悪役令嬢は、その婚約破棄を「契約満了」として受理します。
パリパリかぷちーの
第1話
「ユエン・ヴァーミリオン! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
学園の講堂に、王太子のよく通る声が響き渡った。
音楽が止まり、ダンスを楽しんでいた令息令嬢たちが凍りつく。
静寂の中、私は手元の懐中時計をパチンと閉じた。
「……現在、一九時〇三分。予定より三分遅れですね、ジェラルド殿下」
「は、はあ……?」
私の反応が予想外だったのか、ジェラルド殿下は間の抜けた声を上げた。
壇上の彼を見上げる。
金髪に碧眼。物語の王子様そのものだが、今は顔を真っ赤にして興奮状態にある。その隣には、小動物のように震える男爵令嬢、ミナ様の姿があった。
「お待ちなさい、ユエン! 今、大事な話をしているのよ! もっと動揺するとか、泣き崩れるとかないわけ!?」
ミナ様が私の態度に痺れを切らしたように叫ぶ。
私は冷静に、ドレスのポケットからメモ帳を取り出した。
「動揺? いえ、この事態は想定内です。先月の『王太子殿下の動向調査報告書』において、本日この場での婚約破棄発生確率は九八・七パーセントと算出されておりましたので」
「な、なんだそれは……! 僕を監視していたのか!?」
「監視ではありません。リスク管理です」
私はペンを走らせながら、淡々と続ける。
「次期国王となる殿下の行動パターンを把握し、不測の事態に備えるのは婚約者としての義務。――もっとも、その業務もたった今、終了したようですが」
「そ、そうだ! 貴様のような血も涙もない女に、国母となる資格はない! ミナを見ろ。彼女のこの愛らしさ、優しさこそが癒やしなのだ!」
殿下はミナ様の腰を引き寄せ、見せつけるように抱きしめた。
周囲から「まあ……」「なんて大胆な」とさざめきが起こる。
本来なら、ここで私は嫉妬に狂い、見苦しく罵倒する役割なのだろう。
だが、私の胸に去来したのは、深い安堵感だけだった。
(やっと……終わった……!)
幼い頃から王妃教育という名のデスマーチ。
朝五時起きのマナー訓練、分刻みのスケジュール、終わりのない公務、そして殿下の尻拭い。
休日? ありません。残業代? 名誉という名の紙切れです。
それが今、あちらから「クビ」を宣告してくれたのだ。
「確認ですが、殿下。その発言は『王家からの正式な契約解除通告』と受け取ってよろしいですね?」
「う、うむ。そうだ」
「撤回はありませんね?」
「あるわけがない! 二言はないぞ!」
「言質、いただきました」
私は口角をわずかに上げた。
おそらく、今の私は生まれて初めて心からの笑顔を浮かべているはずだ。
「では、これより精算手続きに入らせていただきます」
「は? せい、さん……?」
私は懐から分厚い書類の束を取り出した。
事前に用意しておいた『婚約破棄に伴う合意解約書および請求書』である。
「こちらが、王家より我がヴァーミリオン公爵家へ支払われるべき違約金、ならびに私がこれまで代行してきた公務の未払い労働賃金、および精神的苦痛に対する慰謝料の請求書です」
「い、慰謝料だと……!?」
「ええ、もちろんです。一方的な婚約破棄には正当な対価が発生します。ビジネスの基本でしょう?」
私は書類を殿下に突きつけた。
「まず、基本違約金が金貨五〇〇〇枚。これは王家との契約書第十条に基づくものです」
「ご、五千……!?」
「次に、過去五年間に私が代行した殿下の書類決済業務、視察同行、およびスピーチ原稿作成費用。こちらは時間外労働の割増賃金を適用し、金貨三〇〇〇枚」
「僕の仕事まで金を取るのか!?」
「労働には対価を。当然です。殿下がパーティーで遊び回っている間に私が処理した案件数は、のべ四千件を超えます。議事録も全て保管してありますよ」
殿下の顔が青ざめていく。
しかし、私は止まらない。
「最後に、ミナ様へのいじめ疑惑に関する調査費用と、名誉毀損に対する賠償金です」
「そうだ! 貴様はミナをいじめていた! 階段から突き落とそうとしたり、教科書を隠したり……!」
殿下が勢いを取り戻したように吠える。
ミナ様も涙目で私のほうを見た。
「そうよ! ユエンお姉様はいつも私を睨んで……怖かったんだから!」
「事実誤認ですね」
私は即答する。
「階段の件は、ミナ様がヒールで躓きそうになったのを、物理法則に基づき最適な角度で支えただけです。教科書の件は、ミナ様が授業中に居眠りをして床に落としたものを、拾って教官卓に届けただけ。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはありません」
「へ理屈を言うな!」
「論理的説明です。それに、私がいじめなどという非効率なことをする理由がありません」
「な、なんだと?」
