第15話

「シルビア!」


ダンスが終わり、私たちがフロアの端でシャンパンを手に取った瞬間、その声は飛んできた。


まるで悲劇のヒーロー気取りの、裏返った声。


振り返ると、人混みをかき分けてこちらへ向かってくるレイド殿下と、その背後に隠れるようにしているマリア嬢の姿があった。


「……来ましたね、『歩く不良債権』たちが」


私はグラスを口に運びながら、冷ややかに呟いた。


「どうする? 斬るか?」


ルーカス殿下が即座に剣の柄(正装用だが切れ味は抜群)に手をかける。


「待ってください。会場が血で汚れると、クリーニング代が馬鹿になりません」


私が止める間に、二人は目の前までやってきた。


レイド殿下は肩で息をしている。


その顔色は悪く、目の下には濃いクマができている。痩せたせいか、かつてのキラキラした王子様オーラは見る影もない。


「シルビア……! 無事だったのか……!」


レイド殿下は私を見るなり、安堵したような、それでいて泣きそうな顔をした。


「無事? 見ての通りですが」


私は両手を広げ、十五キロのダイヤモンド・ドレスを見せつけた。


「五体満足、健康状態良好、資産残高は過去最高です」


「嘘だ! 無理をしているに決まっている!」


レイド殿下は叫んだ。


「こんな……こんな野蛮な国に連れ去られて! 毎日怯えながら暮らしているんだろう!? 僕には分かるんだ!」


「……妄想力がたくましいですね。小説家にでも転向されたらどうですか?」


「強がらなくていいんだ! 君がこんな、歩く凶器のような男(ルーカス殿下)の隣で笑うなんて……脅されているんだろう!?」


レイド殿下がビシッとルーカス殿下を指さす。


ルーカス殿下は「あ?」と眉をひそめただけで、周囲の気温が五度下がった。


「おい、小僧。指をへし折られたいのか?」


「ひっ……!」


レイド殿下が怯む。


そこへ、マリア嬢がひょいと顔を出した。


「そ、そうですよぉ! シルビア様は無理してます! だって、そんなギラギラしたドレス……シルビア様には似合いませんもの!」


マリア嬢は、自分の薄ピンク色のフリルドレス(どう見ても舞踏会にはカジュアルすぎる)を握りしめて言った。


「もっとこう、清楚で可憐なのが一番なのに! お金をかければいいってもんじゃないですぅ!」


「マリア様。TPOという言葉をご存じですか?」


私は扇子で口元を隠した。


「ここは『国交樹立記念舞踏会』です。国の威信をかけた外交の場です。貴女のような『パジャマパーティー』の延長のような服装で来る場所ではありません」


「パ、パジャマぁ!?」


「それに、このドレスは私の趣味ではありません。帝国の国力を示すための『装備』です。貴女のその安っぽいレースとは、背負っているGDPが違うのです」


「ひ、ひどいですぅ! レイド様、何か言ってやってくださいぃ!」


マリア嬢がレイド殿下の袖を引っ張る。


しかし、レイド殿下の視線は私に釘付けだった。


「シルビア……頼む、帰ってきてくれ」


彼は唐突に、私の手を取ろうとした。


「王国はもう限界なんだ! 君がいなくなってから、何もかも上手くいかない! 宰相は怒鳴るし、国民は暴動寸前だし、僕の小遣いは減らされるし!」


「自業自得という四字熟語をプレゼントします」


私はサッと手を引いて回避した。


「僕が悪かった! 謝る! だから戻って、また僕を支えてくれ! 君が好きだった『公爵夫人』の地位も約束する!」


「……はぁ」


私は深いため息をついた。


この人は、何も分かっていない。


私がなぜ怒っているのか、なぜ国を出たのか。


「レイド殿下。一つ、訂正させていただきます」


私は扇子をパチンと閉じた。


「私が好きだったのは『公爵夫人』の地位でもなければ、貴方様でもありません」


「え……?」


「私が愛していたのは『黒字』です」


「く、くろじ……?」


「ええ。貴方様の無駄遣いを帳消しにし、領地経営を成功させ、通帳の数字が増えていく瞬間。それだけが私の喜びでした。貴方様は、そのための『手のかかる素材』に過ぎなかったのです」


