第2話

「……俺の全てをやる」


北の魔王、アレクセイ・ガルガディア辺境伯の低音が、静まり返った会場に重く響いた。


その言葉の意味を、周囲の人間は「求愛」と受け取ったことだろう。


あるいは「この女を俺の所有物にする」という独占欲の宣言か。


だが、私の解釈は違った。


(全てをやる、ということは……領地経営権の全権委譲!?)


なんと魅力的なオファーだろうか。


通常、辺境伯領への輿入れとなれば、あくまで「妻」としてのサポート業務が主となる。


だが、彼は「全て」と言った。


つまり、予算編成権、人事権、さらには都市計画の最終決定権までもが私の手中に落ちるということだ。


王太子妃として飼い殺しにされ、決裁権もなくただ微笑んでいるだけの未来とは雲泥の差である。


私は即座に脳内で損益分岐点を計算し、結論を出した。


「……交渉成立です、閣下」


私はアレクセイ様に向き直り、毅然と告げる。


「その雇用条件、謹んでお受けいたします。――ユエン・ヴァーミリオン、ただいまより貴殿の配下として業務を開始します」


「……うむ」


アレクセイ様は満足げに頷いた。


その顔は相変わらず凶悪で、頬の傷が引きつっているため、周囲からは「獲物を確保した獣の笑み」に見えているようだ。


令嬢たちが「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げる。


だが、よく見ると彼の耳が少し赤くなっているのは、血圧の上昇だろうか?


健康管理も私の仕事になりそうだ。


「待て待て待てぇぇい!!」


そこへ、ようやく再起動したジェラルド殿下が割って入った。


「き、貴様、正気か!? 相手は『北の魔王』だぞ!? 冷酷無比で、逆らう者は皆殺し、血で風呂を沸かすと噂される男だぞ!」


「殿下、事実に反する風説の流布は名誉毀損になりますよ」


私は冷静に指摘する。


「それに、血で風呂を沸かすのは熱力学的に非効率です。血液は凝固しやすく、配管が詰まる原因になります。そのような非合理的なことを、一軍を率いる閣下がなさるはずがありません」


「そういう問題じゃない!」


殿下は地団駄を踏んだ。


「あんな化け物のところに行ったら、お前なんて三日で食い殺されるぞ!」


「食料自給率の問題でしたら、私が改善しますのでご心配なく」


「会話が通じない!」


殿下は頭を抱えた後、アレクセイ様を睨みつけた。


いや、睨もうとして、アレクセイ様の眼光に射すくめられ、あからさまに怯んだ。


「き、貴公……! 僕の婚約者……だった女を連れ去ろうなどと、王家に対する反逆とみなすぞ!」


震える声で威嚇する殿下。


対するアレクセイ様は、無言で殿下を見下ろした。


その圧力たるや、物理的な質量を感じるほどだ。


「……不要、と言ったのは貴様だ」


地を這うような声。


「捨てたものを、誰が拾おうと勝手だろう。……それとも、俺とやるか?」


アレクセイ様が腰の剣に手をかけた瞬間、会場の気温が五度下がった気がした。


殺気。


歴戦の猛者だけが纏う、本物の死の匂い。


「ひっ……!」


殿下は腰を抜かし、ミナ様の後ろに隠れた。情けないことこの上ない。


「ゆ、ユエンお姉様ぁ……この人、怖いですぅ……」


ミナ様が涙目で訴えてくるが、私は首を横に振った。


「ご安心を。この殺気は『威嚇射撃』のようなものです。実害はありません」


私はアレクセイ様を見上げる。


「閣下、無駄な戦闘はリソースの浪費です。すでに相手は戦意喪失しています。撤収しましょう」


「……ああ」


私の言葉に、アレクセイ様は素直に殺気を収めた。


(おや? 意外と聞き分けが良いですね)


猛獣使いとしての適性が私にあるのかもしれない。


「行きましょう、閣下」


私はアレクセイ様の隣に並び、出口へ向かおうとした。


だが、ふと足を止める。


(待てよ。重要なことを忘れている)


