第7話
翌朝。
私は、腹の虫の音で目を覚ました。
「……不覚。体内時計よりも先に、消化器官が朝を告げるとは」
寝心地の悪い(スプリングが死んでいる)ベッドから起き上がり、身支度を整える。
マリーが用意してくれた朝食のテーブルに着いて、私はスプーンを持ったまま固まった。
「マリー。これは何ですか?」
「スープです、お嬢様」
「……成分分析を。透明度が九〇パーセントを超えています。野菜の姿が見えませんが」
「具材はジャガイモの皮と、塩少々です」
マリーが悲しげに言う。
「あと、メインディッシュはこちらの『岩』です」
彼女が皿に置いたのは、黒くて硬い塊だった。
パンだ。
通称『レンガパン』。
釘が打てるほどの硬度を誇る、北国の保存食である。
「……なるほど」
私はスープを一口啜った。
薄い。お湯だ。
次にパンをナイフで切ろうとしたが、ナイフの方が負けて曲がった。
「……現状認識(アセスメント)が甘かったようですね」
私は眼鏡を押し上げた。
アレクセイ様の屋敷が汚いことは昨日解決した。
だが、もっと根本的な問題――「貧乏」が、ここまで深刻だとは。
「おはよう、ユエン」
そこへ、朝の鍛錬を終えたアレクセイ様が食堂に入ってきた。
爽やかな汗をかいているが、その顔にはどこか申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「……口に合わないか?」
彼が私の前の貧相な食事を見て、眉を下げた。
「すまない。北の冬は厳しくてな。備蓄も底をつきかけているんだ」
「謝罪は不要です、閣下。これは『現状(ファクト)』ですから」
私は硬いパンをスープに浸し(物理的な軟化処理)、口に運んだ。
味はない。
だが、私の脳内では、ドーパミンがドバドバと分泌されていた。
(素晴らしい……!)
逆境。欠乏。そして危機。
これらは全て、経営者にとっては「改善の余地(チャンス)」と同義だ。
何もないなら、作ればいい。
売るものがないなら、生み出せばいい。
私はスープを飲み干すと、ナプキンで口を拭った。
「閣下。食後のコーヒー……はありませんね。では白湯で結構です。至急、緊急経営会議を開きます。セバスチャンさんと、主要な文官を執務室に集めてください」
「か、会議? 今からか?」
「はい。議題は『ガルガディア辺境伯領の倒産回避および黒字化計画』についてです」
一時間後。
昨日のDIYできれいになった執務室に、数名の男たちが集められた。
家令のセバスチャン。
財務担当のヨボヨボの老人、ヘンリー。
そして、軍事部門トップのアレクセイ様。
皆、緊張した面持ちで、上座に座る私を見ている。
「では、始めます」
私は机の上に、真っ赤なインクで修正を入れた財務諸表を叩きつけた。
バァァン!!
「結論から言います。この領地は、あと半年で破綻(デフォルト)します」
「なっ……!?」
老人たちがざわめいた。
「そ、そんな馬鹿な! なんとか回っているはずじゃ!」
「回っていません。自転車操業ですらない、タイヤのない車を押している状態です」
私は指示棒(そこらにあった木の枝)で、壁に貼ったグラフを指した。
「まず、歳出の七割が『軍事費』。魔物の脅威に対抗するためとはいえ、異常な比率です」
「それは仕方がないことだ!」
アレクセイ様が反論する。
「北の森からは強力な魔物が湧く。民を守るためには、騎士団の装備と食料を維持しなければ……」
「ええ、理解しています。安全保障は国家の基盤ですからね。コストカットできない聖域です」
私は頷く。
「問題は歳入です。収入源が『国からの補助金』のみ。これが致命的です」
私はグラフの右側、歳入の項目を指した。
「自国での産業収益がほぼゼロ。税収も、民が貧しすぎて取れない。つまり、国からのお小遣いが止まった瞬間、この領地は全滅します。……閣下、王都で嫌がらせを受けていませんでしたか?」
「……あったな」
アレクセイ様が渋い顔をする。
「補助金の支払いを遅らされたり、物資の輸送を止められたり……」
「それがリスクです。生殺与奪の権を他人に握られている状態。これを脱却しなければ、未来はありません」
「だ、だが……」
財務担当のヘンリーが震える声で言った。
「ここは北の果てじゃ。作物は育たんし、特産品もない。売れるものなど、雪と氷くらいしか……」
「雪と氷。いいですね」
私はニヤリと笑った。
「え?」
「ないものねだりをするのは素人です。プロは『あるもの』を売るのです」
私は窓の外、白銀の世界を指差した。
「この寒冷気候を利用した『天然氷』の輸出。王都の富裕層向けに、夏場に高値で売れます。断熱材としておがくずを使い、魔導輸送を使えば採算は取れます」
「な、なるほど……!」
「次に、魔物資源。倒した魔物はどう処理していますか?」
「燃やしているか、埋めているな」
「もったいない! 魔物の皮は高級な革製品に、骨は肥料や工芸品になります。そして肉は……加工食品に」
