第18話

ガルガディア辺境伯領の屋敷にて。


私とアレクセイ様の「家庭内別居(リハビリ)」生活は、三日目に突入していた。


執務室の中央には、分厚い木の衝立(ついたて)が置かれている。


衝立の向こう側にアレクセイ様、こちら側に私。


姿は見えないが、声と気配だけを感じながら業務を行うという、奇妙なスタイルだ。


「……ユエン。この書類の決裁、頼めるか?」


衝立の向こうから、書類がヌッと差し出される。


「はい、受領します」


私はトング(マジックハンド)を使って書類を受け取った。


「……なあ、ユエン。いつまでこのスタイルなんだ? 俺はそろそろ、お前の顔が見たいのだが」


アレクセイ様の不満げな声。


「我慢してください、閣下。昨日の『手だけ接触実験』でも、心拍数が一四〇を超えました。まだ耐性が不十分です」


私は書類にハンコを押しながら答える。


「顔を見たら即死するリスクがあります」


「俺の顔は即死魔法か……」


彼がため息をつく。


その時、コンコンとドアがノックされ、セバスチャンが血相を変えて飛び込んできた。


「た、大変でございます! お嬢様、閣下! 王都より急使が参りました!」


「急使? またジェラルド殿下ですか?」


私はトングを置いて立ち上がった。


「いいえ、今回は違います! こ、国王陛下直属の近衛騎士団長……そして、陛下ご自身からの『直通魔導通信機』をお持ちです!」


「陛下……?」


空気が張り詰める。


国王陛下。


ジェラルド殿下の父君であり、この国の最高権力者。


さすがに無視するわけにはいかない。


「……衝立を撤去します。閣下、緊急事態対応モードです」


「ああ、わかった」


私たちは私情(恋の病)を一時凍結し、応接室へと向かった。


応接室には、厳格な雰囲気の騎士団長が待っていた。


彼は私たちを見ると、恭しく一礼し、テーブルの上に置かれた水晶玉のような装置を起動した。


『……繋がったか?』


水晶玉が青く輝き、空中にホログラム映像が投影された。


そこに映っていたのは、玉座に座る初老の男性――ローランド国王陛下だった。


ただし、その顔はやつれ、胃薬の瓶を片手に持っている。


「お初にお目にかかります、陛下。ユエン・ヴァーミリオンでございます」


私は完璧なカーテシーを披露した。


アレクセイ様も隣で膝をつく。


『うむ。……楽にしてくれ。堅苦しい挨拶は抜きだ』


国王陛下は疲れたように手を振った。


『単刀直入に言おう。……この度は、愚息ジェラルドが多大なる迷惑をかけた。父として、また国の長として、心より詫びる』


なんと。


国王が頭を下げた。


異例中の異例だ。


『報告は聞いている。婚約破棄の強行、慰謝料未払い、そして先日の「カエル決闘騒ぎ」……。すべて私の監督不届きだ。本当に申し訳ない』


「謝罪を受け入れます、陛下」


私は淡々と答えた。


「ですが、謝罪だけで済む問題ではありません。我が商会(領地)は、殿下の妨害行為により甚大な営業損害を受けました」


『わかっている。賠償金は王家のポケットマネーから支払おう。請求書を送ってくれ』


話が早い。


さすがは一国の王、息子とは違って話が通じる(合理的だ)。


『さて、ここからが本題だ』


国王陛下の目が鋭く光った。


『ユエン嬢。……王都に戻ってこないか?』


「……お断りします」


私は即答しようとしたが、陛下がそれを遮った。


『条件を聞いてくれ。君を、我が国の「宰相補佐」……いや、「内政最高責任者」として迎えたい』


「はい?」


私が耳を疑うようなポストだ。


『ジェラルドの婚約者という立場ではない。一人の官僚としてのオファーだ。給与は現在の五倍。王宮内に専用の執務室と、有能な部下一〇〇名をつける。……どうだ?』


「五倍……」


私の計算機が弾き出す。


それは破格の待遇だ。


王都での安定した生活、巨大な権限、そして莫大な報酬。


ビジネスマンとして、これ以上のキャリアアップはない。


『君がいなくなってから、国政は停滞している。予算委員会は紛糾し、外交文書は滞り、ジェラルドは……まあ、あれだ。カエルを集めている』


陛下が遠い目をした。


『国を救うと思って、力を貸してほしい。君の合理的な頭脳が必要なのだ』


揺れる。


正直、心が揺れた。


私の能力を、ここまで高く評価してくれるオファー。


本来の私なら、「契約成立です」と即答していただろう。


私が沈黙していると、隣でアレクセイ様が動いた。


「……お断りします」


低く、しかしよく通る声。


『辺境伯か。……これは君への話ではない』


「いいえ、当事者です」


アレクセイ様は立ち上がり、水晶玉の前に立ちはだかった。


「陛下。ユエンは渡せません」


『なぜだ? 国益のためだぞ? それに、彼女にとっても悪い話ではないはずだ』


「条件の問題ではありません」


アレクセイ様は、私の方を振り返った。


その瞳は、いつかの決闘の時よりも熱く、真剣だった。


そして、私の肩をぐっと抱き寄せた。


「ひゃっ!?」


公衆の面前、しかも国王陛下の前での接触。


私の心臓が早鐘を打つ。


「ユエンは……俺の妻(予定)です」


