第10話

王都での物産展、初日。


結果は、私の予測を上回る「完売(ソールドアウト)」だった。


『魔王饅頭』は、その不気味な見た目と、ロシアンルーレットのスリルが若者たちの心に刺さり、SNS(社交界ネットワーク・システム、要は口コミ)で爆発的に拡散されたのだ。


閉店後、私たちは王都に借りたタウンハウス(仮宿)に戻った。


時刻は深夜二時。


売上の集計作業を終えた私は、ふと空腹を覚えた。


ぐぅぅ……。


静寂に包まれた屋敷に、私の腹の音が響く。


「……エネルギー切れ(ガス欠)ですね」


私はペンを置いた。


夕食は摂ったはずだが、激務と、あのジェラルド殿下の使者を追い返すストレスでカロリーを消費しすぎたようだ。


厨房へ行こう。


私は寝巻きの上にカーディガンを羽織り、廊下に出た。


すると、厨房から微かな明かりが漏れているのが見えた。


(……泥棒? それともネズミ?)


私は足音を殺して近づき、そっと中を覗いた。


そこにいたのは、巨大な影。


アレクセイ様だった。


彼は、冷蔵庫(魔石式保冷庫)の前で腕組みをし、深刻な顔で悩んでいた。


「……ない」


彼が悲しげに呟く。


「……何もない」


「閣下?」


私が声をかけると、彼はビクゥッ! と肩を跳ねさせ、猛スピードで振り返った。


「ゆ、ユエン!? な、なぜここに……!」


「夜食を作りに来ました。閣下こそ、何をされているのですか? 冷蔵庫と睨み合っても、食材は自然発生しませんよ」


「い、いや……その……」


アレクセイ様はバツが悪そうに視線を逸らした。


「腹が、減ってな……。何かすぐに食べられるものがないかと探していたのだが、マリーが食材を厳重に管理していて、余り物すらないんだ」


「ああ、在庫管理(インベントリ)の徹底を指示したのは私です。廃棄ロス(ロス)をゼロにするためですので」


私は厨房に入り、エプロンを手に取った。


「ですが、空腹は労働生産性を下げます。私が何か作りましょう」


「えっ?」


アレクセイ様が目を丸くした。


「お前が? 料理を?」


「意外ですか? 公爵令嬢だって料理くらいします。といっても、私の料理は『化学実験』に近いですが」


私は手際よく髪を束ね、冷蔵庫を開けた。


確かに、まともな肉や野菜は使い切っている。


あるのは、饅頭作りの余りである小麦粉、卵、そして少しの干し肉と、萎びたネギくらいだ。


「……リソースは限定的ですね。ですが、これだけあれば十分です」


私はボウルを取り出し、小麦粉を水で溶き始めた。


「何を作るんだ?」


「『即席麺(インスタント・ヌードル)』のプロトタイプです」


「いんすたんと……?」


「手早くカロリーを摂取するための、効率化された麺料理です。見ていてください」


私は生地を薄く伸ばし、包丁でリズミカルに細切りにしていく。


トントントントン!


正確無比な包丁捌き。ミリ単位で均一な麺が生成されていく。


「す、すごい……」


アレクセイ様が背後でゴクリと喉を鳴らす。


次に、鍋で湯を沸かし、干し肉の切れ端と、乾燥ハーブ、そして少しの調味料でスープを作る。


具材はネギのみ。


最後に麺を茹で、湯切りをしてスープに投入。


所要時間、わずか一〇分。


「完成です。『特製・魔王印の夜泣きラーメン(仮)』」


私は湯気の立つどんぶりを、アレクセイ様の前に差し出した。


「さあ、座ってください」


「……えっ? 俺に?」


「当然です。二人分作りましたから」


アレクセイ様は、おずおずとテーブルに着いた。


目の前には、透き通った黄金色のスープに浸かった麺。


シンプルな見た目だが、干し肉の旨味が溶け出した香ばしい匂いが、食欲を暴力的に刺激する。


「……食べていいのか?」


「はい。ただし」


私は眼鏡を光らせた。


「条件があります」


「条件?」


「感想(フィードバック)をください。味の濃さ、麺のコシ、そして……『人体への有害性がないか』の確認です」


「……有害性?」


「はい。このスープには、隠し味として私の独自配合スパイス『ユエン・スペシャル』が入っています。疲労回復効果を見込んでいますが、臨床データが不足しています。つまり、毒見……いえ、モニタリングですね」