「いじめには時間と労力がかかります。その時間を公務や自己研鑽に充てるほうが、はるかに生産的です。私にとってミナ様は、視界に入れる価値もない『誤差』に過ぎません」
「き、貴様ぁぁぁ……っ!」
殿下はプルプルと震え出した。
あまりの言い草に、周囲の貴族たちもざわめいている。
「あの冷徹令嬢、本気だぞ……」
「愛がないにも程がある……」
「でも、言っていることは正論じゃないか?」
空気が変わり始めたのを感じ、私は仕上げにかかった。
「とにかく、いじめの事実は存在しませんが、殿下がそう思い込まれているのであれば弁明の時間も無駄です。手切れ金として処理しましょう」
私はペンを殿下に差し出した。
「さあ、ここにサインを。これで全て終わりです。お互い、自由になりましょう」
殿下は悔しそうに唇を噛みながらも、引くに引けなくなったのか、書類をひったくった。
「くそっ……! 金さえ払えばいいんだろう、金さえ! こんな可愛げのない女、こっちから願い下げだ!」
サラサラとサインが書き込まれる。
その筆跡を確認した瞬間、私の脳内でファンファーレが鳴り響いた。
自由。
ああ、なんて甘美な響きだろう。
明日からはもう、早起きして殿下の機嫌を取らなくていい。
興味のないお茶会で愛想笑いをしなくていい。
増え続ける書類の山と格闘しなくていいのだ。
「契約成立ですね。原本は私が、写しは後日王宮へ郵送します」
私は書類を大切にしまい込むと、優雅なカーテシーを披露した。
「それではジェラルド殿下、並びにミナ様。末長くお幸せに。――私はこれにて、『退社』させていただきます」
踵を返す。
背後で殿下が何か喚いていたが、私の耳にはもう届かない。
会場の出口へ向かって、私は軽やかに歩き出した。
あまりにも足取りが軽すぎて、ヒールの音が小気味よいリズムを刻んでしまうほどに。
「待て、ユエン!」
と、その時である。
衛兵たちが私の行く手を塞ぐように立ち塞がった。
「な、なんだ?」
「逃がすな! その女は王家を侮辱した罪人だ! 地下牢へ連行しろ!」
殿下のヒステリックな命令が飛ぶ。
やれやれ。
サインをした直後にこれか。契約履行能力に疑問符がつく。
「殿下。合意後の拘束は違法です。それに、私は侮辱など……」
「うるさい! 捕らえろ!」
衛兵たちが槍を構えて迫ってくる。
さすがに丸腰の令嬢相手にこれは分が悪い。
私がポケットの中の『緊急時用煙幕玉(自作)』を使おうか迷った、その瞬間だった。
ドォォォォォン!!
凄まじい轟音とともに、会場の扉が粉々に吹き飛んだ。
舞い上がる土煙。
悲鳴を上げて逃げ惑う貴族たち。
その土煙の向こうから、巨大な影がゆらりと現れる。
「……騒がしいな」
地底から響くような低い声。
現れたのは、漆黒の軍服に身を包んだ大男だった。
熊のような巨躯。
顔の半分を覆うような傷跡。
そして、人を殺した数だけ刻まれたような深いシワと、凶悪な目つき。
「き、北の……魔王……!?」
誰かが震える声で呟いた。
アレクセイ・ガルガディア辺境伯。
北の国境を守る英雄にして、そのあまりの強さと風貌から『魔王』と恐れられる男だ。
なぜ、彼がこんな学園のパーティーに?
アレクセイ様は、凍りついた会場の中を、重戦車のような足取りで進んでくる。
その進路には、ちょうど私がいた。
(……邪魔だと言って斬り捨てられるパターンでしょうか。確率は五〇パーセント)
私は冷静に回避ルートを計算する。
しかし、彼は私の目の前でピタリと足を止めた。
見上げるような巨体。
彼の影が、私をすっぽりと覆い尽くす。
威圧感で呼吸が止まりそうだ。
彼は、その凶悪な瞳で私をじっと見下ろし――。
「……おい」
「は、はい。何でしょうか」
反射的に背筋を伸ばして答える。
彼は懐から、くしゃくしゃになった紙切れを取り出した。
「……落としたぞ」
それは、私がさっき計算に使っていたメモ書きだった。
「あ……ありがとうございます」
受け取ろうと手を伸ばすと、彼の大きな手が、私の小さな手を包み込むように触れた。
ゴツゴツして、熱い手。
「……お前」
「はい?」
殺されるのか。
身構えた私に、彼はボソリと言った。
「……いい度胸だ。気に入った」
「……はい?」
「俺の領地に来い。……拒否権はない」
「……は?」
私の優秀な脳内コンピューターが、本日初めて『処理不能』のエラーを吐き出した。
これは、誘拐? それとも求婚?
いいえ、文脈から判断するに――。
(人材ヘッドハンティング、ですね?)
北の辺境は万年人手不足と聞く。
私の事務処理能力を見込んでの引き抜きに違いない。
「条件次第では、検討いたしますが」
私がそう答えると、魔王アレクセイ様は、その強面をさらに歪めて(おそらく笑って)言った。
「条件? ……俺の全てをやる」
周囲が再び、本日最大級の悲鳴に包まれた。
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