私はくるりと踵を返し、腰を抜かしている殿下のもとへ戻った。


「な、なんだ!? まだ何かあるのか!?」


殿下がビクッとする。


私は無表情で右手を差し出した。


「お支払いがまだです」


「は?」


「先ほどの慰謝料と未払い賃金です。合計、金貨八〇〇〇枚。即金でお願いします」


会場が再び静まり返る。


この状況で、まだ金の話をするのかという顔だ。


「ば、馬鹿を言うな! 今ここでそんな大金、持っているわけがないだろう!」


「でしょうね。王家の財布の紐が固いのは存じております。ですが、後日振込では『手続き上のミス』や『忘却』によって踏み倒されるリスクが高い」


私は殿下の全身をジロジロとスキャンした。


「現物支給で結構です。資産価値のあるものを置いていってください」


「はあ!? 何を……」


「まず、その腕時計。王室御用達の限定モデルですね。中古市場でも金貨五〇〇枚の価値はあります」


「ちょ、待て! これは父上から……」


「回収します」


私は殿下の腕から素早く時計を抜き取った。


「次に、そのカフスボタン。最高級の魔石入りですね。左右合わせて金貨三〇〇枚」


「ああっ!」


「胸元のブローチ。王家の紋章入りですが、地金と宝石だけにバラせば足がつきません。金貨二〇〇枚」


「や、やめろ! 剥ぎ取るな!」


抵抗する殿下を、背後からアレクセイ様が「ん?」と一睨みする。


殿下は「ヒッ」と硬直した。


その隙に私はテキパキと貴金属を回収していく。


「ユエンお姉様! ひどいです! ジェラルド様が可哀想!」


ミナ様が抗議してくる。


私は彼女の首元に視線を移した。


「ミナ様、そのネックレス。先月、王室予算の『交際費』名目で購入されたものですね?」


「えっ? こ、これはジェラルド様からの愛のプレゼントで……」


「原資が税金である以上、それは公的資産の私的流用に当たります。証拠品として押収、および慰謝料の一部として充当します」


「いやぁぁぁ! 私のダイヤぁぁ!」


「あと、そのイヤリングもです。抵抗すると公務執行妨害ですよ」


「公務じゃないでしょ!?」


私はミナ様からも装飾品を回収し、持っていた巾着袋(予備の書類入れ)に放り込んだ。


ジャラジャラと良い音がする。


ざっと見積もって、金貨二〇〇〇枚分くらいにはなっただろうか。


「まだ足りませんが、残りは分割払いを認めましょう。ただし、年利一五パーセントの金利がつきますのでお忘れなく」


私は身ぐるみ剥がされてボロボロになった殿下と、装飾品を奪われて地味になったミナ様を見下ろした。


「領収書は後日発行します。――それでは、今度こそ失礼いたします」


私はパンパンと袋を叩き、満足げに微笑んだ。


これで当面の旅費と、辺境での事業立ち上げ資金の一部が確保できた。


「お待たせしました、閣下。参りましょう」


戻ると、アレクセイ様がなぜか呆然としていた。


「……お前、すごいな」


「お褒めにあずかり光栄です。回収業務は得意分野ですので」


「……いや、そういう意味では」


彼は何か言いかけたが、口元をふっと緩めた。


「まあいい。退屈はしなさそうだ」


彼は不器用に腕を差し出してきた。


エスコートのつもりだろうか。


私はその腕を見て、少し考えた後、自分の荷物(戦利品の入った袋)を彼の手に持たせた。


「あ、恐れ入ります。荷物持ちまでしていただけるとは、福利厚生が充実していますね」


「…………」


アレクセイ様が固まった。


周囲の貴族たちが「あーあ……」という顔をする。


「え? 違いましたか? 重量物運搬は筋力のある男性の役割かと」


「……いや、違わない。貸せ」


彼は苦笑しながら、私の重たい袋を軽々と担いでくれた。


「行くぞ、俺の……」


「はい、新しい上司(ボス)!」


私は元気よく返事をして、彼の後に続いた。


背後には、廃人となった元婚約者と、ヒロイン。


そして、破壊された扉と、呆気に取られる観衆。


私の新しい人生――「残業なし、休日あり、成果報酬型」の辺境ライフは、こうして幕を開けたのである。


馬車に乗り込むと、アレクセイ様が向かいの席に座った。


改めて見ると、本当に大きな人だ。


馬車の中が狭く感じる。


「……ユエン」


不意に名前を呼ばれた。


「はい、何でしょう。今後の業務スケジュールの確認ですか?」


手帳を開こうとすると、彼はそれを手で制した。


「いや……悪かったな」


「何がですか?」


「あんな男でも、婚約者だったんだろう。……辛くはないのか」


彼は気まずそうに視線を逸らしながら、私の顔色を窺っている。


ああ、なるほど。


彼は見た目に反して、随分と気配りの人らしい。


私が強がって平気なフリをしていると思っているのだ。


「閣下。先ほども申し上げましたが」


私は真っ直ぐに彼の目を見た。


「私は『辛い』という感情を、非生産的な業務に対してのみ抱きます」


「非生産的?」


「はい。愛のない相手に愛想を振りまき、終わりのない雑務をこなす日々。あれこそが地獄でした」


私は窓の外、遠ざかる王城を眺める。


「ですが今は違います。私の能力を必要とし、正当に評価してくれる雇用主が現れた。これほど喜ばしいことはありません」


私は視線を戻し、ニッコリと笑った。営業用ではない、本心からの笑みで。


「ですから閣下。私を骨の髄まで使い潰すつもりで、こき使ってくださいね? 必ずや、期待以上の利益(成果)を出してみせますので」


アレクセイ様は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


それから、大きな手で顔を覆い、天井を仰ぐ。


「……くくっ」


低い声が漏れた。


「……ははは! そうか、利益か。そうだな」


彼は初めて、声を上げて笑った。


その笑顔は、先ほどの凶悪なものとは違い、少年のように無邪気で――そして、驚くほど男前だった。


(……おや?)


私の胸の奥で、トクン、と小さなノイズが走った。


不整脈だろうか。


やはり長年の激務で、自律神経が乱れているのかもしれない。


辺境に着いたら、まずは有給休暇を申請して精密検査を受けよう。


私はそう心に決め、揺れる馬車に身を任せた。


目指すは北の最果て。


私の「働き方改革」がいよいよ始まる。

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