私は冷徹に言い放った。


「ですが、今の私は違います。ここでは、私の能力が正当に評価され、貴国の三倍の報酬が支払われています。さらに、福利厚生も完璧。上司(ルーカス殿下)は話が早く、決断力がある」


私は隣のルーカス殿下を見上げた。


殿下は満足げに胸を張っている。


「つまり、私は今『ホワイト企業』に転職して幸せなのです。なぜ、倒産寸前の『ブラック企業(貴方)』に戻らなければならないのですか?」


「ぶ、ブラック……倒産……」


レイド殿下がガーンとショックを受けている。


「そんなの理屈っぽいですぅ!」


マリア嬢が声を上げた。


「お金とか条件とか、そんなの愛の前では無力です! レイド様はシルビア様を必要としているんですよ? その気持ちに応えるのが、ヒロインの役目じゃないですかぁ!」


「私は悪役令嬢ですので」


私は即答した。


「それにマリア様。貴女こそ『ヒロイン』なのでしょう? 貴女の愛で、レイド殿下を支えて差し上げたらどうです? できないのですか?」


「うっ……それは……私は計算とか苦手だし……」


「できないなら黙っていらっしゃい。無能な愛は、害悪でしかありません」


私の言葉の刃が、マリア嬢の心臓(プライド)を突き刺す。


「うわぁぁぁん! レイド様ぁ! シルビア様がいじめるぅ!」


「よしよし、マリア。泣かないでくれ……」


二人は抱き合って慰め合い始めた。


公衆の面前で。


周囲の貴族たちが、「うわぁ……」「あれが王国の……」「終わってるな……」と冷ややかな視線を送っていることに、彼らは気づいていない。


「……見苦しいな」


ルーカス殿下が、吐き捨てるように言った。


「おい、小僧」


「ひっ、は、はい!」


「俺の女に近づくな。次はないぞ」


殿下が殺気を放つ。


レイド殿下はガタガタと震え上がったが、最後に捨て台詞のように叫んだ。


「ま、負けないぞ! 僕は諦めない! シルビアを取り戻すために、明日の『御前試合』……僕も出るからな!」


「は?」


「勝ったらシルビアを返してもらう! 勝負だ!」


そう叫ぶと、レイド殿下はマリア嬢の手を引いて、逃げるように会場を出て行った。


嵐が去った後のような静寂が残る。


「……御前試合?」


私は首を傾げた。


「殿下、明日のスケジュールにそんなイベントありましたっけ?」


「ああ。国交樹立を記念した、両国の代表騎士による模範試合だ」


殿下はニヤリと笑った。


「まさか、あのモヤシ王子自らが出場するとはな。自殺志願者か?」


「……賭け率の計算をしておきます」


私は頭を抱えた。


「レイド殿下の勝利オッズ、一万倍でも誰も買わないでしょうね」


「俺が出る」


「はい?」


「俺が相手をしてやる。あいつの根性、へし折ってやるには丁度いい」


殿下はボキボキと指を鳴らした。


「シルビア、明日は特等席で見ていろ。お前の元婚約者が、空を飛ぶところをな」


「……物理的に、ですか?」


「ああ」


私は天を仰いだ。


明日の天気予報は晴れ。

そして、王国の王子の「空を飛ぶ確率」は、降水確率より高い百パーセントだ。


「……救護班の手配と、外交問題になった時の謝罪文の下書きを用意しておきます」


「抜かりないな」


舞踏会の夜は更けていく。

しかし、本当の悲劇(コメディ)は明日、闘技場で幕を開けるのだった。

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