第21話

屋敷の裏口。


そこには、ボロボロのローブを纏った一人の初老の男が立っていた。


背中には大きな行商用の荷物を背負い、顔には深い皺が刻まれている。ただの行商人に見えるが、その眼光だけは鋭く、歴戦の戦士のような気配を漂わせていた。


「……お嬢様、この人よ」


ミナ様が私の後ろから警戒するように囁く。


「『昔の馴染みだ』って言って、頑として動かないの」


私は眼鏡の位置を直し、男の前に立った。


「初めまして。ガルガディア辺境伯夫人のユエン・ヴァーミリオンです。アポイントメントはありませんが、どのようなご用件で?」


男は私をジロジロと値踏みするように見てから、ニヤリと笑った。


「夫人、か。……あの『呪われた子』が、嫁を貰うとはな。長生きはするもんじゃ」


「呪われた子?」


私が眉をひそめた瞬間、背後の扉が勢いよく開いた。


「……ゲイルか」


アレクセイ様だった。


いつもの軍服姿だが、その顔色は紙のように白い。


「……生きていたのか」


「よお、坊主。いや、今は閣下だったな」


ゲイルと呼ばれた男は、親しげに、しかしどこか挑発的に笑った。


「噂を聞いてな。王都の令嬢を攫って、新婚生活を楽しんでるってよ。……あの地下牢で鎖に繋がれていたガキが、随分と出世したもんだ」


地下牢。鎖。


不穏な単語が飛び出す。


アレクセイ様の肩が、小さく震えた。


「……帰れ。お前と話すことはない」


「冷たいこと言うなよ。俺はお前の『真実』を知る数少ない生き証人だぞ? この可愛い奥さんは知ってるのか? お前がなぜ『魔王』と呼ばれ、親兄弟から捨てられたのかを」


「やめろ!」


アレクセイ様が叫んだ。


その声には、怒りよりも深い恐怖が滲んでいた。


彼は私を見た。縋るような、それでいて拒絶を恐れるような目で。


「……ユエン、聞くな。頼むから、聞かないでくれ」


「……」


私は静かに彼を見つめ、そしてゲイルに向き直った。


「立ち話もなんです。中へどうぞ。温かいお茶を用意します」


「ユエン!?」


「過去の負債(トラウマ)は、隠蔽しても利子がついて膨らむだけです。ここで精算(開示)しましょう」


私はアレクセイ様の手を握った。


その手は、氷のように冷たかった。


「大丈夫です。私がついていますから」


応接室。


湯気の立つ紅茶を前に、ゲイルは語り始めた。


それは、あまりにも陰惨で、非合理な過去の話だった。


「この坊主はな、生まれた時から化け物だったんだ」


ゲイルが淡々と言う。


「常人の数百倍の魔力。赤子の頃から、泣くだけで窓ガラスを割り、家具を吹き飛ばした。……前の領主、つまり親父さんはそれを恐れた」


アレクセイ様が俯き、膝の上で拳を握りしめる。


「『悪魔の子だ』『家を滅ぼす』……そう言われて、坊主は五歳の時に地下牢に幽閉された。光の届かない闇の中で、たった一人、鎖に繋がれて育ったんだ」


「……虐待ですね。児童福祉法違反です」


私が口を挟むと、ゲイルは鼻で笑った。


「法律なんて通用しねぇよ。ここは力が全ての辺境だ。……そして一〇歳になった時、坊主は『兵器』として戦場に放り出された」


「兵器?」


「ああ。死んでもいい特攻兵だ。だが、坊主は強すぎた。敵を殲滅し、血まみれで帰還するたびに、領民たちは彼を称えるどころか、こう言って石を投げたんだ。『化け物』『人殺し』『近寄るな』とな」


ゲイルは、アレクセイ様の顔の傷を指差した。


「その傷もそうだ。魔物に襲われた村の少女を庇ってついた傷だが……助けたその少女に、『顔が怖い』と泣き叫ばれて拒絶された時にできた心の傷の方が、深かっただろうな」


「……もういい」


アレクセイ様が、絞り出すような声で言った。


「もういいだろ、ゲイル……」


彼は顔を覆った。


「そうだ、俺は化け物だ。……親にも愛されず、守ったはずの民にも恐れられ、ただ殺すことしか能がない欠陥品だ」


彼は震える声で私に告げた。


「……すまない、ユエン。騙していたわけじゃないが……これが俺の正体だ。お前のような、光の世界で生きてきた人間とは、住む世界が違うんだ」


彼は立ち上がろうとした。


「契約は……破棄してくれて構わない。慰謝料は払う。だから……」


逃げようとしている。


自分の過去に押し潰され、私に嫌われる前に、自分から関係を断とうとしている。


(……まったく)


私はカップをソーサーに強く置いた。


カチャン!


