第22話
王都、王城の大広間。
数ヶ月前、私はここで婚約破棄を突きつけられ、悪役令嬢として断罪された。
そして今夜。
私は再び、この場所に立っていた。
ただし、前回とは状況(ステータス)が大きく異なる。
「……緊張しているか、ユエン」
隣に立つアレクセイ様が、心配そうに覗き込んでくる。
今日の彼は、いつもの無骨な軍服ではない。
私が王都の仕立て屋に特注させた、漆黒の礼服(タキシード)に身を包んでいる。
撫で付けた髪、整えられた髭。そして胸元には、ガルガディア家の紋章であるグリフォンのブローチが輝く。
その姿は、もはや「魔王」ではなく、正真正銘の「英雄」としての風格を漂わせていた。
「緊張? まさか」
私は鼻で笑った。
「これは武者震い……いえ、決算発表会前の高揚感(アドレナリン)です」
私は自分のドレスの裾を直した。
今夜の私の装いは、かつての派手で攻撃的な赤色ではない。
北の夜空をイメージした、深いミッドナイトブルーのドレス。
銀糸の刺繍が星のように煌めき、装飾は最低限だが、素材の上質さが際立つデザインだ。
「それに、主役は私たちです。堂々と胸を張ってください、旦那様」
「……ああ。お前が隣にいれば、何も怖くない」
アレクセイ様が私の腕に手を添える。
その手は温かく、力強い。
「新郎新婦、入場!」
ファンファーレが鳴り響く。
重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。
光が溢れ出す。
その瞬間、会場を埋め尽くす貴族たちの視線が、一斉に私たちに注がれた。
ざわ……。
静寂。そして、どよめき。
「あれが……北の魔王?」
「なんて凛々しいんだ……」
「隣にいるのは、あの悪役令嬢ユエンか?」
「雰囲気が全然違うぞ……」
かつての私は、厚化粧で眉を吊り上げ、常に不機嫌な顔をしていた。
だが今の私は、辺境の寒風で鍛えられた健康的な肌と、充実した日々が生み出す自然な自信(と、商売繁盛の余裕)を纏っている。
「……綺麗だ」
誰かが呟いた声が聞こえた。
私は口角をわずかに上げ、アレクセイ様と共に赤絨毯の上を進んだ。
かつて私を嘲笑った令嬢たちが、道を開ける。
私を無視していた貴族たちが、敬意を込めて頭を下げる。
(……見ましたか、ジェラルド殿下)
私は心の中で呟いた。
(これが『市場価値(バリュエーション)』の再評価です。貴方が手放した株は、今やストップ高ですよ)
私たちが玉座の前まで進むと、国王陛下が満足げに頷いた。
「よく来た、ガルガディア辺境伯、ならびにユエン嬢。……いや、未来の辺境伯夫人よ」
「お招きいただき光栄です、陛下」
私たちは優雅に一礼した。
これで、私たちの婚約は国によって公認されたことになる。
会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
これで全て順調……と思われた、その時だ。
「待ちなさい!!」
空気を読まない怒声が響き渡った。
拍手が止む。
人混みをかき分けて現れたのは、顔を真っ赤にした中年男性。
ヴァーミリオン公爵。私の父だ。
「お、お父様……」
「ユエン! 勝手な真似は許さんぞ!」
父は私の前で仁王立ちになり、震える指を突きつけた。
「勘当した覚えなどない! お前はまだヴァーミリオン家の娘だ! 勝手に結婚など認めん!」
会場がざわつく。
「おい、公爵が乱入したぞ」
「勘当したって噂じゃなかったか?」
アレクセイ様が前に出ようとしたが、私はそれを手で制した。
「……お久しぶりです、公爵閣下」
私は「お父様」ではなく、あえて他人行儀な敬称を使った。
「認めないとは、異なことを仰いますね。第3話で私が実家を出る際、貴方は明確に『二度と顔を見せるな』と仰いましたが?」
「あ、あれは言葉のアヤだ! 親子喧嘩の延長だろう!」
父は汗を拭いながら叫んだ。
「それに、聞いたぞ! お前の開発した『魔王饅頭』とやらが爆発的に売れているそうじゃないか! さらに辺境では温泉が出たとか、希少金属が見つかったとか……!」
父の目が、欲望でギラギラと光っている。
「その利益は、本来ヴァーミリオン家が管理すべきものだ! お前を育ててやった恩を忘れたか! さあ、家に戻ってこい! そして、その商才を家のために使え!」
なるほど。
私の成功を聞きつけ、掌を返して「金のなる木」を回収しに来たわけか。
醜い。
あまりにも予想通りの展開すぎて、あくびが出そうだ。
「……お断りします」
「な、なんだと!?」
「聞こえませんでしたか? 『取引拒否』です」
私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
あの日、父にサインさせた『勘当証明書』の原本だ。
「ここには、貴方の署名と実印があります。『ユエン・ヴァーミリオンとの親子関係を解消し、一切の権利および義務を放棄する』と。……法的効力は絶対です」
私は証明書を父の目の前に掲げた。
「貴方は私という資産(アセット)を『不良債権』と判断し、損切りしました。その判断ミスを、今になって取り消すことはできません」
「ぐっ……!」
「現在の私は、ガルガディア商会の共同代表であり、アレクセイ様のパートナーです。ヴァーミリオン家とは競合関係(ライバル)にありますので、情報の開示も利益供与もお断りします」
「こ、この親不孝者がぁぁ!」
父が逆上して手を振り上げた。
私を叩こうとする手。
かつては、この手に怯えていた。
叱られるのが怖くて、愛されたくて、必死に勉強し、公務をこなしてきた。
でも、今は違う。
ガシッ!!
