第19話

「辺境伯夫人、万歳!」

「我らが女神、ユエン様万歳!」


バルコニーの下、松明の明かりに照らされた領民たちの熱狂は、最高潮に達していた。


その音圧は物理的な振動となり、私の鼓膜と、建物の基礎構造を揺さぶっていた。


「……あの、閣下。これは一体どういう集客メカニズムですか? 告知から集結までのリードタイムが短すぎます」


私は引きつった笑顔で手を振りながら、隣のアレクセイ様に小声で尋ねた。


「俺も知らん。……だが、みんな嬉しそうだ」


アレクセイ様も、ぎこちなく手を振っている。


その顔は真っ赤だが、どこか誇らしげだ。


「ユエン様! 俺たちの村に除雪機をありがとう!」

「魔王饅頭の工場で働けて、今年は餓死せずに済んだよ!」

「あんたは俺たちの恩人だ!」


口々に感謝の言葉が飛んでくる。


中には涙を流して拝んでいる老婆もいる。


(……恩人? 女神? 誤解です)


私は心の中で訂正した。


私はただ、この領地のポテンシャルを最大化し、利益を追求しただけ。


除雪機は物流効率のため。


工場雇用は労働力の確保と治安維持のため。


すべてはビジネスロジックに基づいた施策だ。慈善事業ではない。


「……訂正すべきでしょうか。『私は冷徹な経営コンサルタントであり、あなた方を労働力(リソース)としか見ていません』と」


「やめておけ。暴動が起きるぞ(感動で)」


アレクセイ様が苦笑する。


「それに、理由はどうあれ、お前が彼らを救ったのは事実だ。……受け取ってやれ、彼らの感謝を」


彼は私の腰に手を回し、ぐっと引き寄せた。


「ひゃうっ!?」


衆人環視の中での密着。


民衆が「おおおおお!」と沸き立つ。


「見ろ、あのラブラブっぷり!」

「魔王様がデレたぞ!」

「ヒューヒュー!」


冷やかしの口笛が吹雪のように舞う。


「か、閣下! 公務中です! 私情を挟まないでください!」


「これが公務だ。領主夫婦の円満アピールは、領民の安心感につながる」


「夫婦じゃありません! まだ契約書にサインしていません!」


「細かいことは気にするな。……ほら、笑って」


彼は私の頬をつんとつついた。


私は観念して、ひきつった営業スマイルを張り付けた。


こうして、私の「辺境伯夫人就任」は、法的続きをすっ飛ばして、民意によって可決されてしまったのである。


バルコニーから撤収し、屋敷の中に戻ると、そこはすでに「お祭り会場」と化していた。


「おめでとうございます、奥様!」


パン! パン!


