第16話
王都からの長い旅路も、終わりが近づいていた。
馬車は北の街道をひた走る。
窓の外には、見慣れた雪景色と、針葉樹の森が広がっている。
「……ふぅ」
私は帳簿を閉じ、眼鏡を外して目頭を揉んだ。
「お疲れですか、お姉様?」
隣でミナ様が、スルメ(試作品の『魔王ジャーキー』)を齧りながら尋ねてくる。
「いいえ。決算処理が予想以上に順調で、脳がドーパミン過多になっているだけです」
「かわいくない答えねぇ。もっとこう、『旅の疲れが出ちゃったみたい』とか言って、殿方に甘えればいいのに」
ミナ様がチラリと向かいの席を見る。
そこには、腕組みをして眠っているアレクセイ様がいた。
揺れる馬車の中でも、彼の姿勢は崩れない。まるで彫像のようだ。
ただ、その顔には微かな疲労の色が見える。
王都での護衛、決闘、そして私の無茶振りに付き合わせたせいだろう。
「……甘える、ですか」
私は首を横に振った。
「非効率です。私が甘えたところで、馬車の速度が上がるわけでも、気温が上がるわけでもありません」
「そういう問題じゃないんだけどなー」
ミナ様は呆れて肩をすくめると、「あ、私ちょっと御者台に行ってくる! 風に当たりたい気分!」と言って、空気を読んだように席を立った。
「え? 寒いですよ?」
「いいのよ! 若さでカバーするから!」
バタン、と扉が閉まり、馬車の中には私とアレクセイ様の二人きりになった。
静寂。
聞こえるのは、馬車の車輪が雪を踏む音と、アレクセイ様の寝息だけ。
私はふと、彼の寝顔をまじまじと観察した。
(……改めて見ると、本当に大きな人ですね)
熊のような体躯。
顔には古傷。
王都の貴族たちのような繊細さはない。
けれど、不思議と不快感はない。むしろ、この圧倒的な質量が近くにあると、妙な安心感を覚える。
「……ん」
アレクセイ様が身じろぎをした。
毛布がずり落ちそうになる。
私は反射的に手を伸ばし、掛け直そうとした。
その時。
ガシッ。
「……っ!?」
私の手首が、彼の手によって掴まれた。
反射神経による迎撃かと思ったが、違う。
彼の手は、私の手首を優しく、しかし離さないように包み込んでいた。
「……起きていたのですか、閣下」
「……ああ」
アレクセイ様がゆっくりと目を開けた。
その瞳は、眠気など微塵もなく、澄み切った深い碧色で私を捉えていた。
「狸寝入りとは、趣味が悪いですよ」
「すまない。……お前が俺の顔を熱心に見ているので、つい」
「見ていません。健康状態の目視確認(チェック)です」
私が手を引っ込めようとすると、彼は逆にぐいっと私を引き寄せた。
「わっ……!?」
バランスを崩した私は、彼の広い胸板の中に倒れ込んだ。
「か、閣下! 危険です!」
私が体勢を立て直そうとすると、彼の太い腕が私の背中に回り、完全にホールドされた。
抱擁。
いわゆる、ハグだ。
だが、その強度は私の想定を超えていた。
ギリギリと音がしそうなほど強く、それでいて、壊れ物を扱うように慎重に。
「……少しだけ」
耳元で、彼の低音が響く。
「充電させてくれ」
「じゅう、でん……?」
「王都では、気が張っていた。……お前を誰かに奪われるんじゃないかと思って」
彼の声が震えている。
「ジェラルドが来た時、お前がいなくなる夢を見た。……怖かったんだ」
北の魔王が、怖い?
あの最強の男が?
私は混乱した。
「非論理的です。私は契約に基づいて行動しています。契約期間中に他社へ移籍することはありません」
「理屈じゃない」
彼は私の肩に顔を埋めた。
「理屈じゃないんだ、ユエン。……俺は、お前がいない世界には、もう戻れない」
彼の吐息が首筋にかかり、ぞわりとした電流が走る。
彼の体温が、服越しに伝わってくる。
熱い。
まるで暖炉を抱えているようだ。
「……閣下、体温が上昇しています。発熱の疑いがあります」
「……お前のせいだ」
彼は顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「お前が……可愛すぎるのが悪い」
「は?」
私の思考回路(CPU)がフリーズした。
可愛い?
私が?
「訂正を求めます。私は『可愛げのない女』として王都で有名です。表情筋は死滅し、言動は事務的。ミナ様のような愛嬌など一ミリも……」
「黙ってろ」
彼は腕の力を強めた。
「俺には見える。……数字と戦う時の、真剣な眼差し。部下を守ろうとする時の、凛とした背中。そして、俺の作ったラーメンを食べて、ほっとしたように笑う顔」
彼は顔を上げ、至近距離で私を見つめた。
「全部、愛おしい」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
「……そ、それは、閣下の主観的バイアスがかかっています。サンプル数一の意見は統計的に……」
「好きだ、ユエン」
私の言葉を遮るように、彼は告げた。
直球(ストレート)。
変化球なしの、剛速球だ。
「俺の残りの人生、全てお前にやる。……だから、俺のそばで笑っていてくれ」
彼の顔が近づいてくる。
唇が、触れる距離。
逃げ場はない。
馬車という密室。拘束された体。そして、この致死量の愛の言葉。
私の顔から火が出そうだった。
体温計があれば、確実に四〇度を超えている。
(緊急事態! 緊急事態! 制御不能!)