父の手が、空中で止まった。
アレクセイ様が、その腕を掴んでいたのだ。
「……俺の妻に、触れるな」
アレクセイ様の声は、低く、冷たく、絶対零度の殺気を孕んでいた。
「ひぃっ!?」
父が悲鳴を上げる。
アレクセイ様は、父の手首をギリギリと締め上げながら、静かに告げた。
「ユエンは、お前の道具じゃない。……お前が捨てた宝石を、俺が拾い、磨き上げたんだ。今さら所有権を主張するなど、盗っ人の理屈だ」
彼は父の手を振り払った。
父は無様に尻餅をついた。
「う、うぅ……」
「二度と近づくな。……次は、腕ごとねじ切るぞ」
魔王の威圧(インティミデーション)。
父は恐怖に顔を引きつらせ、這うようにして後ずさった。
「お、覚えていろ! この恩知らず娘が!」
捨て台詞を吐いて逃げ出す父。
その背中は、かつて私が追いかけていた「偉大な父」の姿ではなく、ただの強欲な小人のそれだった。
「……大丈夫か、ユエン」
アレクセイ様が振り返る。
その表情は、先ほどの鬼のような形相から一転、今にも泣き出しそうなほど優しかった。
「辛かったら、泣いてもいいんだぞ」
「……泣きませんよ」
私は眼鏡の位置を直した。
「不良債権の処理が終わって、せいせいしました。これで名実ともに、私は自由です」
強がりではない。
本当に、胸のつかえが取れたように軽かった。
私は自由だ。
誰かの期待に応えるためではなく、自分の意志で、自分の選んだ人と生きていける。
「さあ、閣下。湿っぽい話は終わりです」
私は彼に手を差し出した。
「音楽が始まりましたよ。……ファーストダンス、踊っていただけますか?」
会場に、優雅なワルツが流れ始めていた。
アレクセイ様は一瞬戸惑ったが、すぐに覚悟を決めたように頷いた。
「……足を踏んだら、すまない」
「その時は治療費を請求します」
彼は私の腰に手を回し、私たちはフロアの中央へと滑り出した。
かつて、王太子と踊る時は、常に緊張していた。
間違えてはいけない。
完璧でなければいけない。
笑顔を絶やしてはいけない。
でも、今は。
「……うわっ、っと」
アレクセイ様がリズムを外し、私の足を踏みかける。
「減点一です」
「厳しいな……」
彼は苦笑しながら、それでも私をしっかりと支えてくれる。
ぎこちないステップ。
でも、その手から伝わる温度は、何よりも心地よい。
「ユエン。……綺麗だ」
踊りながら、彼が耳元で囁く。
「世界中の誰よりも。……今日の主役は、間違いなくお前だ」
「……お世辞は結構です。割引はしませんよ」
私は照れ隠しにそっぽを向いたが、口元の緩みを止めることはできなかった。
周囲の貴族たちが、うっとりとした表情で私たちを見ている。
「なんてお似合いなんだ……」
「まさに美女と野獣……いや、英雄と才女か」
かつて「悪役令嬢」と呼ばれた女は、今夜、誰よりも幸せな「ヒロイン」として、スポットライトを浴びていた。
その時、会場の隅で、見慣れたピンク色の髪が揺れた。
ミナ様だ。
彼女は両手に大量の『記念グッズ』を抱え、貴族たちに売りさばきながら、私に向かってサムズアップをした。
『売上順調! このまま祝儀も巻き上げるわよ!』
口パクでそう言っている。
(……本当に、たくましい人たちです)
私は吹き出しそうになった。
曲が終わる。
アレクセイ様は私を抱き寄せ、最後のポーズを決めた。
そして、衆人環視の中で――今度は頬ではなく、唇に、熱いキスを落とした。
「……っ!」
会場から「キャー!」という悲鳴と、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「こ、公務中ですよ!」
私が真っ赤になって抗議すると、彼は悪戯っぽく笑った。
「これも契約のうちだろう? 『夫人は夫の愛を受け入れる義務がある』」
「……そんな条項、入れた覚えはありません!」
「俺の心の契約書には書いてある」
なんて理不尽な。
でも、その理不尽さが、どうしようもなく幸せだった。
舞踏会は続く。
夜が更けるまで、私たちは踊り続けた。
過去の因縁も、実家の呪縛も、すべて音楽と光の中に溶けていった。
残ったのは、確かな愛と、そして――。
「……閣下。明日の朝一で、結婚式の費用の精算を行います。王家への請求書、漏れなく作成しておいてくださいね」
「……お前、本当にブレないな」
私のビジネス魂だけは、どんなに幸せでも健在だった。
こうして、波乱に満ちた「二度目の舞踏会」は、私たちの完全勝利で幕を閉じた。
しかし、物語はまだ終わらない。
最大の懸念事項――「ジェラルド元王太子のその後」と、アレクセイ様との「初夜」という、別の意味での戦いが残っていたからだ。
「……帰ったら、覚悟しておけよ」
馬車の中で、アレクセイ様が意味深に囁いた言葉の意味を、私はまだ深く考えていなかった。
鈍感な経営者は、時として致命的な読み違いをするものである。
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