりだからな。……俺の前では、弱音を吐いてもいいんだぞ」
その言葉に、私は鼻の奥がツンとした。
私の弱点(ボトルネック)を、この人は完璧に把握している。
「……善処します」
「善処じゃダメだ。確約しろ」
「……努力目標ということで」
「まあいい。徐々に守らせていくさ」
彼は優しく微笑み、チュッ、と私の唇にキスをした。
「契約成立(ディール)だ」
その時、廊下からドタドタと足音が聞こえ、ドアが勢いよく開いた。
「お嬢様! 旦那様! 大変です!」
マリーが飛び込んできた。
後ろにはセバスチャンもいる。
「朝から騒がしいですね。労働災害ですか?」
「違います! 結婚式の日取りが決まりました!」
セバスチャンが興奮気味に言った。
「王都からの連絡で、来月の一日に決定しました! 陛下も参列されるとのことです!」
「来月!? 準備期間(リードタイム)が三週間しかありませんよ!?」
私は絶叫した。
「招待状の発送、衣装の手配、会場設営、料理のメニュー開発……通常なら半年かかるプロジェクトです!」
「そこを何とかするのがお嬢様の手腕でしょう!」
ミナ様も顔を出して、無責任に煽る。
「ちなみに、私はウェディングケーキのデザイン担当に立候補しまーす! 五段重ねの『魔王饅頭タワー』にする予定!」
「却下です! 倒壊リスクが高すぎます!」
私は頭を抱えた。
甘い新婚生活の余韻に浸る間もなく、新たなデスマーチが始まったようだ。
「……ユエン」
アレクセイ様が、困ったように、でも楽しそうに私を見た。
「やるしかないな。……俺たちの『最初の共同プロジェクト』だ」
「……そうですね」
私は眼鏡を押し上げ、気合を入れ直した。
「わかりました。総員、配置につきなさい!」
私は執務室の中央で叫んだ。
「これより『結婚式強行プロジェクト』を開始します! 目標は、予算内での最高品質の実現! そして、参列者全員の度肝を抜くことです!」
「「「イエッサー!」」」
使用人たちの声が揃う。
「セバスチャンは王都の業者と価格交渉を! 一割……いえ、二割は値切ってきなさい!」
「はっ、胃薬持参で挑みます!」
「マリーは衣装の採寸と、ダイエットメニューの考案! 私のウエストをあと二センチ絞ります!」
「了解です! 夕食は草中心にします!」
「ミナ様は……余計なことをしないように監視をつけます!」
「えーっ!?」
矢継ぎ早に指示を飛ばす私を見て、アレクセイ様が満足そうに頷いている。
「……やはり、お前は現場にいる時が一番輝いているな」
「褒め言葉として受け取ります。……さあ、アレクセイ。貴方にも働いてもらいますよ」
私は彼に、分厚いリストを渡した。
「招待客リストのチェックです。政敵、元カノ、借金取り……リスクのある人物は全て排除してください」
「借金取りはいないが……元カノもいないな」
「本当ですか? 隠していると後で監査が入りますよ?」
「誓っていない。俺の人生には、お前しかいない」
サラリと言ってのける彼に、私はまた顔が熱くなった。
「……言葉の攻撃力が上がっていますね。式までに私の心臓が保つか心配です」
「鍛えておけ。式当日は、もっとすごいことになるぞ」
彼はニヤリと笑った。
こうして、怒涛の結婚式準備期間がスタートした。
私の作った契約書は、執務室の額縁に飾られることになった。
『幸福追求プロジェクト』。
その納期は一生。
予算は無限大(愛)。
最高に非効率で、最高に幸せなプロジェクトの幕開けだった。
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