第24話
王都を離れて数日。
私たちの乗る馬車は、順調に北へと進んでいた。
窓の外は、徐々に懐かしい銀世界へと変わっていく。
本来なら、私はこの移動時間を活用して、次期四半期の事業計画書を作成しているはずだった。
しかし。
「……」
「……」
進まない。
ペン先が紙の上で止まったままだ。
理由は明白である。
向かいの席に座るアレクセイ様が、さっきから無言で私を凝視しているからだ。
それも、ただ見ているのではない。
獲物を狙う肉食獣のような、それでいて、大切な宝物を見守る番人のような。
熱っぽく、粘着質な視線。
「……閣下」
私はたまらずペンを置いた。
「業務妨害です。私の顔に何か書いてありますか? それとも、『魔王饅頭』の売上計算にミスでも?」
「いや、違う」
アレクセイ様は、頬杖をついたまま首を振った。
「ただ……見ていたかっただけだ」
「非効率です。私の顔を見たところで、金貨は一枚も増えませんよ」
「俺の精神的充足感(メリット)が増える」
「……っ」
最近、この男は口が上手くなった。
以前は「うむ」とか「ああ」しか言わなかったくせに、王都での一件以来、妙にストレートな物言いをするようになったのだ。
ミナ様の持っていた恋愛小説を読んだ影響だろうか。教育に悪い。
私は咳払いをして、視線を逸らした。
「……充足感なら、カエルの置物を眺めていてください。ジェラルド殿下から返却された分が山ほどありますから」
「あれはいらん。……俺が見たいのは、お前だ」
彼は身を乗り出し、テーブル越しに私の手元にある書類をそっと退けた。
「ユエン。仕事は少し休め。……話がしたい」
「話? 今後の領地経営についてですか? それなら議題を」
「違う。……俺たちについてだ」
空気が変わった。
馬車の中の温度が、一度上がった気がした。
アレクセイ様は、私の手を取り、彼自身の大きくゴツゴツした掌の中に包み込んだ。
「……王都では、勢いで『妻』だの『愛している』だのと言ったが」
彼は真剣な眼差しを向けてくる。
「俺は、まだお前に……男として、きちんと向き合っていなかった気がする」
「男として?」
「ああ。……俺はずっと、お前を『救世主』として見ていた」
彼は自嘲気味に笑った。
「廃れゆく領地を救い、俺の心を救ってくれた女神。……だから、崇め、守り、従うことが愛だと思っていた」
確かに。
彼は私に対して、どこか「下僕」のような、あるいは「忠実な騎士」のような接し方をしてきた。
私の指示には絶対服従。
私の機嫌を最優先。
それは経営者としては扱いやすいが、パートナーとしては……少し、距離を感じることもあった。
「ですが、それで上手くいっていたではありませんか。需要と供給が一致しています」
「それだけじゃ、足りなくなったんだ」
彼は私の手を、強く握りしめた。
痛いほどではない。けれど、逃げられない強さ。
「王都で、お前が他の男たちに囲まれているのを見て……俺の中に、醜い感情が生まれた」
「醜い感情?」
「独占欲だ」
彼の瞳の奥で、暗い炎が揺らめいた。
「お前が笑う相手は、俺だけでいい。お前の才覚を振るう場所は、俺の領地だけでいい。……お前の全てを、俺だけのものにして閉じ込めておきたいと、そう思った」
ドキリ、とした。
普段の温厚な彼からは想像もできない、危うい言葉。
それはまさに、「魔王」と呼ばれる男の本能のようだった。
「……非合理的ですね。私の能力を独占すれば、社会的損失が」
「知ったことか」
彼は私の言葉を遮った。
「俺は聖人君子じゃない。……ただの、欲深い男だ」
彼は私の手を引き寄せ、その手首の内側に――脈打つ血管の上に、唇を落とした。
「ひゃっ……!?」
熱い。
唇の感触が、電流のように全身を駆け巡る。
「ユエン。……俺はお前を、労働力として見ているんじゃない」
彼は唇を離さずに、上目遣いで私を見た。
「一人の女として……欲情している」
「よ、よく……じょ……!?」
私の脳内サーバーがダウンした。
なんて言葉を使うんだ。
品行方正な元王太子ですら、そんな直接的な単語は使わなかったぞ。
「か、閣下! 言葉を選んでください! TPOをわきまえて!」
「選んだ結果だ。……綺麗な言葉で飾るのはやめた」
