第5話

王都を出発してから十日。


私たちを乗せた馬車は、ついに北の辺境、ガルガディア領へと足を踏み入れた。


窓の外の景色は、劇的に変化していた。


緑豊かな平原は姿を消し、代わりに広がるのは荒涼とした岩肌と、針葉樹の黒い森。


そして、肌を刺すような冷気。


「さっむぅぅぅ……! なんですかここ、冷蔵庫の中ですか!?」


マリーが毛布にくるまりながら悲鳴を上げる。


「気温は氷点下二度。想定の範囲内です」


私は懐中時計の温度計を確認し、淡々と答えた。


「ですが、この寒さは『資源』にもなり得ます。氷室(ひむろ)ビジネスや、寒冷地特有の作物、あるいは極寒耐久テストの実験場として需要があるはず」


「お嬢様、ポジティブすぎます……私、凍死しそうです」


「死にません。人間はそう簡単に機能停止しませんから」


私はマリーに携帯カイロ(試作品)を投げ渡し、向かいの席のアレクセイ様を見た。


彼は故郷の空気を吸い、心なしか表情が和らいでいるように見える。


……いや、一般人が見たら「獲物を見つけた熊」にしか見えないだろうが、私にはわかる。あれはリラックスしている顔だ。


「……着いたぞ」


アレクセイ様が低く呟いた。


馬車が丘の上で停止する。


眼下に広がっていたのは、巨大な城塞都市だった。


黒い石垣に囲まれた堅牢な街並み。中央には、山を削って作られたような無骨な城がそびえ立っている。


華やかさは皆無。


あるのは、厳しい自然と魔物の脅威に対抗するための、極限まで削ぎ落とされた機能美のみ。


「……どうだ」


アレクセイ様が、不安げに私を見た。


「何もない場所だ。王都のような煌びやかな舞踏会もなければ、流行のドレス屋もない。……失望したか?」


彼は、私が「帰りたい」と言い出すのを恐れているようだ。


私は眼鏡の位置を直し、眼下の街をスキャンするように見回した。


「失望? とんでもない」


私の胸は高鳴っていた。


「素晴らしいです、閣下。見てください、あの整然とした区画整理。防衛効率を最優先した都市設計。無駄な装飾を排した建築様式……まさに『合理的』の塊ですね」


「そ、そうか……?」


「ええ。それに、まだ手付かずの土地がこれほどある。開発の余地(伸び代)が無限大です。私の試算では、適切な投資を行えば、五年で経済規模を三倍にできます」


「さ、三倍……」


「はい。まずは物流の整備と、特産品の開発からですね。あそこの森、良質な木材が眠っていそうですし」


私が早口でまくし立てると、アレクセイ様はポカンとした後、少しだけ頬を緩めた。


「……やはり、お前は変わっているな」


「よく言われます。褒め言葉として受け取っておきます」


馬車は再び動き出し、城門をくぐった。


街の人々は、領主の帰還に気づくと、道端で深く頭を下げた。


歓声はない。


だが、彼らの目には、アレクセイ様に対する深い畏敬と信頼が見て取れた。恐怖で支配しているわけではないようだ。


(優良物件ですね。領民の忠誠度(エンゲージメント)が高い組織は強い)


私は内心で評価ポイントを加算した。


やがて馬車は、中央の城――領主館の前で止まった。


「……降りよう」


アレクセイ様のエスコート(という名の抱っこに近い補助)で馬車を降りる。


そこには、家令らしき初老の男性と、数名の使用人が整列していた。


「お帰りなさいませ、閣下!」


「うむ。……戻った」


アレクセイ様が短く答える。


家令の男性――セバスチャン(仮)としよう――が、私を見て目を丸くした。


「閣下、そちらの御婦人は……?」


「……俺の、その……」


アレクセイ様が言葉に詰まる。


真っ赤になって、視線を泳がせている。


「こ、婚約者……のような、ものだ」


「婚約者ぁぁぁ!?」


セバスチャンが叫び、使用人たちがザワついた。


「ま、まさか閣下に春が!?」「誘拐じゃなくて!?」「あんな華奢な方が……耐えられるのか?」


失礼なひそひそ話が聞こえてくるが、私は気にしない。


私は一歩前に進み出ると、完璧なカーテシーを披露した。


「初めまして。ユエン・ヴァーミリオンと申します。この度、閣下と『契約』を結び、こちらで業務にあたることになりました。以後、よろしくお願いいたします」


「は、はあ……契約……?」


セバスチャンが困惑している。


アレクセイ様は咳払いをした。


「……セバス。ユエンには、この屋敷の……いや、領地の全てを任せるつもりだ」


「全て、でございますか?」


「ああ。俺の権限を、彼女に委譲する」


おお。


なんという太っ腹な発言。


私は感動した。


会って数日の人間に、全権を委譲するとは。彼のリスク管理能力には疑問が残るが、私への信頼の証と受け取ろう。


「……ユエン」


アレクセイ様が私に向き直った。


その顔は真剣そのもので、赤面しながらも、じっと私の目を見つめてくる。


「……俺は、不器用な男だ。気の利いた言葉も言えないし、お前を喜ばせるようなプレゼントも選べないかもしれない」


彼は一歩、私に近づく。


「だが、お前を守ることだけは約束する。……だから、その……」


彼はそこで言葉を切った。


何かを言おうとして、口を開いたり閉じたりしている。


「ずっと、ここにいてほしい」とか「愛している」とか、そういう言葉を探しているのだろうか。


しかし、極度の恥ずかしがり屋である彼には、ハードルが高すぎたようだ。


彼は真っ赤な顔で黙り込み、ただ熱っぽい瞳で私を見つめるだけになった。


沈黙。


重苦しいほどの沈黙が流れる。


周囲の使用人たちも、固唾を飲んで見守っている。


(……なるほど)


