第3話
王都の貴族街にあるヴァーミリオン公爵邸。
私の実家であり、これまでの職場でもある場所だ。
アレクセイ様の馬車が屋敷の前に横付けされると、門番たちがギョッとして槍を取り落とした。
無理もない。
漆黒の馬車には、獰猛なグリフォンの紋章。そして御者台に座っているのは、どう見ても元山賊(現・辺境伯騎士)の強面だ。
「……ここで待っていてください。荷物をまとめてきます」
私は馬車の中のアレクセイ様に告げた。
「一人で大丈夫か? その……父親は、厳しいのだろう?」
アレクセイ様が心配そうに眉を寄せる。
確かに、父である公爵はプライドの塊のような人物だ。婚約破棄された娘など、一族の恥として罵倒するのが目に見えている。
「問題ありません。想定問答集は作成済みです。それに、長居するつもりもありませんから」
私は懐中時計を確認した。
「目標タイムは三時間。一分でも過ぎたら、置いていってください」
「……置いていくわけないだろう」
彼は不機嫌そうに呟いた。
「待つのは慣れている。……ゆっくりでいい」
「いいえ、時は金なり(タイム・イズ・マネー)。待機コストを発生させるわけにはいきません」
私はきっぱりと言い切り、馬車を降りた。
屋敷の扉を開ける。
出迎えた執事が、私を見るなり青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「お、お嬢様! 大変です! 旦那様が、旦那様が……!」
「あー、わかります。カンカンに怒っているんでしょう?」
「はい! 『あの馬鹿娘が!』と、壺を三つほど割られました!」
「三つですか。資産の無駄遣いですね」
私は淡々と廊下を進み、父の執務室のドアをノックなしで開け放った。
「た・だ・い・ま・戻りました、お父様」
「ユエン!!」
机の向こうで、父が立ち上がった。顔が茹でダコのように赤い。
「貴様、なんということをしてくれたんだ! 王太子殿下との婚約破棄だと!? しかも、慰謝料をふんだくって逃げただと!?」
「訂正を。逃げたのではなく、戦略的撤退です」
私は父の前に立ち、一枚の書類を机に置いた。
「破門状、あるいは勘当届の準備はできていますか? まだなら、こちらで用意しましたが」
「な、なに……?」
父は虚を突かれた顔をした。
「私が婚約破棄されたことで、公爵家の顔には泥が塗られました。お父様のことですから、私を勘当してトカゲの尻尾切りを図るでしょう? なので、手続きを簡略化しておきました」
「き、貴様……親に向かってなんだその態度は! 反省の色はないのか!」
「反省? 殿下の浮気は私の管理外(アウト・オブ・コントロール)です。それより、ビジネスの話をしましょう」
私は書類を指差す。
「私はこの家を出て行きます。籍も抜いていただいて構いません。その代わり、手切れ金としていただきたい物件があります」
「物件だと? 恥さらしの娘にやる金などないわ!」
「金銭は要求しません。私が欲しいのは――北の果てにある『別荘』です」
父が目を丸くした。
「北の別荘? ……あの、廃墟か?」
そこは、曽祖父の代に建てられ、数十年放置されている古い屋敷だ。
維持費だけがかさみ、幽霊が出ると噂され、買い手もつかない不良債権。
「あんなゴミ屋敷をどうする気だ? 屋根も落ちかけているんだぞ」
「構いません。あそこなら、これからの私の『就職先』に近いので」
「就職先?」
「ええ。アレクセイ・ガルガディア辺境伯領です」
父の顔色が、赤から青、そして白へと変わった。
「へ、辺境伯……? あの『北の魔王』か!? まさか貴様、あの男に売られたのか!?」
「ヘッドハンティングです。条件は悪くありません」
私はニッコリと笑った。
「どうしますか、お父様。私を勘当して不良債権(あの廃墟)を処分するか、それともこのまま家に置いて、世間の噂話に耐え続けるか」
父はしばらくプルプルと震えていたが、やがて決心したように叫んだ。
「……持っていけ! あんなボロ屋敷でもなんでも! 二度と私の前に顔を見せるな!」
「交渉成立(ディール)。感謝します」
私は書類にサインをもらうと、一礼して部屋を出た。
所要時間、十分。
順調だ。次は荷造りである。
自室に戻ると、専属メイドのマリーが泣きながら待っていた。
「お嬢様ぁっ! 追い出されるって本当ですかぁ!?」
「マリー、泣いている暇があったら手を動かしなさい。出発まであと二時間五〇分です」
私は部屋のクローゼットを開け放った。
中には、王太子妃になるために仕立てられた煌びやかなドレスや、最高級の宝石が詰まっている。
「ドレスをトランクに詰めますね!」
マリーがドレスに手を伸ばすが、私はそれを制した。
「不要です」
「え?」
「そんなコルセットで締め上げるようなドレス、辺境では動きにくいだけです。作業の邪魔になります」
「で、でも……」
「持っていくのは、以下の三点に絞ります」
私は指を三本立てた。
「一、実用的な衣類。動きやすく、寒さに強いもの。乗馬服や部屋着を中心に」