「魔物の肉を食うのか!?」
「毒性のない種を選別すれば可能です。例えば、オーク種の肉は燻製にすれば保存が効く。これを『魔王印のジャーキー』としてブランド化して売り出します」
私は黒板(代わりの木の板)に次々とアイデアを書き殴っていく。
「温泉が出る場所はありませんか? あれば観光地化できます。『魔王の隠し湯』として売り出せば、物好きな貴族が来ます」
「お、温泉なら……火山の近くに湧いているが」
「即時開発です。そして最大の資源は、閣下。あなた自身です」
「俺……?」
アレクセイ様が自分を指差した。
「はい。その強面(こわもて)、圧倒的な武力。これをキャラクタービジネスに転用します」
「きゃ、きゃらくたー……?」
「『北の魔王』という悪名を逆手に取るのです。『魔王が守る鉄壁のセキュリティ倉庫』とか、『魔王も唸る激辛カレー』とか。恐怖を付加価値(ブランド)に変えるのです」
会議室は静まり返った。
老人たちは、ポカンと口を開けて私を見ている。
「……お嬢様は、錬金術師でございますか?」
セバスチャンが震える声で尋ねた。
「ゴミを金に変える魔法使いのようだ……」
「魔法ではありません。マーケティングです」
私は帳簿を閉じた。
「愛はありませんが、利益は出しましょう。それが私の、閣下への『誠意』です」
「……愛はない、か」
アレクセイ様が、少しだけ寂しそうに苦笑した。
「だが……お前の言う未来は、楽しそうだ。俺には思いつきもしない」
彼は立ち上がり、深く頭を下げた。
「頼む、ユエン。この領地を……俺の民を、救ってやってくれ。金勘定はわからんが、俺にできることなら何でもする」
「頭を上げてください、閣下。経営者(オーナー)が軽々しく頭を下げるものではありません」
私は彼に近づき、その顔を見上げた。
「それに、『何でもする』と言いましたね? その言葉、忘れないでくださいよ」
「あ、ああ。二言はない」
「では、第一弾のプロジェクトを発表します」
私は一枚の企画書を取り出した。
「来月、王都で開催される『全国物産展』。これに、我がガルガディア領も出展します」
「えっ? 今からか? 商品なんて何も……」
「作ります。今から三週間で。全領民を動員して」
私は不敵に微笑んだ。
「目玉商品は、閣下の顔を模した『魔王饅頭(仮)』です。インパクト重視でいきます」
「お、俺の顔の……饅頭……」
アレクセイ様が絶句した。
想像したのだろう。自分の恐ろしい顔が、小麦粉の皮で包まれて蒸されている様子を。
「食べる人が……いるのか?」
「『魔除けになる』『厄払いになる』というキャッチコピーで売ります。中身は激辛と激甘のロシアンルーレット仕様にすれば、パーティーグッズとして需要があります」
「あ、悪趣味すぎる……!」
「売れれば正義です。さあ、忙しくなりますよ!」
私は手を叩き、老人たちに指示を飛ばし始めた。
「セバスチャンさんは小麦粉の確保! ヘンリーさんはパッケージのデザイン発注! マリーは試作品の作成! そして閣下は……」
「俺は?」
「モデルになっていただきます。そこで怖い顔をして座っていてください。デッサンしますので」
「うぅ……」
最強の騎士が、椅子に座らされて小さくなっている。
私はペンを走らせながら、彼を見つめた。
(……よく見ると、整った顔立ちですね)
傷はあるが、鼻筋は通っているし、睫毛も長い。
怖いというよりは、野性的で精悍だ。
これをデフォルメして可愛くすれば、女性受けも狙えるかもしれない。
「……あまりジロジロ見るな。照れる」
アレクセイ様が顔を赤らめて、そっぽを向いた。
「動かないでください。商品開発(ビジネス)の邪魔です」
「うう……お前には敵わん」
こうして、辺境の静かな城は、突如として「工場」へと変貌を遂げた。
城の厨房からは甘い匂いが漂い、練兵場の騎士たちは剣を置いて小麦粉を練る作業に動員された。
「魔王様のご命令だ! 耳たぶくらいの柔らかさになるまで練れぇ!」
「イエッサー!」
屈強な男たちが、エプロン姿でパン生地と格闘している光景は、シュール以外の何物でもなかった。
ユエンによる「辺境産業革命」。
その第一歩は、小麦粉の粉塵と共に始まったのである。
だが、一つだけ計算外のことがあった。
それは、このドタバタ劇が、私の閉ざされた心に、少しずつ「楽しさ」という感情を芽生えさせていることだった。
王都での孤独な執務とは違う。
ここでは、みんなが私を見てくれる。
私の指示を待ってくれる。
そして、隣にはいつも、不器用な魔王様がいる。
「……悪くないですね」
私はデッサン画の隅に、小さく花丸を描いた。
これが「赤字」ではなく、「恋」という名の黒字に変わるまで、あと……いや、そんな決算報告はまだ早い。
まずは金だ。
私は気持ちを引き締め直し、厨房へと走っていった。
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