診断
ガチャッ。
重たい音が、その空気に混ざった。
患者さんが来たようだ。
二人は顔を見合わせた。
私は御門先生を見つめたまま、少し顎を引くと待合室へ向かった。
そこに立っていたのは、
四十代くらいの男性だった。
その男性は、辺りを落ち着かなげに見回している。
「こんにちは。初めてですか?
保険証は入りませんので、こちらの問診票をお書きください。」
私は、ボールペンと一緒に、問診票の挟まったバインダーを差し出した。
男性は、
「……はぁ」
とだけ言ってそれを受け取り、椅子に腰を下ろす。
その瞬間、左手で背中を押さえ、
苦痛に顔を歪めたように見えた。
(腰、かな……)
男性は問診票に視線を落としたまま、
「あの……」
と、小さく声を出し、こちらを見た。
「はい」
そう返すと、男性は少し言い淀みながら、
「この、氏名のところに
仮名でも可、って書いてあるんですけど……
偽名とかでも、いいんでしょうか?」
疑うような、探るような目だった。
「はい。大丈夫です。
私たちが患者様のことを、どうお呼びすればいいのか。
それだけ教えていただければ」
そう言うと、男性は再び、ボールペンを走らせた。
立ち上がる時も、椅子に座った時と同じように、男性は一瞬、顔を歪ませ、背中に手を添えたまま、問診票を持ってこちらへ来た。
「ありがとうございます。
それでは、こちらへお入りください。」
私は診察室のドアを開け、彼を案内した。
部屋に入ると彼は、目の前にいる、若く、少しチャラそうにも見える先生を前にして、
面食らったように一瞬立ち止まり、それから着席した。
「こんにちは。
私はこのクリニックの診断医、御門 舜といいます」
その挨拶が終わるのを待って、
私は、氏名の欄に『鈴木』とだけ書かれた問診票を差し出す。
「えっと……鈴木さん、ですね」
(さっき仮名の話をしたから、たぶん偽名だろう)
しばらく問診票に目を落としていた先生は、
ふいに視線を上げ、私を見る。
「花村先生。
鈴木さんに、さっきのお茶をお出ししてあげてください。」
「えっ……あ、はい」
(なんだろう。
診断の時に、飲み物を出すなんて…。
それに――)
私は、御門先生の顔を見る。
(……雰囲気が、少し変わった?
さっきまでの軽さが、どこかに消えている)
胸の奥に、小さな引っかかりを覚えたまま、
私はカウンセラー室へ向かった。
「さて、鈴木さん。
『背中に痛みがある』、ということですね。」
「はい。
何をしていても、背中の……肩甲骨より少し下のあたりが痛いんです。
整形外科を受診したのですが、
『特に異常は見られないですね。
どこかで捻ったのかもしれません』
って言われて、湿布を出されるだけで。
内臓かもしれないと思って、内科にも行ってみました。
そこでも『特に病気はありません』って言われて……」
男性は、言葉を探すように、少し間を置く。
「でも、会社へ通うとき、
電車で吊り革に掴まるのも辛いんです。
座れたとしても、背中が痛くて、
顔を上げているのもきつくて……」
そこへ、先ほどの、
牧草のようで心が落ち着く香りが、ふわりと鼻先に届いた。
「どうぞ。」
そう言って花村先生は、
デスクの上、鈴木さんのいちばん近い場所に、ハーブティーをそっと置いた。
「痛みを和らげる効果のあるハーブティーを、淹れていただきました。
ハーブティーが苦手でなければ、ですが……」
そう言って、僕は、鈴木さんに勧めた。
「ハーブティーなんて、あまり飲んだことがありません……。
いただきます。」
そう言って鈴木さんは、恐る恐るカップを口元に運び、
「ふーっ」と小さく息を吹きかけてから、一口含んだ。
目を閉じ、
一度、大きく息を吐く。
「……これは、美味しいですね。
なんだか、お腹の奥から広がって、痛みを外に押し出してくれるような感じがします。
苦味もなくて、ほんのり甘くて、飲みやすい。」
鈴木さんは花村先生のほうを振り返り、そう言った。
「お口にあって、よかったです。」
花村先生は、にっこりと微笑んだ。
「鈴木さん。
もし、座っているのが辛いようでしたら、
そちらのベッドで横になりながらお話しいただいても構いません。
どうぞ、楽な姿勢を取ってください。」
そう言って、
右の壁沿いに置かれたベッドを指し示した。
「ありがとうございます。無理そうでしたら、そうさせてもらいます。」
鈴木さんは伸ばしていた背筋を丸めて両肘を膝に置いた。
(今はその姿勢が楽だということだろう。かなり辛そうだ。)
もう一度、問診票に目を落とす。
「痛みが出始めたのは5ヶ月くらい前ということですね。
他には、気持ち悪さと目眩がある…。」
PCに症状を打ち込んでいく。
『気持ちの悪さ』と読み上げたところで、花村さんの微かに息を呑む音が聞こえた。きっと『水子』の症状があると察したのだろう。
タン、というエンターキーの音が、室内に響いた。
「……診断結果が出ました」
一拍置いて、続ける。
「鈴木さん。
あなたの痛みの原因は、生き霊です。」
「い、いきりょう……ですか?」
鈴木さんは、自分が聞き間違えたのかと、不安そうにこちらを見た。
「はい。」
僕はその視線をまっすぐに受け止めた。
「あなたは今、誰かから強い恨みを向けられています。」
「あっ!」
鈴木さんはすぐに反応した。
御門先生は、その変化を逃さず言葉を続ける。
「今、どなたかの顔を思い浮かべましたね。
おそらく、その方でしょう。
あなたに強い恨みを抱いているのは…。」
「え……いや。でも、その人とは、
もう十年くらい会っていません」
「十年も経っているから…。でしょう」
淡々と続ける。
「問診票を見ると、まだ他にも『気持ち悪い』という症状がありますね。
そして、眩暈も。
これは、あなた自身の水子がついているということです。
つまり、世に生まれなかった、あなたの血を引いた子供がいるのです。」
鈴木さんは目を泳がせ、明らかに動揺していた。
「心当たりがあるようですね。」
「な、なぜ、それを……」
鈴木さんは、聞き取れないほど小さな声でつぶやいた。
「これは、ただの水子ではありません。
話していただけますか。」
僕は、鈴木さんに強い眼差しを向けたまま、静かに告げた。
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