クラッカーが鳴り響き、色とりどりの紙吹雪が舞う。


使用人たちが総出で拍手喝采を送ってくる。


廊下には紅白の垂れ幕が下がり、あちこちに『祝・御婚約』『ビバ・永久就職』という張り紙がされている。


「……仕事が早すぎます、セバスチャン」


私は紙吹雪を払いながら、家令を睨んだ。


「いつから準備していたのですか? この装飾費、どの予算から捻出しましたか?」


「へへへ、予備費の『慶事用積立金』でございます」


セバスチャンが満面の笑みで答える。


「旦那様に春が来ることを信じて、一〇年前からコツコツ貯めておりました! ようやく日の目を見ましたぞ!」


一〇年。


気が遠くなるようなロングスパンの投資だ。


「それに、見てください! ミナ様プロデュースの『御成婚記念グッズ』も、すでに販売を開始しております!」


セバスチャンが指差した先には、特設ワゴンが出ていた。


そこには、私とアレクセイ様の似顔絵(二頭身キャラがキスしている絵)が描かれたマグカップ、タオル、そして『愛の魔王饅頭(ハート型)』が並んでいる。


売り子は、もちろんミナ様だ。


「いらっしゃいませー! 限定品だよー! これを買うと恋愛運アップ間違いなし!」


彼女はウインクしながら、使用人たちに商品を売りさばいている。


「……版権フリーにした覚えはありませんが」


私は頭痛を覚えた。


「ミナ様、ロイヤリティの交渉がまだです」


「硬いこと言わないの! お祝いよ、お祝い! 売上の三割は二人の新居建築費用に寄付するから!」


「七割は懐に入れる気ですね?」


「テヘペロ☆」


この屋敷には、まともな人間はいないのか。


私が頭を抱えていると、アレクセイ様が優しく肩を抱いた。


「……諦めろ、ユエン。もう誰にも止められない」


「閣下……いえ、共犯者ですね」


「まあな。俺も、お前と結婚できるなら、ピエロにでも何にでもなろう」


彼は嬉しそうに、ミナ様から『ラブラブマグカップ』を購入していた。


「……それ、使う気ですか?」


「ああ。毎朝のコーヒーはこれで飲む」


「やめてください。会議の威厳が損なわれます」


ため息をつきつつ、私も観念した。


ここまで外堀を埋められては、もう「NO」と言う選択肢はない。


いや、正直に言えば。


私自身も、もう逃げる気はなかった。


「……わかりました。現状を追認(ラティファイ)します」


私は眼鏡を押し上げた。


「ただし、結婚式までのスケジュールと予算管理は、私が全権を握ります。無駄な出費は許しませんよ?」


「望むところだ、マイ・ハニー」


「……その呼び方、禁止です。鳥肌が立ちます」


その夜。


私たちは執務室で、正式な『婚姻契約書』の作成に取り掛かった。


本来ならロマンチックなプロポーズの余韻に浸るべき時間だが、私たちはデスクに向かい合って、条文を精査していた。


「……第十三条。財産分与について」


私は羽ペンを走らせる。


「共有財産と特有財産の区分けを明確にします。私が開発した発明品の特許権は、私個人に帰属するものとします」


「……ああ、好きにしてくれ」


アレクセイ様は、向かいで頬杖をつきながら、とろんとした目で私を見ている。


「……閣下、聞いていますか?」


「聞いているよ。お前の声は、子守唄より心地いい」


「真面目にやってください。これは法的な拘束力を持つ重要書類です」


「ユエン。……そんな紙切れより、もっと大事なことがあるだろう」


彼は手を伸ばし、私のペンを持つ手を握った。


「……キス、していいか?」


ドキン。


不意打ちだ。


「……条文作成中です。業務の妨げになります」


「休憩だ。労働基準法に基づく、適正な休息(インターバル)を要求する」


彼は屁理屈をこねて、顔を近づけてくる。


この男、最近私の扱い方を覚えてきた。


「……一分だけです」


私が許可を出すと、彼は嬉しそうに目を細め、テーブル越しに身を乗り出した。


チュッ。


優しい、触れるだけのキス。


……のはずが。


彼はそのまま私の後頭部に手を回し、角度を変えて、深く、甘く――。


「んっ……!?」


長い。


一分どころではない。


とろけるような感覚に、思考回路がショート寸前になる。


「……ぷはっ」


ようやく離れた時、私は肩で息をしていた。


「……時間超過(オーバー)です。延滞料金を請求します」


「ああ。体で払うよ」


「っ……!」


いつの間に、こんなキザなセリフを覚えたのか。


きっとミナ様の持っていた恋愛小説(ポエム集)を読んだに違いない。教育に悪い。


「……契約書、続きをやりますよ」


私は顔の熱をごまかすように、視線を書類に戻した。


だが、文字が霞んで読めない。


「……第十四条。……えーと」


「『乙(アレクセイ)は、甲(ユエン)を生涯愛し抜き、浮気をした場合は即座に全財産を没収の上、カエルの餌になることを承諾する』……で、どうだ?」


「……極端すぎます。カエルの餌は法的執行が困難です」


「俺の覚悟だ。書いておけ」


彼は私の手を取って、強引に書き込ませた。


そして、一番下の署名欄に、サラサラと自分の名前を書いた。


「これでよし。……これで俺たちは、名実ともにパートナーだ」


彼は満足げに契約書を持ち上げ、キスをした。


「……ユエン。ありがとう」


「……何がですか?」


「俺を選んでくれて。……こんな、不器用で、何もない男を」


彼は自嘲気味に笑った。


「お前なら、もっといい相手がいただろうに」


「……訂正します」


私はペンを置いた。


「貴方は『何もない男』ではありません。優良物件です」


私は指を折って数えた。


「一、圧倒的な武力による安全保証。二、素直で学習能力の高い性格。三、私利私欲のないクリーンな精神性。そして四……」


私は少し躊躇ってから、言った。


「……私の作ったラーメンを、世界一美味しそうに食べてくれる味覚」


私は彼の目を見つめた。


「これ以上の条件(スペック)を持つ男性は、市場には存在しません。ですから……私の選択は、経済合理的にも感情的にも、最適解(ベスト)なのです」


アレクセイ様は、目を見開いた。


そして、くしゃっと顔を歪めて、泣きそうな、笑ったような顔をした。


「……ああ。最高の褒め言葉だ」


彼は立ち上がり、私を椅子ごと抱きしめた。


「愛してる、ユエン。……俺の最高の経営者(パートナー)」


「……私もです、アレクセイ」


私たちは、執務室の薄暗い明かりの下、契約書の成立を祝して、長い長いハグを交わした。


窓の外では、まだ領民たちの宴が続いている。


遠くから聞こえる笑い声と音楽。


かつて「悪役令嬢」と呼ばれ、婚約破棄されて居場所を失った私。


今、ここには確かな居場所がある。


私の能力を必要とし、私の性格を愛し、私の隣にいてくれる人たちがいる。


(……外堀は埋められましたか)


私は彼の胸の中で、目を閉じた。


(ならば、籠城戦の始まりですね。……この幸せという城を、死ぬまで守り抜くとしましょう)


私はアレクセイ様の背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。


契約成立。


期間は、永遠。


更新料は、毎日の「行ってらっしゃい」のキスで。


私の新しい人生の第二章が、今、静かに、そして幸せに幕を開けたのだった。

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