第6話
「敵襲か!?」
バンッ! と扉を蹴破り、アレクセイ様が執務室に飛び込んできた。
手には剣。
背後には武装した騎士たち。
彼らは部屋の中に充満する凄まじい土煙を見て、臨戦態勢をとった。
「くそっ、どこから侵入した! ユエンは無事か!?」
アレクセイ様が殺気立った目で煙の向こうを睨む。
私は三角巾で口元を覆い、はたきを両手に持った姿で、煙の中からゆうらりと現れた。
「……お静かに願います、閣下。ホコリが舞いますので」
「ユ、ユエン……?」
アレクセイ様が呆気にとられて剣を下ろした。
「何なんだ、この煙幕は。暗殺者の仕業か?」
「いいえ。長年堆積した『歴史の重み(ただのホコリ)』です。換気扇がないため、窓を開けて強制排出しています」
私は足元にある「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」、そして「機密書類(シュレッダー行き)」の山を指差した。
「現在、執務室の環境改善(リフォーム)を実施中です。進捗率は三〇パーセント。閣下の私物は、そこの『保留ボックス』に放り込んであります」
「ほ、保留……」
彼は部屋を見渡した。
かつて魔窟と呼ばれた(私が勝手に呼んだ)執務室は、劇的な変貌を遂げつつあった。
床が見える。
壁の色がわかる。
そして何より、空気が吸える。
「す、すごい……」
後ろにいた騎士の一人が呟いた。
「あの『開かずの間』が、わずか一時間で……」
「魔法か? 浄化魔法を使ったのか?」
「いいえ、物理です」
私ははたきを腰に差した。
「魔法を使うと魔力コストがかかります。己の肉体を使えばタダです。さあ、見学料を取る前に退散してください。作業の邪魔です」
騎士たちを追い出し、アレクセイ様だけが部屋に残った。
彼は所在なげに、ピカピカになった床の上で立ち尽くしている。
「……俺も、手伝おうか?」
彼が申し訳なさそうに言った。
「汚したのは俺だ。お前にばかり苦労をかけるわけにはいかない」
「お気遣いなく。これは私の趣味と実益を兼ねたストレス解消法ですので」
私は言いながら、壊れた窓枠の方へ向かった。
窓ガラスが割れ、冷たい風が吹き込んでいる。
ガムテープ代わりの補修布と、金槌、釘を取り出す。
「ちょ、待てユエン。それは大工の仕事だ」
「大工を呼ぶと出張費がかかります。この程度の修繕、DIY(Do It Yourself)で十分です」
私は窓枠に足をかけ、慣れた手つきでトンカチを振るった。
カンカンカン! という小気味良い音が響く。
実家の公爵邸でも、自分の部屋の修繕は自分でやっていた。父が予算を回してくれなかったからだが、おかげでサバイバル能力は高い。
「……危ないぞ」
アレクセイ様が私の背後に立った。
彼の手が伸びてくる。
(おや? 作業手順に不満があるのでしょうか)
私は手を止めて振り返った。
至近距離に、アレクセイ様の顔がある。
眉間に深いシワを寄せ、口を真一文字に引き結んだ、あの「魔王顔」だ。
じっと私の手元を見つめている。
(……なるほど。『下手な手際だ、見ていられない』という無言の圧力ですね)
プロの職人(ではないが)に対し、厳しい視線を向ける現場監督。
私は背筋を正した。
「失礼しました。ピッチを上げます」
私は倍速で金槌を振るった。
カンカンカンカンカン!!
「い、いや、そうじゃなくて……」
「次はあの傾いた本棚ですね。承知しました」
私は窓の修理を終えると、部屋の隅で斜塔のように傾いている巨大な本棚に向かった。
高さ二メートルはある、重厚なオーク材の棚だ。中身の本が重すぎて、床板が悲鳴を上げている。
「これを移動させて、床板の補強を行います」
「それは無理だ。重すぎる」
アレクセイ様が首を振る。
「男手を呼んでくる。三人……いや、四人は必要だ」
「人件費の無駄です」
私はスカートをまくり上げ(下にズボンを履いている)、本棚の側面に回り込んだ。
「テコの原理と重心移動を利用すれば、私一人でも動かせます。……ふんっ!」
私は腰を入れて、本棚を押した。
……動かない。
さすがに重い。中身を抜くべきだったか。しかし一冊ずつ出すのはタイムロスだ。
「ぬぅぅぅ……!」
私が顔を真っ赤にして踏ん張っていると、横からぬっと巨大な腕が伸びてきた。
アレクセイ様の腕だ。
丸太のように太い二の腕。浮き出る血管。
彼は無言で本棚の端を掴むと、
「ん」
と、軽く力を入れた。
ズズズズズ……。
あれほど重かった本棚が、まるで発泡スチロールのように軽々と移動していく。
「……は?」
私は目を丸くした。
彼は一息で本棚を安全な場所まで移動させると、パンと手を払った。
「……これでいいか?」
「……」
私は呆然と彼を見上げた。
これが、「北の魔王」のスペック。
基礎的な身体能力(ステータス)が違いすぎる。
「……素晴らしい」
私は思わず拍手した。
「素晴らしい重機(ハードウェア)です、閣下! まさかこれほどの馬力をお持ちとは!」
「じゅ、重機……?」
