第18話

「……はぁ。この数字、何度見ても美しくありませんね」


翌日の午後。


私は帝国の事務室で、眉間にシワを寄せていた。


目の前にあるのは、部下が作成した『王国の経済状況予測グラフ』だ。


右肩下がりどころではない。

断崖絶壁を転がり落ちるような、見事な急降下を描いている。


「教官。王国の通貨価値、先週比でさらに二割下落しています」


筋肉文官の一人が、痛ましそうな顔で報告する。


「原因は?」


「例の『マリア嬢外交トラブル』による貿易停止と、レイド王子の『散財』です。どうやら王子、昨日の賭けに負けた腹いせに、城下町で『ヤケ買い』をしたそうで……」


「……あのバカ」


私はペンをへし折りそうになった。


国が瀕死の状態なのに、さらに傷口に塩を塗り込むとは。


「救いようがありませんね。放っておきましょう。私たちが干渉すると内政干渉になりますから」


私が新しいペンを取り出した、その時だった。


バンッ!!


事務室の扉が、乱暴に開かれた。


「シ、シルビアァァァ!!」


転がり込んできたのは、ボロボロの衣服を纏ったレイド殿下だった。


昨日の水没で風邪を引いたのか、鼻をすすり、目の下には隈ができている。


「……警備員! 不審者です! つまみ出して!」


私が指示を出すと、レイド殿下は床を這いつくばって私のデスクにしがみついた。


「ま、待ってくれ! 頼む! 話を聞いてくれ!」


「聞きません。私の時給は高いですよ?」


「払う! 払うから! ……出世払いで!」


「信用度ゼロの言葉ですね」


私は冷たく見下ろしたが、部下の筋肉文官たちが「教官、ちょっと話くらいは……あまりに哀れで……」と情けをかけたので、仕方なく三分だけ時間をやることにした。


「どうぞ。三分でプレゼンしてください」


「し、シルビア……」


レイド殿下は立ち上がり、ゴホンと咳払いをした。


そして、私の手を取ろうとして――私の視線に射抜かれて手を引っ込めた。


「単刀直入に言おう。……僕と、やり直さないか?」


「……はい?」


「結婚しよう、シルビア。そして王国に帰り、僕の妃として国を導いてくれ」


殿下は真剣な眼差し(充血しているが)で言った。


「僕は気づいたんだ。マリアは可愛いが、彼女には『王妃の器』がない。書類も読めないし、外交もできないし、予算の計算もできない」


「知っていましたよ、最初から」


「だが、君は違う! 君にはその全てがある! 君の事務処理能力、交渉術、そして金への執着……それこそが、今の王国に必要なものだ!」


レイド殿下は熱弁を振るう。


「僕は君の『能力』を愛しているんだ! 君という『有能なリソース』を誰よりも評価している! だから、僕の元へ戻ってきてくれ!」


「…………」


室内に、凍りつくような沈黙が流れた。


筋肉文官たちが、ドン引きした顔で顔を見合わせている。

「うわぁ……」「言っちゃったよ……」「最低だ……」という心の声が聞こえてくる。


私はゆっくりと、持っていたペンを置いた。


「……殿下。一つ質問してもよろしいですか?」


「な、なんだ? 式場の手配か?」


「貴方様は今、私にプロポーズをしているのですか? それとも、求人募集をしているのですか?」


「え? 同じことだろう? 王妃という『職』を与えるのだから」


「違います」


私は立ち上がり、レイド殿下の胸元に指を突きつけた。


「それは『愛』ではありません。ただの『労働力の搾取』です」


「なっ……」


「『能力を愛している』? 笑わせないでください。貴方様は、私が便利だから欲しいだけでしょう? 面倒な仕事を全部押し付けて、自分は楽をしたいだけでしょう?」


「そ、それは……王族は激務だから、分担作業というか……」


「マリア様には『愛している』と言い、私には『能力を愛している』と言う。……どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのですか」