『……は?』


国王陛下がポカンとした。


騎士団長が口をあんぐりと開けた。


私も固まった。


「つ、妻……!?」


「はい。すでに婚約の儀(口約束)は済ませてあります」


アレクセイ様は堂々と言い放った。


「彼女は、俺の領地にとってなくてはならない存在です。そして何より……俺の心臓(ハート)の一部です」


『心臓……?』


「彼女がいなければ、俺は息ができない。俺の城は廃墟に戻り、俺の心は凍りついたままになるでしょう」


彼は私を強く抱きしめた。


「国益? 知ったことではありません。たとえ国王陛下の命令でも、これだけは譲れません。……彼女を連れて行くなら、俺を殺してからにしてください」


「か、閣下……!」


私は顔が沸騰した。


なんという無茶苦茶な論理。


国よりも私を取ると?


反逆罪スレスレの発言だ。


でも。


その無茶苦茶さが、どうしようもなく嬉しかった。


『……ふむ』


国王陛下は、しばらくアレクセイ様と睨み合っていたが、やがてフッと力を抜いて笑った。


『……あの「北の魔王」が、そこまで一人の女性に惚れ込むとはな』


陛下は胃薬をあおった。


『勝てぬか。……愛の力には』


「はい。物理的にも精神的にも、俺たちの絆は最強です」


アレクセイ様が断言する。


陛下は苦笑しながら頷いた。


『わかった。引き抜きは諦めよう。……その代わり、条件がある』


「条件?」


『二人の婚約を、国として正式に承認する。その代わり……ジェラルドの廃嫡と、君たちの結婚式を王都で盛大に行うことを許可せよ』


「……え?」


話が急展開した。


『ジェラルドはもうダメだ。王位継承権を剥奪し、修道院へ送るか、あるいはカエル研究家として生きていかせる。……次の王位継承者が見つかるまで、国の威信を保つためにも、英雄である辺境伯の結婚式という明るいニュースが必要なのだ』


陛下はウインクした(映像越しに)。


『費用は全額、国庫から出す。……これで手打ちといこうじゃないか。どうだ、商魂たくましいお嬢さん?』


私は、アレクセイ様の腕の中で、必死に計算機を回した。


国公認の結婚式。費用はタダ。


しかも、ジェラルド殿下は廃嫡(ざまぁ完了)。


これ以上の好条件はない。


「……交渉成立(ディール)です、陛下」


私は震える声で答えた。


「ただし、結婚式の引き出物は『魔王饅頭』を使わせていただきます。宣伝のためですので」


『ハハハ! ちゃっかりしておるわ! よろしい、許可する!』


通信が切れた。


応接室に静寂が戻る。


騎士団長が一礼して去っていくと、私とアレクセイ様だけが残された。


「……言っちゃったな」


アレクセイ様が、バツが悪そうに私を見た。


「妻、なんて……勝手に言って、すまない。迷惑だったか?」


彼は私を抱きしめていた腕を、そっと解こうとした。


「……迷惑じゃ、ありません」


私は彼の服の裾を掴んで、引き止めた。


「え?」


「むしろ、既成事実化していただいて助かりました。これで外堀は埋まりましたから」


私は俯いたまま言った。


顔が熱い。


心臓がうるさい。


でも、もう逃げるのはやめた。


「……責任、取ってくださいね?」


「……!」


アレクセイ様が息を呑んだ。


そして、今度は優しく、壊れ物を扱うように私を抱きしめ直した。


「ああ。一生かけて、お前を幸せにする」


「……幸せの定義を、数値化してください」


「毎日、お前と飯を食う。毎日、お前を抱きしめる。……そして、お前が『もういい』と言うまで、愛の言葉を囁き続ける」


「……重いです。胃もたれします」


「慣れろ。……これは命令だ」


彼は私の顎を持ち上げ、今度は額ではなく、唇に――。


コンコン!


「お取込み中、失礼しまーす!」


空気を読まないノックと共に、ミナ様が顔を出した。


「陛下との話、終わった? ……って、あら~♡」


私たちが慌てて離れると、ミナ様はニヤニヤしながら言った。


「いいわねぇ、熱々で。……でも、お姉様。大変よ」


「何ですか?」


「領民たちが、屋敷の周りに集まってるの。『魔王様が結婚するって本当か!?』って」


「えっ?」


窓の外を見ると、いつの間にか大勢の領民たちが、松明を持って集まっていた。


『領主様、万歳!』

『奥様、万歳!』

『魔王饅頭、万歳!』


どうやら、通信の内容がどこからか漏れたらしい(犯人はミナ様だろう)。


「……どうやら、逃げ場はないようですね」


私は観念した。


「行きましょう、閣下。……いえ、旦那様(予定)。民衆への挨拶も、領主の妻の仕事ですから」


「ああ。……行くか、奥様(予定)」


私たちは手を繋ぎ、バルコニーへと向かった。


扉を開けた瞬間、割れんばかりの歓声が私たちを包み込んだ。


冷たい北風の中で、繋いだ手の温もりだけが、確かな現実としてそこにあった。


私の「恋の病」は、どうやら不治の病へと進行してしまったようだった。


(……まあ、悪くないですね。この症状も)


私は大歓声の中で、こっそりと微笑んだ。

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