第23話

「……長い」


結婚式を一週間後に控えたある日。


帝国の法務局にて、私は目の前に広げられた巻物――床まで届くほどの長さがある――を見下ろして呟いた。


「これは何ですか? 嫌がらせですか?」


「滅相もございません! これぞ帝国に伝わる由緒正しき『婚姻誓約書』でございます!」


法務大臣である老齢の官僚が、震える手で巻物を押さえている。


「歴代の皇后陛下は、皆様この誓約書にサインをしてこられました。さあ、シルビア様もこちらに署名を……」


「待ちなさい。中身も読まずにサインをする馬鹿がどこにいますか」


私は懐から老眼鏡(伊達メガネ。知的に見える演出用)を取り出し、巻物の冒頭から読み始めた。


「第1条:妻は夫を敬い、三歩下がって歩くこと」


「……」


「第2条:妻は夫の言葉に絶対服従とし、口答えを禁ずる」


「……」


「第3条:妻は毎朝、夫の剣を磨き、靴を舐めて忠誠を誓うこと」


「…………」


ブチッ。


私のこめかみで、何かが切れる音がした。


「ふざけているのですか?」


「は、はい?」


「いつの時代の法律ですか、これは。化石ですか? 博物館に寄贈した方がよろしいのでは?」


私は法務大臣を睨みつけた。


「三歩下がって歩く? 効率が悪いです。並んで歩けば会話のタイムラグがゼロになります。靴を舐める? 衛生的に問題があります。剣を磨く? 専門の職人に任せた方が切れ味が保てます」


「し、しかし、これは伝統で……」


「伝統が飯を食わせてくれますか? 伝統が国を守りますか?」


私はデスクにあった赤ペン(極太)のキャップを、親指で弾き飛ばした。


「全面改定します」


「へっ!?」


「今から私が、このカビの生えた契約書を、現代的かつ合理的な『パートナーシップ協定』に書き換えます。文句があるならルーカス殿下を通してください」


私は猛然とペンを走らせ始めた。


キュッ、キュッ、キュッ!


赤いインクが、古い因習を次々と塗りつぶしていく。


『第1条:妻は夫と対等であり、戦略的パートナーとして並走する』

『第2条:夫の判断にミスがある場合、妻は速やかに指摘し、修正させる権利を持つ』

『第3条:剣の手入れは経費で外注する』


「ああっ! 国宝級の巻物がっ! 真っ赤にっ!」


法務大臣が泡を吹いて倒れそうになる。


そこへ、騒ぎを聞きつけたルーカス殿下がやってきた。


「何事だ、シルビア。また誰かを泣かせているのか?」


「人聞きが悪い。私はただ、この国の『OS(基本ソフト)』をアップデートしているだけです」


私は修正だらけになった巻物を殿下に見せた。


「殿下、読んでください。この第15条『妻は夫の浮気を黙認すること』。これ、どう思います?」


「あ? ふざけるな。俺が浮気などするわけがないだろう。俺の目にはお前しか映っていない」


「ですよね。では削除。ついでに『夫が浮気をした場合、慰謝料として国家予算の五百年分を支払い、かつ裸で市中引き回しの上、ドラゴンの餌にする』という条項を追加しておきます」


「……厳しいな。まあ、やるつもりはないから構わんが」


殿下は笑って承諾した。


「そ、そんな……! 殿下、よろしいのですか!? これでは帝国の威厳が……!」


法務大臣がすがりつく。


「おい爺さん。時代は変わるんだ」


殿下は私の肩を抱き寄せた。


「俺が選んだのは、人形のような妃じゃない。俺と一緒に国を動かす『共犯者』だ。古い法律なんぞに縛られて、こいつの能力が発揮できないなら、そんな法律は燃やしてしまえ」


「ひえええ……」


「それに、見てみろ。こいつの修正案の方が、よほど合理的だ」


殿下は巻物の後半を指さした。


『第50条:公務における利益配分について。妻が立案し成功した政策に関しては、純利益の20%を妻の個人資産としてプールする』


「ちゃっかり自分の報酬も確保しているあたり、さすがだ」


「当然です。無償労働はモチベーションを下げますから」


私は胸を張った。


「よし、承認だ! その修正案で製本しろ!」


殿下の鶴の一声で、帝国史上初の『対等な婚姻契約書』が爆誕することになった。



数時間後。


完成した新しい契約書(製本済み)を前に、私たちは改めて向かい合った。


「では、サインを」


「ああ」


ルーカス殿下が、力強い筆致で署名する。


続いて、私がペンを取る。


『シルビア・ランカスター』


……いや、違うわね。


私は一瞬ためらい、そして書き記した。


『シルビア・フォン・バルバロッサ』


その名前を書いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


ああ、本当に。

私はこの国の人間に、この人の妻になるのだ。


「……書き慣れない名前ですね」


「すぐに慣れるさ。これから死ぬまで、毎日書くことになるんだからな」


殿下は私のサインを見て、満足げに目を細めた。


「これで契約成立だな。クーリングオフは不可だぞ」


「しませんよ。これだけの好条件、手放すほど私は馬鹿ではありません」


私はニッコリと笑った。


「さて、契約締結の記念に……何か要望はあるか?」


殿下が聞いた。


「そうですね……」


私は少し考え、そして真面目な顔で言った。


「ハンコを作りたいです」


「ハンコ?」


「はい。私の承認印です。『承認』『却下』『要再提出』『至急』……これらのスタンプがあれば、事務処理の速度が三倍になります」


「……色気のない要望だな」


殿下は呆れたが、すぐに「いいだろう、純金で作らせてやる」と約束してくれた。


「あと、もう一つ」


私は少しだけ声を落とした。


「……結婚式の誓いのキスですが」


「ん? なんだ、恥ずかしいのか?」


「違います。時間の問題です。リハーサルでは十秒でしたが、本番では五秒に短縮してください」


「は?」


「長すぎると、写真映りの角度が崩れますし、何より私が息切れして酸欠になります。効率的に、美しく、パッと終わらせましょう」


「……断る」


殿下は即答した。


「そこだけは譲れん。俺は三十秒はするつもりだ」


「さ、三十秒!? 放送事故ですよ!」


「国民に見せつけてやるんだ。俺たちがどれだけラブラブかをな」


「ラブラブという死語を使わないでください!」


「決定事項だ。嫌なら……肺活量を鍛えておけ」


殿下はニヤリと笑い、私の唇を指でなぞった。


「特訓に付き合ってやってもいいぞ?」


「……結構です! 事務室に戻ります!」


私は顔を赤くして、逃げるように法務局を後にした。


背後で殿下の高笑いが聞こえる。


契約書は完璧に書き換えたはずなのに。

どうやらこの『夫』という生き物だけは、私の計算通りには動いてくれそうにない。


「……まあ、いいわ」


私は廊下を歩きながら、新しい苗字を口の中で反芻した。


「シルビア・フォン・バルバロッサ……」


悪くない響きだ。

悪役令嬢改め、悪役王妃。

その肩書きに恥じないよう、この国を――そしてあの筋肉皇太子を、徹底的に管理してやろうと心に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る