私の声は低く、そして鋭く響いた。


「私が求めているのは、対等なパートナーシップです。互いに敬意を払い、背中を預けられる関係です。……今の私の上司(ルーカス殿下)のようにね」


「あ、あの野蛮人か!? あいつは君を働かせているだけじゃないか!」


「ええ、働いていますよ。ですが、彼は私に『全権』を預けてくれます。私の判断を信じ、私の失敗すら笑って許容し、そして何より――」


私は昨夜のバルコニーでの言葉を思い出し、少しだけ顔を赤らめた。


「……私の『可愛げのなさ』も含めて、受け入れてくれます」


「はぁ? なんだそれ! 意味が分からん!」


「貴方様には一生分からないでしょうね」


私は扇子をパチンと閉じた。


「交渉決裂です。お引き取りください」


「ま、待ってくれ! まだ条件がある! 君が戻ってくれたら、君の部屋を一番日当たりの良い場所に変える! それに、毎日おやつもつける!」


「小学生ですか」


「王家の宝物庫の鍵も渡す!」


「もう空っぽでしょう? 私が中身を知らないとでも?」


「ぐぬぬ……! ど、どうすれば戻ってくれるんだ! 金か!? 地位か!?」


レイド殿下は半泣きになりながら叫んだ。


「今のままじゃ、国が……国が破産するんだよぉぉぉ! 僕が責任を取らされるんだよぉぉぉ!」


結局、自分の保身だ。


この男は、最後の最後まで、自分が可愛いだけなのだ。


「……哀れですね」


私が冷たく言い放った時。


「おい。騒がしいぞ」


聞き覚えのある低い声がして、背後の扉が開いた。


ルーカス殿下だ。


手には、巨大なハンマー(なぜ?)を持っている。


「ル、ルーカス……!」


レイド殿下がビクリと震え上がる。


「俺の事務室で何をしている。また空を飛びたいのか?」


ルーカス殿下は不機嫌そうにレイド殿下を見下ろした。


「い、いや、僕はただ、シルビアに正当なオファーを……」


「オファーだと? 『能力を愛している』とかいう、寝言のようなセリフがか?」


「き、聞いてたのか!?」


「全部丸聞こえだ。壁が薄いからな(嘘だけど)」


ルーカス殿下は私の隣に立ち、自然な動作で私の肩を抱いた。


「残念だったな、小僧。こいつはもう、俺の『心臓』だ」


「し、心臓……?」


「ああ。こいつが止まれば、俺の国も止まる。こいつが笑えば、俺も笑う。……そういう存在だ」


殿下はニヤリと笑った。


「能力? そんなものはオマケだ。俺はこいつの『存在そのもの』を買っている」


「~~~~っ!」


レイド殿下は言葉を失った。


圧倒的な格の違い。

器の違い。

そして何より、愛の深さ(?)の違い。


「勝負あったな」


ルーカス殿下はハンマーをドン!と床に置いた。


「さあ、消えろ。それとも、このハンマーで『論理的』に退場させられたいか?」


「ひ、ひいいいい!」


レイド殿下は脱兎のごとく逃げ出した。


「覚えてろよぉぉぉ! いつか絶対に後悔させてやるぅぅぅ!」


捨て台詞を残し、廊下の彼方へと消えていく。


「……ふん、雑魚が」


ルーカス殿下は鼻を鳴らし、私に向き直った。


「大丈夫か、シルビア。変な菌は移ってないか?」


「……大丈夫です。消毒用アルコールを撒いておきます」


私は平静を装ったが、心臓は早鐘を打っていた。


(……『心臓』だなんて。またサラッと恥ずかしいことを……!)


「殿下。今の発言、録音しておけばよかったです。『心臓発言』に対する特別手当を請求できたのに」


照れ隠しにそう言うと、殿下は豪快に笑った。


「ハハハ! いくらでも請求しろ。俺の全てはお前のものだ」


「……そのセリフ、国庫が潤ってから言ってくださいね」


私は赤くなった顔を書類で隠した。


筋肉文官たちが「ヒューヒュー!」「お熱いねぇ!」と口笛を吹く中、私は彼らに「残業!」と一喝して黙らせた。


こうして、元婚約者の「最低のプロポーズ」は撃退された。

しかし、これで彼が完全に諦めたとは思えない。

窮鼠猫を噛む。追い詰められたバカ王子が次に何をするか……。


私は『危機管理マニュアル』のページを、もう一枚増やすことにした。

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