彼は、膝に置いた拳をぎゅっと握りしめる。

背中の痛みのせいか、思わず「くっ……」と声を漏らし、右側に倒れそうになった。


反射的に立ち上がり、鈴木さんの身体を支える。


「ベッドに移りましょうか。」

彼の脇に腕を回し、そっと寝かせた。


鈴木さんは傾く体勢のまま、花村先生の顔をチラリと見た。

(どうやら、女性には聞かれたくないことのようだ。)


僕は彼の表情をじっと見つめていた。


「私は…」


鈴木さんはベッドに横たわったまま腕を胸の上に組み視線を天井に向ける。


「結婚して、二人の子供に恵まれました。妻に子育てを任せきりにし、仕事、仕事の毎日を過ごしていました。

そんな中、一人の女性と出会いました。単調な日々が刺激のある、楽しいものに変わりました。」


花村先生は鈴木さんの足の付近に立ち、指と指を絡めたまま表情を変えずに鈴木さんを見下ろしている。


「何もかも上手くいっていると錯覚していたんだと思います。

次第に妻が怪しむようになってきました。

私は、あくまでも不倫は人生を彩るもの、愛人が持てる自分は価値のある人間だと思うようになっていました。だから離婚なんてことは考えていなかった。すぐにこの女性とは縁を切ろうと思いました。」


彼の自己中心的な話で眉間に力が入り、シワがよる。

ハーブティーの爽やかな香りが遠く薄れていくようだ。


「別れを告げようとすると、『女性が妊娠している』と言ってきたんです。私はすぐに堕ろすように言いました。」


鈴木さんは肩を微かにすくめ、一度ゆっくり目を閉じた。

花村先生はそっと唇を噛み、何かに耐えるように話を聞いている。


「最初は、『いやだ』と泣きながら訴えていた彼女も、そのうちに『わかった』と言ってくれました。少し多めの堕胎料を渡し、そのまま別れました。」


鈴木さんの手の力が抜け、肩も少し沈む。部屋の空気は張り詰め、微かに重くなる。

私はそれを静かに見つめ、言葉にはせずとも、彼の人格と行いを問いかけるような視線を送る。


「それから転勤もあり、彼女に行き先を告げることなく引っ越してきたので、今、どうしているのかわかりません。」


僕は黙ってうなずく。表情には出さないが、胸の奥で軽く苛立ちが湧く。

――こういう男の話を、医者として受け止めねばならないのか。


「なるほど。わかりました…。


あなたに憑いている水子は普通の水子ではありません。『色情の水子』です。」


花村先生が微かに息を呑む。


「本来水子とはこの世に生を受けたばかりで、世の中を知らない真っさらな状態です。感情というものはありません。ただ純粋に親の愛情だけを求めています。…でも」


一度深く息を吸う。

確認したいことがあった。


「鈴木さんは、結婚式を挙げていませんか?」


「妻とですよね? 結婚式はあげました。」


「それならば、お二人が夫婦になることを神に誓っていると思います。でも、その方以外に子供を作るということは、神を裏切る行為だと考えられるのです。そうして生まれることができなかった子が、色情の水子と呼ばれます。」


花村先生の両手が口元を塞ぎ、目を見開く。僕は淡々と、しかし正確に言葉を選んで続ける。


「色情の水子には、最初から両親に愛される確証がありません。だからより深く、自分の血が繋がる二人を求めてしまいます。エネルギーが強いのです。」


鈴木さんの表情は硬直し、視線は揺れる。


「そのエネルギーは、彼女の感情を増幅させていきます。その年数が長ければ長いほど、より形を成していくでしょう。そうして彼女の思いがあなたのところに生き霊を飛ばすまでに成長してしまった。」


自分から医師として冷静にと押さえ込んでいた怒りが心の隙間を縫って溢れ出していく。


「鈴木さん、あなたに一方的に別れを切り出された挙句、子供まで堕さなければならなかった彼女の気持ちがわかりますか?