私はこの状況を、脳内で高速処理した。


ビジネスにおいて、沈黙は重要なシグナルだ。


特に交渉の場において、相手が条件提示後に黙り込んだ場合、それは「異論なし」あるいは「肯定」を意味することが多い。


彼は「全権委譲する」と言った後、黙り込んだ。


つまり、これは――。


(『細かいことは全部お前の好きにしていい。文句は言わない』という、完全なる白紙委任(フリーハンド)の意思表示ですね!)


「……承知いたしました、閣下」


私は力強く頷いた。


「その沈黙、肯定とみなします」


「え?」


アレクセイ様がキョトンとする。


「言葉はいりません。閣下の目は雄弁に語っています。『俺は武官だから内政はわからん。面倒な数字はお前に丸投げするから、好きに料理しろ』と」


「い、いや、そこまでは言って……」


「ご安心ください。いただいた権限(パワー)、最大限に行使させていただきます」


私は懐から、道中に書き溜めた『領地改革案・フェーズ1』の束を取り出した。


「では早速ですが、業務を開始します。セバスチャンさん、まずは現状把握のため、過去一〇年分の財務諸表と、屋敷の図面、および領民台帳を持ってきてください。三〇分以内で」


「は、はいっ!?」


「マリーは荷解きを。ただし、私の部屋は執務室の隣に確保してください。移動時間のロスを省くためです」


「ら、ラジャーですお嬢様!」


「それと、後ろに繋がれている九名の臨時職員(元盗賊)ですが、彼らは地下牢ではなく、空いている倉庫に収容してください。明日から開墾作業に投入しますので、食事と水を与えておくように」


使用人たちが、馬車の後ろでヘロヘロになっている元盗賊たちを見て、「ひぃっ」と悲鳴を上げた。


私は矢継ぎ早に指示を飛ばし、アレクセイ様に向き直った。


「閣下は、軍務にお戻りください。魔物の討伐計画や巡回ルートの確認など、やるべきことは山積みのはずです」


「え、あ、俺は……お前とゆっくり……」


「私にかまっている時間は損失(ロス)です。トップが現場で指揮を執らなくてどうしますか。夕食時に進捗報告を行いますので、それまで解散!」


私はパンパンと手を叩いた。


アレクセイ様は、何か言いたげに手を伸ばしたが、私の圧倒的な「仕事モード」のオーラに気圧されたのか、すごすごと手を引っ込めた。


「……わ、わかった。……夕食を楽しみにしている」


彼は少し寂しそうに、しかしどこか嬉しそうに肩をすくめると、騎士たちを連れて練兵場の方へ歩いていった。


その背中は、「なんか思ってたのと違うけど、まあいいか」と語っていた。


(ふふっ、チョロい……いえ、理解のある上司で助かります)


私はニヤリと笑い、呆然としているセバスチャンを振り返った。


「さあ、セバスチャンさん。ボーッとしている時間はありませんよ。この屋敷、ざっと見ただけでも修繕箇所が四八カ所あります。まずは雨漏りの修理と、隙間風対策から始めましょう。予算は私が捻出します」


「は、はいぃぃ! ただちに!」


老執事が慌てて走り出す。


こうして、私の辺境での初日は、感動的なロマンスなど欠片もなく、怒涛の業務ラッシュで幕を開けた。


……はずだったのだが。


案内された「領主の私室」兼「執務室」に入った瞬間、私は絶句することになった。


「……なんですか、これは」


そこは、部屋というよりは「ゴミ捨て場」に近かった。


書類の山、山、山。


脱ぎ捨てられた軍服。


磨いていない剣。


飲みかけの酒瓶。


そして、なぜか部屋の隅に転がっているドラゴンの頭骨(トロフィー?)。


「……閣下は、ここで生活していたのですか?」


案内したメイドが、申し訳なさそうに俯く。


「は、はい……閣下は『寝られればいい』と仰って、片付けをさせてもらえなくて……」


「……ほう」


私のこめかみに青筋が浮かんだ。


合理的精神の持ち主として、この非効率極まりない空間(カオス)を許容することはできない。


書類を探すのに何秒かかる?


埃による健康被害のリスクは?


動線の悪さによるストレスは?


「……予定変更です」


私は腕まくりをした。


「まずはこの部屋の『浄化(大掃除)』から始めます。マリー、掃除用具一式を持ってきなさい! 物理で殴るわよ!」


「はいっ! お任せを!」


私は窓を全開にし、冷たい北風を取り込んだ。


愛の言葉? 甘い雰囲気?


そんなものは、この部屋をピカピカにして、生産性を最大化してからだ。


私はスカートの裾を結び上げ、埃まみれの書類の山へと突撃した。


「覚悟なさい、北の魔王。あなたの私生活(プライベート)、私が徹底的に管理(コーディネート)して差し上げます!」


私の雄叫びが、屋敷中に響き渡った。


遠くの練兵場で、アレクセイ様が「くしゅん!」とくしゃみをしたのを、私はまだ知らない。

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