彼は立ち上がり、狭い馬車の中で私の隣の席へと移動してきた。
逃げ場がない。
彼の巨大な体が、私を壁際に追い詰める。
「お前の、その冷静な目が好きだ。……でも、その目が俺だけを見て、熱く潤むところが見たい」
彼の指が、私の眼鏡のフレームに触れる。
そして、ゆっくりと眼鏡を外された。
視界がぼやける。
でも、目の前にある彼の顔だけは、鮮明に見えた。
「お前の、その動かない口元が好きだ。……でも、その口から俺の名前を呼んで、甘い声を出すところを聞きたい」
「……っ、アレク、セイ……」
「そうだ。……もっと呼んでくれ」
彼は眼鏡をサイドテーブルに置くと、私の腰に手を回した。
「俺はもう、お前の『便利な部下』じゃいられない。……お前の『夫』になりたいんだ」
夫。
それは契約上の役割ではない。
生物としての、雄としての宣言。
「……覚悟はいいか? ユエン」
彼は私の耳元で囁いた。
「屋敷に戻ったら……もう、別々の部屋では寝かせない」
「……!」
「朝まで……俺の腕の中にいてもらう。……拒否権はない」
それは、第1話で彼が言った「拒否権はない」とは、全く違う響きを持っていた。
あの時は、強引なヘッドハンティング。
今回は、逃れられない求愛。
私の心臓は、早鐘を打つどころか、破裂しそうだった。
体温が急上昇し、指先が震える。
(……怖い)
そう思った。
でも、それは恐怖ではない。
未知の領域へ踏み込む時の、スリルと期待がない交ぜになった「武者震い」だ。
私は震える手で、彼の胸元のシャツを掴んだ。
「……強欲ですね、魔王様」
私は精一杯の強がりで、彼を睨み返した(眼鏡がないので睨めていないかもしれないが)。
「私の全てを独占するなら……それ相応の『維持費(メンテナンスコスト)』がかかりますよ?」
「ああ。いくらでも払おう」
「……高いですよ? 毎日愛を囁いて、毎日抱きしめて、私が死ぬまで一番に優先してもらいます」
「安いもんだ」
彼は愛おしそうに目を細め、私の額にコツンと自分の額を当てた。
「俺の命も、魂も、全部お前のものだ。……だから、お前の心をくれ」
「……もう、あげましたよ」
私は観念して、目を閉じた。
「とっくの昔に……貴方のものです」
言葉にした瞬間、涙が出そうになった。
ああ、私は認めてしまった。
数字でも、契約でもない。
ただ、この人が好きだという感情を。
合理性の欠片もない、バカげた感情。
でも、それがこんなにも心地よくて、温かいなんて。
「……ありがとう、ユエン」
彼は私を優しく抱きしめた。
今までのような「保護者」としてのハグではない。
強く、所有を主張するような、男の抱擁。
馬車が大きく揺れた。
でも、彼の腕の中は、世界で一番安全で、そして危険な場所だった。
「……あとどのくらいで着きますか?」
私が彼の胸に顔を埋めたまま聞くと、彼は窓の外を見て答えた。
「あと半日ほどだ」
「……長いです」
「そうだな。……待ちきれないな」
彼の声が、少しだけ掠れていた。
私たちは、残りの時間を、ただ互いの体温を確かめ合うように過ごした。
書類も、計算機も、もういらない。
今ここにあるのは、恋に落ちた一人の男と女だけ。
夕日が差し込み、車内を茜色に染める。
私の「鉄仮面」は、とっくに溶け落ちていた。
鏡を見なくてもわかる。
今の私はきっと、自分でも見たことがないような、だらしない顔をしているはずだ。
(……悔しいですが、完敗ですね)
私は心の中で白旗を揚げた。
ビジネスでは連戦連勝の私が、恋愛市場においては、この不器用な魔王に手玉に取られている。
でも、その敗北感は、どんな勝利よりも甘美だった。
「……愛しています、アレクセイ」
私は、ようやく言葉にできた。
小さな、蚊の鳴くような声だったけれど。
「……ああ。俺もだ」
彼は聞き逃さず、嬉しそうに私の髪にキスをした。
こうして、私たちの帰路は、甘い沈黙と共に過ぎていった。
屋敷に着けば、そこには忙しい日常が待っている。
結婚式の準備、領地経営、そして……彼が予告した「初夜」という名のメインイベント。
私の心臓が、それまでもつかどうか。
それが、今の最大の経営課題(リスク)だった。
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