乾いた音が響き、アレクセイ様がビクリと止まる。


「……話し終わりましたか?」


私は眼鏡を外し、懐からハンカチを取り出して丁寧に拭いた。


「では、私のターンですね」


私は立ち上がり、アレクセイ様の前に立った。


そして、両手で彼の顔を挟み込み、強引に上を向かせた。


「ゆ、ユエン……?」


「よく聞け、この愚か者」


私はドスの効いた声で言った。


「貴方は自分のことを『欠陥品』と言いましたね? 訂正しなさい。それは重大な認識エラーです」


「だ、だけど、親にも捨てられて……」


「それは貴方のスペック(性能)が、両親の管理能力(キャパシティ)を超えていただけの話です!」


私は断言した。


「例えるなら、最新鋭のスーパーコンピューターを、使いこなせない素人が『ボタンが多すぎて怖い』と捨てたようなものです。悪いのは高性能な貴方ではなく、無能な管理者(両親)です」


「む、無能……?」


「はい。常人の数百倍の魔力? 素晴らしい才能(ギフト)じゃないですか。それを活用せず地下牢に閉じ込めるなど、資源の無駄遣いにも程があります」


私は彼の顔の傷を親指でなぞった。


「そして、この傷。……少女を庇ってできた名誉の負傷でしょう? それを『怖い』と言った少女は、単に美的感覚と感謝の心が欠如していただけです。顧客(ユーザー)のリテラシー不足を、製品のせいにしてはいけません」


「せ、製品……」


「貴方は『人殺しの道具』ではありません。この過酷な辺境を、その身一つで守り抜いてきた『最強の守護者(ガーディアン)』です」


私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「私が以前、言いましたよね? 『貴方は優良物件だ』と。……私の目は節穴ではありません。過去に誰が貴方を否定しようと、現在の筆頭株主(妻)である私が、貴方の価値を保証します」


「ゆえん……」


アレクセイ様の目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「俺は……ここにいて、いいのか? こんな……血塗れの手で、お前に触れても……」


「許可します。むしろ推奨します」


私は彼の手を取り、自分の頬に当てた。


「その手が血塗れだったとしても、今は温かいでしょう? 私にとっては、最高の暖房器具であり、頼れるパートナーの手です」


私はニッコリと笑った。


「自信を持ちなさい、アレクセイ。貴方は私が選んだ男です。……私の目に狂いがないことを、貴方自身が証明しなくてどうするんですか」


アレクセイ様は、子供のように顔を歪めた。


そして、私を強く、強く抱きしめた。


「……うぅ……っ!」


大きな体の大男が、私の胸で泣きじゃくる。


「ありがとう……ユエン……っ、ありがとう……!」


私は彼の背中をポンポンと優しく叩いた。


「よしよし。泣きたい時は泣いてデトックスしましょう。涙はストレス物質を排出しますからね」


その様子を、ソファで見ていたゲイルが、ポカンと口を開けていた。

やがて、彼は「くっ、くくくっ!」と吹き出した。


「はーっはっは! こりゃ傑作だ!」


ゲイルは腹を抱えて笑った。


「あの『魔王』が、小娘に説教されて泣いてやがる! スーパーコンピューターだの、優良物件だの……あはは! 噂以上の女傑だな!」


「……笑い事ではありません。真剣な人事評価面談です」


私が睨むと、ゲイルは涙を拭いながら立ち上がった。


「悪かったよ。……安心したぜ」


彼の目が、優しく細められた。


「俺はずっと悔やんでたんだ。あの時、坊主を連れて逃げてやれなかったことをな。……傭兵風情には、領主に逆らう力がなかった」


彼はアレクセイ様を見た。


「だが、今の坊主には……最強の『管理者』がついたみたいだな」


「……ああ」


アレクセイ様は目を赤くしながらも、しっかりと顔を上げた。


「俺には……過ぎた妻だ」


「大事にしろよ。……じゃあな、長居は無用だ」


ゲイルは荷物を背負い直した。


「待ってください」


私は彼を呼び止めた。


「何か? 慰謝料でも請求されるか?」


「いいえ。貴方、元傭兵で、今は行商人ですよね?」


私は素早く計算機を弾いた。


「各地を放浪し、情報と物資を運んでいる。……どうですか、我が商会と専属契約を結びませんか?」


「は?」


「貴方のその『情報網』と『コネ』、高く評価します。アレクセイ様の過去を知る口封じ……もとい、信頼できる外部パートナーとして、物流ルートの開拓を依頼したいのですが」


「……おいおい」


ゲイルは呆れた顔をした後、ニヤリと笑った。


「転んでもタダでは起きねぇな。……いいぜ。坊主の幸せを見届ける代賃だ。安くしといてやるよ」


「交渉成立です」


こうして、アレクセイ様の「過去の亡霊」は、いつの間にか「頼れる物流担当者」へとジョブチェンジした。


ゲイルが去った後。


アレクセイ様は、まだ少し鼻をすすっていた。


「……情けないところを見せた」


「いいえ。人間味があってよろしいかと」


私は彼に新しいハンカチを渡した。


「これで過去の清算は完了です。……もう、自分を卑下するのは禁止ですよ?」


「ああ。……努力する」


彼は私の手を握り、その甲にキスをした。


「ユエン。……愛している。過去も、未来も、俺の全てはお前のものだ」


「重いですが、受領します」


私は照れ隠しにそっぽを向いた。


窓の外では、雪が止み、雲間から太陽の光が差し込んでいた。


長い冬に閉ざされていたアレクセイ様の心にも、ようやく本当の春が訪れたようだ。


「さて、仕事に戻りましょうか。泣いた分、働いてもらいますよ」


「……鬼嫁だな」


「誰が鬼ですか」


私たちは笑い合いながら、執務室へと戻っていった。


しかし。


平穏な日々は長くは続かない。


王都での結婚式を控え、私たちは「最大の試練」に直面することになる。


それは、魔物でも王太子でもない。


私の「実家」――ヴァーミリオン公爵家からの、横槍だった。


「……お父様、まだ諦めていなかったのですか」


数日後、届いた手紙を見て、私は再び戦闘モードに入ることになる。

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