第17話

翌朝。


私は、漆黒のサングラス(遮光ゴーグル)を装着して食堂に現れた。


「……おはようございます」


「お、おはよう、ユエン? どうしたんだ、その格好は」


アレクセイ様が、トーストを齧りかけたまま固まった。


無理もない。


室内でサングラス。しかも、顔色は土気色で、手には厚手の書類手袋をはめている。完全に不審者だ。


「……紫外線対策です」


私は嘘をついた。


「北国の雪の反射率は八〇パーセント。角膜へのダメージを軽減するための労働安全衛生上の措置です」


「まだ室内だぞ?」


「窓からの散乱光も侮れません」


私はサングラスの奥で、視線を逸らした。


見れない。


直視できないのだ。


彼の顔を見ると、昨日の馬車での一件――あの熱い抱擁と、おでこへのキスが、鮮明にフラッシュバックしてしまう。


(……異常です。心拍数が平常時の二割増し。発汗作用の亢進。そして、思考回路のショート)


私は席に着き、ロボットのような動きでスープを口に運んだ。


「お姉様、それ逆よ。スプーンの柄の方で飲もうとしてる」


向かいの席で、ミナ様がニヤニヤと指摘してくる。


「……失礼。視界不良による操作ミスです」


「ふーん。視界不良ねぇ。恋の病で目が曇ってるんじゃなくて?」


「違います。循環器系の疾患です」


私は即答した。


「動悸、息切れ、顔面の火照り。症状から推測するに、自律神経失調症、あるいは不整脈。最悪の場合、心筋梗塞の前兆かもしれません」


「大げさすぎでしょ……」


ミナ様が呆れる中、アレクセイ様がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。


「し、心筋梗塞だと!?」


彼は真っ青になって駆け寄ってきた。


「大丈夫か!? すぐに医者を! いや、俺が背負って運ぶか!?」


彼の大きな手が、私の肩に触れようとする。


ビクッ!