「は、はい」
「二、書籍。特に経営学、農学、土木建築、魔道具の技術書。恋愛小説や詩集は置いていきます」
「ええっ? 乙女の嗜みなのに……」
「三、換金性の高い小物。および、私が独自に開発した便利グッズの試作品」
私は部屋の隅にある木箱を指差した。
そこには、私が夜な夜な開発していた『自動羽ペン』や『携帯用魔力コンロ』などのガラクタ……もとい、発明品が入っている。
「これを全て運び出してください。ドレスや靴は、お父様への『置き土産』にします。売れば少しは足しになるでしょう」
「お嬢様……本当に、行っちゃうんですか?」
マリーがまた涙ぐむ。
私は手を止めて、彼女を見た。
マリーは私が幼い頃から仕えてくれた、数少ない味方だ。私の無愛想な態度にもめげず、いつも世話を焼いてくれた。
「……マリー。貴女の雇用契約は、公爵家とのものです。私についてきても、給金は払えませんよ」
「そんなの関係ありません! 私、お嬢様についていきます! お嬢様一人じゃ、お着替えも髪結いもできないじゃないですか!」
「……一人でもできます。効率は落ちますが」
「ほらっ! やっぱり私がいないとダメです!」
マリーは涙を拭って、鼻を鳴らした。
「辺境だろうが魔王の城だろうが、お供します! 覚悟してください!」
予想外の展開だ。
人件費が増える。
だが……私の脳内計算機が、別の解を弾き出した。
彼女の家事スキルと精神的サポート効果は、給金以上の価値がある、と。
「……わかりました。では、現地採用枠で再契約します。ただし、最初のうちは薄給ですよ?」
「構いません! さあ、急ぎましょう!」
マリーが猛然と動き出した。
早い。
さすが私に鍛えられたメイドだ。
私たちは嵐のように部屋を片付け、必要なものだけをトランクに詰め込んだ。
本棚の本を紐で縛り、実験器具を緩衝材で包む。
廊下ですれ違う他の使用人たちが、「夜逃げ……?」「いや、昼逃げか……」と呆然と見送る中、私たちは荷物を運び出した。
玄関ホールに降りると、ちょうど約束の三時間が経過しようとしていた。
「よし。積み込み完了です」
外に出ると、アレクセイ様が馬車の前で仁王立ちしていた。
近づく野良犬を、視線だけで撃退しているところだった。
「……戻ったか」
私と、大量の荷物、そしてマリーを見て、彼は少し目を丸くした。
「随分と身軽だな。ドレスは?」
「置いてきました。これからは現場主義でいきますので」
私はトランクを指差す。
「中身は私の『武器(本と道具)』です。それと、優秀な部下(メイド)が一名増えましたが、馬車の積載量は大丈夫ですか?」
「……問題ない。歓迎する」
アレクセイ様は、怯えるマリーにも不器用に頷いて見せた。
マリーは「ひいっ、魔王様……!」と震えつつも、私の後ろに隠れてついてくる。
「出立しよう。日が暮れる」
アレクセイ様が手を貸してくれようとしたが、私は自分でひらりと馬車に飛び乗った。
「おっと、失礼。つい癖で」
「……可愛げのない」
彼は苦笑して、自分も乗り込んだ。
御者が鞭を振るう。
馬車が動き出し、公爵邸が遠ざかっていく。
窓から見える屋敷は、今までと変わらず立派で、そして冷たかった。
あそこで過ごした一八年間。
褒められることより、叱られることの方が多かった。
愛されることより、役に立つことを求められた。
(――さようなら。私の『不採算部門』だった過去)
私は窓を閉め、パチンとカーテンを引いた。
これでもう、振り返ることはない。
「……後悔していないか?」
向かいの席で、アレクセイ様がまた聞いてきた。
本当に、心配性な魔王様だ。
「していません」
私は即答する。
そして、膝の上に置いた帳簿(早速、辺境領のデータをもらった)を開いた。
「さて、閣下。感傷に浸る時間は終了です。移動時間を有効活用しましょう」
「……へ?」
「領地の財務状況について、ヒアリングを行います。まず、この『使途不明金・年間金貨一万枚』という項目について、説明していただけますか?」
私の目が光った(ように見えたらしい)。
アレクセイ様が、ビクリと肩を震わせる。
「い、いや、それは……部下たちの装備費というか、その……宴会代も少し……」
「宴会代? 経費計上の基準が甘すぎます。見直しが必要ですね」
私は羽ペンを取り出し、赤インクをたっぷりと付けた。
「到着までに、この赤字だらけの帳簿を『真っ赤』に添削しておきます。覚悟しておいてくださいね?」
「……お手柔らかに頼む」
北の魔王が、小さくなった。
その横で、マリーが「お嬢様、通常運転だわ……」と安心したように呟く。
馬車は北へ走る。
私の新しい職場、そして新しい「戦場」へ向かって。
残業なしの辺境ライフ?
いいえ、どうやら最初は、経営再建という名の『デスマーチ』が待っているようだった。
(望むところです。黒字化してみせましょう!)
私の口元に、好戦的な笑みが浮かんだ。
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