子供を中絶する女性は、手術で身体を傷つけられるだけでなく、『自分が自分の子供を殺した』と考えるのです。」


「!!」


鈴木さんはそんなこと一度も考えたことがなかったのだろう。今、現実を突きつけられ、鋭いもので刺されたかのように、彼は苦痛に顔を歪ませた。


「自業自得…なんですね。この背中の痛みは…。

正直、今の今まで彼女と子供のことは忘れていました。


確かに…

私はなんて愚かなことを…

取り返しがつかないことをしてしまった…。」


鈴木さんは壁側を向いて身体を胎児のように丸く丸めると声を上げて泣き出した。


僕と花村先生は、かけてあげる言葉を持ち合わせてはいない。

ただ、一人の大きな男性の叫びにも似た心からの後悔を冷たく見つめていた。


どれだけ時間が経ったのだろう…。


彼の泣き声は、いつしか「ごめんなさい」に変わっていった。


「ごめんなさい、ごめんなさい。」

と繰り返される。


花村先生が動いた。そのままカウンセラー室に消えていく。


カモミールのやさしい甘みとマジョラムの温かみのある落ち着く香りを漂わせながら、ティーカップを持って彼女が帰ってきた。


カチャリと音を立てて、それをデスクに置いた。


「鈴木さん、ハーブティーはいかがですか?

自然な甘みがあるお茶なんですよ。」


疲れた心をそっと包み込むような優しい声で、花村さんは鈴木さんの肩に手を置いた。


涙と鼻水でグシャグシャになった顔を手で覆いながら鈴木さんは身体を起こした。


僕は静かにティッシュを差し出す。


小さく

「すみません。」

と言って彼は受け取った。


鈴木さんは、今日二杯目のハーブティーをゆっくりと口に運んでいる。

一杯目は背中の痛みを和らげるために。

二杯目は胸の奥の痛みを柔らげるために。


こうした気遣いのできる花村さんは、どこまでも人の心に安らぎと安心を与える。

——本当に、なんて素晴らしい人なんだろう。


だからこそ、次は僕の番だ。


「鈴木さん。

生き霊は、成仏させるものではありません。」


声の調子を整え、事実だけを並べる。


「本来であれば『生き霊返し』を行います。ただし、生き霊を送っていることに気づかれ、その念を跳ね返された者には、生き霊の何倍もの苦痛が返されます。」


一拍置く。


「それでも鈴木さん——『生き霊返し』をしますか?」


究極の選択を迫られているのだろう。

背中の痛みを抱え続けるのは辛い。

だが、その痛みから逃れるために、自分の身勝手で傷つけた女性をさらに追い込むことになる。


彼の沈黙が、その葛藤を物語っていた。


やがて、意を決したような光が彼の瞳に宿る。


「いえ、全て私が招いたことです。

きっと今も彼女は苦しんでいる。

この痛みは私が引き受けます。」


そう言った。


「…すみません、少し試すような言い方をしてしまいました。」


僕は決めていた。もし彼が生き霊返しをお願いしてきたら、救う道を断とうと。


「先ほども言いましたが、あなたには色情の水子がついています。それが生き霊のエネルギーとなっているのです。

水子は元は人間。霊と同じく、供養することで成仏できます。

水子が成仏すれば、生き霊も消え、その女性も救われるでしょう。」


鈴木さんの顔が、みるみる明るくなっていく。

極限まで張り詰めていた身体は、これまで呼吸をする力さえ奪っていた。

しかし今、胸が大きく上下し、また指先まで酸素が行き渡っているようだ。


花村さんに顔を向ける。


花村さんは頭の上に「?」と出ているように首を傾げた。


その仕草に少し笑みが溢れる。


もう一度鈴木さんに向き直り


「さて、ここからは花村先生がお話します。」


そう言って立ち上がり、診断室の椅子を譲った。


「えっ? あっ、はい。」


と僕の意図を理解して席に座った。

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