「ひゃっ!?」


私が過剰に反応して飛び退くと、アレクセイ様は傷ついた顔をした。


「……ゆ、ユエン? 俺に触られるのが嫌なのか?」


「い、いえ! 感染症対策です! 今の私は免疫力が低下している可能性がありますので、ソーシャルディスタンスを!」


私は後ずさりながら叫んだ。


「今日は休暇(有給)をいただきます! 午前中に領内の医師に診察してもらいますので、探さないでください!」


私は逃げるように食堂を飛び出した。


背後で、アレクセイ様の「嫌われたのか……?」という悲しげな呟きが聞こえた気がしたが、振り返る余裕はなかった。


一時間後。


私は領内唯一の診療所を訪れていた。


医師のピム先生は、ヤギのような髭を生やした好々爺だ。


彼は聴診器を私の胸に当て、しばらくじっと目を閉じていた。


「……ふむ」


「どうですか、先生。やはり重篤な病でしょうか? 手術が必要なら、スケジュールの調整が必要ですが」


私が食い気味に尋ねると、ピム先生はゆっくりと目を開けた。


「お嬢さん。……最近、特定の人物を見ると胸が苦しくなったり、顔が熱くなったりしませんかな?」


「はい、その通りです。特定のアレルゲン(アレクセイ様)に反応しているようです」


「ふむふむ。その人物のことを考えると、夜も眠れなかったり?」


「はい。脳の処理領域(メモリ)が占有されて、業務効率が低下しています」


「なるほど」


ピム先生は聴診器を外し、ニコニコと笑った。


「診断結果が出ました」


「病名は?」


「『恋』じゃな」


「……は?」


私は耳を疑った。


「先生。真面目にやってください。私は科学的な診断を求めています。恋などという定義曖昧な精神状態が、これほどの身体的反応を引き起こすはずがありません」


「いやいや、医学書にも載っておるよ。『恋煩い』というやつじゃ」


「却下します。セカンドオピニオンを要求します」


「頑固な患者さんじゃのう……」


先生はポリポリと頭をかいた。


「では、逆説的に証明してみようか。お嬢さん、その『アレルゲン』である閣下に近づいて、心拍数がどう変化するか計測してみるといい」


「計測?」


「うむ。もし病気なら、安静にしていれば収まるはず。だが、もし恋なら……近づけば近づくほど、悪化するじゃろうて」


なるほど。


仮説検証(POC)ということか。


「理にかなっていますね。逃げてばかりでは原因の特定ができません。敢えて負荷試験を行うことで、原因を切り分ける」


私は立ち上がった。


「わかりました。実験を行います」


診療所を出た私は、決死の覚悟で執務室へ向かった。


扉の前で深呼吸。


(大丈夫。私はプロフェッショナル。感情に流されたりはしません。これはあくまでデータ収集です)


コンコン。


「……入れ」


中から、元気のない声が聞こえた。


私が扉を開けると、アレクセイ様がデスクでうなだれていた。


私の「拒絶」が相当ショックだったらしい。


大型犬が雨に濡れてしょんぼりしているような姿に、少し胸が痛む。


「……ユエンか」


彼が顔を上げた。


「体調は……どうだ? やっぱり、俺が近くにいると気分が悪いか?」


「いえ、その検証に来ました」


私はサングラスを外し、彼の前に立った。


「閣下。今から実験を行います。私の心拍数の変化を記録してください」


「じ、実験?」


「はい。まず、レベル1。視覚的接触です」


私は彼を直視した。


じーっ。


アレクセイ様の顔。


心配そうな眉、深い碧眼、少し無精髭の生えた顎。


(……かっこいい)


ドクン。


早速、心臓が跳ねた。


「……心拍数上昇を確認。ですが、まだ許容範囲内(エラーではない)です」


私は冷や汗を拭った。


「次、レベル2。近接戦闘距離(ゼロ距離)への接近」


私はデスクを回り込み、彼の椅子の横に立った。


彼の匂いがする。


皮と鉄、そして微かな石鹸の香り。


ドクン、ドクン。


鼓動が早くなる。


「ゆ、ユエン? 近いぞ?」


アレクセイ様がドギマギしている。耳が赤い。


その反応がまた、こちらの動揺を誘う。


「……レベル2クリア。心拍数一二〇。有酸素運動レベルです」


私は震える声で記録した。


「次、最終レベル3。……身体的接触(タッチ)です」


「触るのか?」


「はい。昨日の接触によるアナフィラキシーショックの再現実験です。閣下、手を」


アレクセイ様は、恐る恐る大きな手を差し出した。


私はその手に、自分の手を重ねた。


ギュッ。


熱い。


彼の体温が、掌から直接流れ込んでくる。


昨日の馬車の中での記憶――抱きしめられた感触、囁かれた言葉、おでこのキスの熱――が、津波のように押し寄せてきた。


『好きだ、ユエン』


脳内でリフレインする彼の声。


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!!