私の脳内でアラートが鳴り響く。
キスされる?
この私が?
契約書にそんな条項はない!
私はパニックになり、とっさに口をついて出た言葉は――。
「……っ、追加料金が発生します!」
「……へ?」
アレクセイ様が止まった。
「き、キスはオプション料金です! 一回につき金貨一〇〇枚! 前払いです!」
色気もへったくれもない発言。
アレクセイ様は、ポカンと口を開け、それから……。
「……ぷっ」
吹き出した。
「くくっ……はははは!」
彼は腹を抱えて笑い出した。
「金貨一〇〇枚か! 高いな! 王家の宝剣より高いキスだ!」
「と、当然です! 私の唇にはそれだけの資産価値(ブランドバリュー)があります!」
私は真っ赤になって抗議した。
彼は涙を拭いながら、それでも私を放そうとはしなかった。
「……わかった。今は持ち合わせがない」
彼は優しく微笑み、私のおでこに、チュッ、と音を立てて口付けた。
「だから、これでお預けだ。……残りは、俺がもっと稼いでから払う」
おでこに残る、熱い感触。
私は完全に言葉を失った。
「……分割払いは認めませんよ」
ようやく絞り出したのは、そんな可愛くないセリフだけだった。
「ああ。一括で払えるような男になるさ」
彼は満足げに私を抱きしめ直すと、今度はゆったりと目を閉じた。
「……もう少し、このままで」
彼の鼓動が、私の背中越しに伝わってくる。
トクトクと、力強く、そして少し速いリズム。
私の鼓動も、それに呼応するように速くなっている。
(……これは、同調現象(シンクロ)ですね)
私は自分に言い聞かせた。
密着した二つの個体の生体リズムが共鳴しているだけ。
決して、私が彼にときめいているわけではない。
断じてない。
そう否定しながらも、私は彼の腕の中から抜け出そうとはしなかった。
むしろ、少しだけ……本当に少しだけ、彼の胸に頭を預けてみた。
硬い筋肉の感触と、安心する匂い。
(……悪くないですね。暖房器具としては最高級です)
私はそっと目を閉じた。
その時、馬車の外から「ヒューヒュー! 熱いねぇ!」というミナ様の冷やかし声が聞こえたが、私は無視することにした。
今はただ、この不器用な魔王様の腕の中で、計算も損得も忘れて、まどろんでいたい気分だったからだ。
数時間後。
私たちはついに、ガルガディア領の屋敷に到着した。
「お帰りなさいませ、閣下! ユエン様!」
家令のセバスチャンをはじめ、使用人たちが総出で出迎えてくれた。
彼らの顔は明るい。
王都での武勇伝が、すでに早馬で伝わっていたのだろう。
「ただいま戻りました。……お土産がありますよ」
私は馬車から降りると、大量の荷物を指差した。
「金貨と、カエルと、そして……新しい家族(ミナ様)です」
「えっ?」
使用人たちがキョトンとする中、ミナ様が元気に飛び出してきた。
「初めましてー! 今日からお世話になるミナでーす! ご飯大盛りでお願いしまーす!」
「……賑やかになりそうですね」
セバスチャンが苦笑する。
アレクセイ様は、私を見て言った。
「……家(ホーム)だ」
「はい。私たちの、戦場(職場)ですね」
私はニヤリと笑った。
「さあ、感傷に浸っている暇はありませんよ! 留守中の帳簿確認と、温泉掘削プロジェクトの始動です! 明日からまた、死ぬほど働いてもらいますからね!」
「お手柔らかに頼むよ、ボス」
アレクセイ様が敬礼する。
その顔は、以前のような孤独な魔王の顔ではなく、信頼できるパートナーの顔だった。
しかし。
この夜、私は自分の部屋のベッドで、眠れない夜を過ごすことになる。
ドクン、ドクン、ドクン。
胸の音がうるさい。
おでこの熱が引かない。
アレクセイ様の「好きだ」という声が、脳内でエンドレス再生されている。
「……異常です」
私は枕に顔を埋めた。
「これは……明らかに異常事態です」
私は手探りで、サイドテーブルの上のメモ帳を引き寄せた。
そして、震える手でこう書き記した。
『明日やることリスト:
一、温泉掘削の現場視察
二、カエルの置物の廃棄処分
三、……医師の診察予約(循環器内科)』
そう。
この動悸は、きっと病気だ。
過労による自律神経失調症か、あるいは……。
(……恋、なんて非合理なバグであるはずがありません)
私は必死に自分に言い聞かせ、布団を頭まで被った。
けれど、私の顔が緩んでしまっていることだけは、誰にも――特にあの魔王様には、絶対に秘密にしておかなければならなかった。
北の空に、オーロラが揺らめく夜。
私の「鉄壁の理性」に、致命的な亀裂が入った瞬間だった。
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