私は箸を渡した。


「さあ、被験者第一号として、忌憚のない意見を」


アレクセイ様は、箸を受け取ると、どんぶりをじっと見つめた。


毒見。実験台。


普通なら怒るところかもしれない。


だが、彼の手は震えていた。


「……手料理」


「はい?」


「お前の、手料理……」


彼は感極まったように、瞳を潤ませている。


「母上が死んでから……誰かに夜食を作ってもらうなんて、初めてだ」


「……閣下、重いです。ただの小麦粉の塊ですよ?」


「いただきます」


彼は合掌すると、麺を啜った。


ズズッ。


「……!!」


カッ、と彼の目が見開かれる。


「……どうですか? 計算では塩分濃度を一・二パーセントに調整しましたが」


「うまい……」


アレクセイ様が呻くように言った。


「うまいぞ、ユエン! なんだこれは! 冷え切った体に染み渡るようだ……!」


彼は夢中で麺を啜り始めた。


ズズズッ、ハフハフ、ズズズッ。


「このスープ……コクがあるのにしつこくない。そして麺の喉越し……! 最高だ!」


「ふむ。高評価(星五つ)ですね」


私も自分の分を啜った。


うん、悪くない。干し肉の出汁が効いている。これなら屋台で出せるレベルだ。商品ラインナップに追加しよう。


ふと見ると、アレクセイ様がどんぶりを抱えて、最後の一滴までスープを飲み干していた。


プハァ、と息を吐く。


その顔は、戦場で見せる鬼の形相とは程遠い、満たされた子供のような笑顔だった。


「……ありがとう、ユエン。生き返った」


「どういたしまして。カロリー補給は完了ですね」


私が片付けようと皿に手を伸ばすと、彼がその手を上から押さえた。


「待て。俺がやる」


「え?」


「作ってもらったんだ。洗い物くらい、俺にさせろ」


彼は立ち上がり、私の手からどんぶりを奪うと、流し台に向かった。


大きな背中が、小さなどんぶりを洗っている。


その不器用で、でも丁寧な手つき。


私は椅子に座り、その後ろ姿を眺めた。


(……不思議な人ですね)


公爵家の父や、ジェラルド殿下なら、「女が料理するのは当然、片付けは使用人の仕事」と言っていただろう。


だが、この北の魔王は違う。


彼は、対等であろうとする。


いや、むしろ私に尽くそうとしている。


「……閣下」


「ん?」


「背中に洗剤の泡が飛んでますよ」


「うおっ!?」


彼が慌てて振り返り、泡だらけの手で自分の背中を触ろうとして、さらに泡を広げた。


「あーあ、黒いシャツが台無しです」


私はため息をつき、近づいてタオルで彼の背中を拭いた。


「じっとしててください。……本当に、手のかかる上司ですね」


「……すまん」


至近距離。


彼の背中からは、体温と、わずかな汗の匂い、そして先ほどのラーメンの匂いがした。


「……ユエン」


彼が背中越しに声をかけてきた。


「何ですか」


「……ずっと、こうしていたいな」


「はい?」


「お前が作った飯を食って、こうして二人で……なんてことない夜を過ごす。……それが、俺の望む『幸せ』なのかもしれない」


彼の声は、低く、優しく、そして切なかった。


私の手が止まる。


幸せ。


その非合理で、数値化できない概念。


私の辞書には「利益」「効率」「成果」という言葉はあっても、「幸せ」という項目は定義が曖昧だ。


でも。


今、私の胸の奥にある、この温かい感覚。


まるでスープを飲んだ時のような、じんわりと広がる熱。


(……これが、そうなのでしょうか?)


私は首を振った。


「……感傷的(センチメンタル)になるのは、深夜のせいです。科学的に証明されています」


私はタオルを彼に押し付けた。


「さあ、終わったらさっさと寝てください。明日は物産展二日目。目標売上は今日の倍ですよ!」


私は逃げるように厨房を出ようとした。


「おやすみ、ユエン」


背後から投げかけられた言葉に、私は足を止めずに答えた。


「……おやすみなさい、アレクセイ」


敬称を付け忘れたことに気づいたのは、部屋に戻って布団に潜り込んでからだった。


(……名前で呼んでしまいました)


私は布団の中で、自分の顔が熱いのを感じた。


ラーメンのスパイスのせいだ。


きっとそうだ。


私は自分に言い聞かせ、目を閉じた。


翌朝。


食堂に行くと、アレクセイ様が朝からニヤニヤしていた。


マリーが不思議そうに首を傾げている。


「お嬢様、閣下が今朝から『肌艶が良い』のですが、昨夜何かありましたか? まさか……」


「何もありません。夜食実験を行っただけです」


私は即答し、席に着いた。


だが、アレクセイ様は私を見るなり、嬉しそうに言った。


「おはよう、ユエン。……今日の夜食も、期待していいか?」


「……一回銀貨五枚です」


「安いな。年間契約しよう」


「調子に乗らないでください」


私たちの「餌付け」関係は、どうやら常習化しそうな気配だった。


だが、そんな平和な朝の空気は、一人の訪問者によって破られることになる。


「た、大変です! お嬢様!」


ブースの準備に行っていた騎士が、血相を変えて飛び込んできた。


「み、店が……我々の出店場所が、荒らされています!」


「なんですって?」


私はナイフを置いた。


「看板が壊され、在庫の饅頭が踏み潰されています! そして、そこには……」


騎士は青ざめた顔で言った。


「『王家への不敬罪により、営業停止を命ず』という張り紙が……」


ガタンッ。


アレクセイ様が椅子を蹴って立ち上がった。


その目には、昨夜の穏やかさは微塵もない。


本物の「魔王」の怒りが宿っていた。


「……ジェラルドか」


「そのようですね」


私は冷静にコーヒー(代わりの麦茶)を飲み干した。


「法的根拠のない営業妨害。器物損壊。および威力業務妨害」


私は立ち上がり、眼鏡の位置を直した。


「……どうやら、全面戦争をご所望のようですね」


「ユエン。俺が行く」


アレクセイ様が剣を掴んだ。


「やつらを全員、消し炭にしてやる」


「お待ちください。暴力は最終手段です」


私は彼を止めた。


「相手は権力を使ってきました。ならば、こちらも『力』で対抗しましょう。ただし、剣ではなく――」


私はニヤリと笑った。


「『世論』と『経済』という名の、もっと恐ろしい武器でね」


私の頭の中では、すでに反撃のシナリオ(作戦図)が完成していた。


倍返し?


いいえ。


一〇〇倍返し(利息付き)です。

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