心臓が早鐘を打つ。


呼吸が浅くなる。


顔が沸騰しそうだ。


「……っ!」


私は耐えきれず、膝から崩れ落ちそうになった。


「ユエン!」


アレクセイ様がとっさに私を支える。


結果として、私は彼の膝の上に座り込み、抱きしめられる形になった。


「だ、大丈夫か!? 顔が真っ赤だぞ!」


「……え、エラー……システム、ダウン……」


私は白目を剥きかけた。


近い。近すぎる。


彼の顔が目の前にある。


心配そうに見つめる瞳に、私が映っている。


これはいけない。


致死量を超えている。


「……閣下、離して……」


「離さない! 医者を呼ぶ! このままじゃ倒れてしまう!」


「違うんです! 貴方が原因なんです!」


私は叫んだ。


「貴方に触れると、心臓が暴走するんです! これは……未知のウイルスか、あるいは強力な呪いです!」


「の、呪い?」


アレクセイ様がキョトンとする。


「俺が、お前に呪いを?」


「そうです! 『ドキドキする呪い』です! 解呪方法が見つかるまで、接触禁止令を発令します!」


私は彼の腕をすり抜け、這うようにして距離を取った。


「半径二メートル以内への接近を禁じます! 業務連絡は伝書鳩かミナ様を経由してください!」


「そ、そんな……」


アレクセイ様が絶望的な顔をした。


「俺は……お前に触れることも許されないのか?」


その悲しげな声に、私の良心がチクリと痛む。


でも、命(心臓)には代えられない。


「……治療法が見つかるまでの辛抱です。私だって、その……不本意ですが」


私は顔を背けた。


「業務に支障が出るのは困ります。……早急に、この『呪い』への耐性をつけますので」


「耐性?」


「はい。いわゆる『慣れ』です。毎日少しずつ閣下の写真を見たり、録音した声を聞いたりして、免疫を獲得します」


私はドアノブを掴んだ。


「それまでは……別居(家庭内別居)です!」


バタン!


私は執務室を飛び出し、自分の部屋へ逃げ込んだ。


ベッドにダイブし、枕に顔を埋める。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


心臓がまだバクバク言っている。


(……認めません。絶対に認めません)


私は枕を殴った。


(これが恋? まさか。恋とは、もっとロマンチックで、詩的なものでしょう? こんな……心不全一歩手前の苦行であるはずがありません!)


私はあくまで「病気説」を支持することにした。


しかし、私の体は正直だった。


その日の夜。


夕食の時間になり、私はミナ様に運んでもらった食事を部屋で一人摂っていた。


味気ない。


アレクセイ様がいない食卓は、ただの栄養補給でしかなかった。


「……食欲減退」


私はスプーンを置いた。


「寂しい、という感情でしょうか。これも症状の一つ?」


コンコン。


ドアがノックされた。


「ユエン。……俺だ」


アレクセイ様の声だ。


ドア越し。姿は見えない。


それなのに、声を聞いただけで、胸がトクンと鳴る。


「……何でしょうか。接近禁止令発令中ですが」


「ああ、わかってる。中には入らない」


彼はドアの向こうで言った。


「ただ……これを渡したくて」


ドアの下の隙間から、一枚の紙が差し入れられた。


拾い上げて見る。


それは、手書きの『業務日報』だった。


ただし、内容は仕事のことではない。


『本日の体調:良好。ただし、ユエン不足により精神的疲労あり』

『夕食の感想:味気なかった。お前がいないと、何を食べても砂のようだ』

『明日の予定:お前の病気(呪い)が治るよう、教会で祈ってくる』


拙い文字で、一生懸命書かれた報告書。


最後には、下手くそな絵で『早く元気になれ』と、花束を持った熊(自分?)のイラストが添えられていた。


「……バカですね」


私は紙を抱きしめた。


胸の奥が、じんと熱くなる。


これは動悸ではない。もっと穏やかで、切ない熱だ。


「……報告、受領しました」


私はドアに向かって声をかけた。


「明日の予定に、修正指示を出します」


「え?」


「教会へ行く時間は無駄です。代わりに……ドア越しでいいので、私の話し相手になってください」


「……ユエン」


「声を聞くだけなら、レベル1以下の負荷ですから。……リハビリには丁度いいです」


沈黙の後、ドアの向こうから、嬉しそうな声が聞こえた。


「ああ。喜んで」


その夜、私たちはドア一枚を隔てて、長い時間語り合った。


仕事の話、王都での話、そしてこれからの領地の話。


姿は見えないけれど、彼がすぐそこにいる気配を感じながら。


不思議と、心臓は暴れなかった。


代わりに、心地よいリズムで脈打っていた。


「……おやすみ、ユエン」


「おやすみなさい、アレクセイ」


彼が去った後、私は手元の『業務日報』を、大切な契約書と一緒に引き出しにしまった。


ピム先生の診断結果。


『恋』。


(……仮に、万が一、その診断が正しかったとして)


私はベッドに入り、天井を見上げた。


(この『病』は、思ったよりも……悪くないかもしれません)


完治を目指すのではなく、上手く付き合っていく(共存する)道を探るべきか。


私は、翌朝の彼との「リハビリ」を楽しみにしながら、眠りについた。


私の「自覚症状なし」の診断は、もはや崩壊寸前だった。

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