「はい。これなら業者を呼ばずとも、屋敷中の家具の配置換えが可能です。クレーン車代わりの活躍が期待できます!」
私は目を輝かせた。
「閣下、次はこちらのソファーをお願いします! あと、あの鉄製の金庫も!」
「あ、ああ。わかった」
アレクセイ様は、私が喜んでいるのを見て、まんざらでもない顔をした。
「お前の役に立つなら、いくらでも」
彼は袖をまくり上げ、次々と巨大な家具を移動させていく。
その姿は、まさに頼れる男。
しかし、問題はその「表情」だった。
重いものを持つ際、人はどうしても歯を食いしばり、顔に力が入る。
アレクセイ様の場合、元々の強面が相まって、その形相は「般若」か「鬼神」のようになっていた。
ギリギリと歯ぎしりし、目は血走り、額に青筋を浮かべて家具を運ぶ魔王。
(……怒っている)
私は冷静に分析した。
(『なぜ俺がこんな雑用を』という怒りが、オーラとなって溢れ出ている。これは危険だ。早く終わらせないと、機嫌を損ねて報酬(夕食)をカットされるかもしれない)
私は焦った。
「閣下、素晴らしいスピードです! ですが表情筋が強張っています! もっとリラックスして!」
「ぐぬぬ……(重い)」
「やはりお怒りですね!? すみません、あと少しです! そのタンスを動かしたら休憩にしましょう!」
二人の共同作業(DIY)は、奇妙なテンションで進んでいった。
一時間後。
執務室は、見違えるように生まれ変わっていた。
ゴミは消え、家具は機能的に配置され、壊れた箇所は補修された。
西日が差し込む部屋は、清潔で温かい空気に満ちていた。
「……終わったな」
アレクセイ様が、額の汗を拭いながらソファーに腰を下ろした。
ドサッ、と重い音がする。
「お疲れ様でした、閣下」
私は淹れたてのお茶(マリーに用意させた)を差し出した。
「どうぞ。労働の後の水分補給です」
「……ありがとう」
彼はカップを受け取ると、部屋をぐるりと見渡した。
「信じられないな。俺が知っている部屋とは別世界だ」
「環境は人の心を映す鏡と言います。これで閣下の業務効率も三〇〇パーセント向上するはずです」
「……厳しいな」
彼は苦笑して、お茶を一口啜った。
「だが、悪くない。……お前がいると、世界が明るくなった気がする」
不意打ちのような言葉。
夕日に照らされた彼の横顔は、汗で輝いていて、不覚にもドキッとしてしまった。
(……いけません。これは『吊り橋効果』の一種です。共同作業による一時的な連帯感を、好意と錯覚しているだけ)
私は自分に言い聞かせ、手元の計算機(そろばん)を弾いた。
「では、本日の決算報告です」
雰囲気をぶち壊すように、私は事務的な声を出す。
「業者委託費用の削減分、金貨一〇枚。家具の修繕による資産価値の回復、金貨五枚。そして閣下の『筋肉労働費』として、特別ボーナス金貨二枚を計上します」
「……俺に賃金が出るのか?」
「当然です。労働には対価を。それが私のポリシーですので」
私は金貨二枚をテーブルに置いた。
アレクセイ様は、その金貨を珍しそうに摘み上げた。
そして、ふっと笑う。
「……生まれて初めてだ。自分の城で働いて、給金を貰うなんて」
「これからは慣れていただきます。領主といえど、公私の財布は分けさせていただきますので」
「わかったよ、財務大臣殿」
彼は金貨を大切そうにポケットにしまった。
「……この金で、お前に何か贈ろう」
「え?」
「初給料だろう? 記念に、お前に何か買ってやりたい」
彼は照れくさそうに鼻をかいた。
「何がいい? 花か? それともリボンとか……」
私は瞬きをした。
この人は、どこまでお人好しなのだろう。
私がコスト削減のために働かせたのに、その報酬を私に還元しようとするなんて。
経済合理性のかけらもない。
でも。
「……では」
私は少し考えて、答えた。
「新しい『契約書』をください」
「契約書?」
「はい。閣下と私の、これからの関係性を定義するものです。……雇用期間は無期限。業務内容は『辺境の改革』および『魔王様の幸福追求』。……そんな内容のものを」
アレクセイ様は、目を見開いた。
耳まで真っ赤になっている。
「……それは、つまり」
「解釈はお任せします」
私はお茶を飲み干し、立ち上がった。
「さあ、休憩は終わりです! 次は食堂のリフォームに行きますよ! あのシャンデリア、埃まみれでいつ落ちてくるかわかりませんから!」
「ええっ、まだやるのか!?」
「当然です。城中の『不良債権箇所』を一掃するまで、私の残業は終わりません!」
私ははたきを掲げ、戦場へと向かった。
アレクセイ様は、「やれやれ」と言いつつも、嬉しそうに私の後をついてきた。
こうして、辺境の城の「大改造ビフォーアフター」は、夜遅くまで続くことになった。
城の使用人たちが、ピカピカになった廊下を見て、「幽霊が出なくなった!」と涙して喜ぶのは、翌朝のことである。
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