第13話
「……何ですか、この不燃ごみは」
舞踏会を数日後に控えたある日。
執務室に届いた巨大な荷物を見て、私は冷たく言い放った。
私のデスクを埋め尽くすように置かれているのは、真っ赤なバラの花束。
その数、およそ百本。
さらに、バラの中央には、金粉をまぶしたカードが刺さっている。
「差出人は?」
「はっ! ランカスター王国のレイド王子からです!」
部下が困惑顔で報告する。
「『愛しのシルビアへ。このバラのように情熱的な僕の愛を受け取ってくれ。追伸:舞踏会では僕と踊る予約を空けておくように』とのことです」
「……」
私は無言でカードを摘まみ上げ、ゴミ箱へ直行させた。
「処理班。このバラを回収して」
「へ? 捨てるんですか?」
「捨てません。バラの花弁はポプリやジャムの原料になりますし、棘は乾燥させて『まきびし』の代用になります。市場価格で売れば、金貨三枚にはなるでしょう」
「ま、まきびし……」
「即刻換金して、国庫に入れておきなさい。レイド殿下からの『臨時寄付金』として処理します」
「イ、イエッサー!」
部下たちがバラを抱えて走り去ろうとした、その時だった。
「待て」
ドスの効いた低い声が響いた。
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
入り口に立っていたのは、ルーカス殿下だ。
その瞳は、バラの赤よりも深く、そして危険な光を帯びている。
「殿下、お疲れ様です。今、ゴミの分別を……」
「燃やせ」
殿下は短く命じた。
「は?」
「その花だ。今すぐ中庭で燃やせ。灰一つ残すな」
「もったいないですよ! 資源の有効活用こそがSDGs(持続可能な・大金・ゲット・システム)の基本です」
「うるさい! あの男からの贈り物など、城の中に置いておくだけで空気が腐る!」
殿下は部下から花束をひったくると、窓から外へ豪快に投げ捨てた。
さらに、指先から魔法の炎を放ち、空中で綺麗に焼却処分してしまった。
ボッ!!
一瞬で炭になるバラたち。
「ああっ! 私の金貨三枚が!」
私は窓に駆け寄り、舞い散る灰を見下ろして絶叫した。
「なんてことをするんですか! ジャムにすれば美味しいのに!」
「俺が新しいバラを植えてやる! 一万本でも二万本でもな! だからあんな安物は見るな!」
「安物でも現金化すれば金貨です!」
私は振り返り、殿下を睨みつけた。
「殿下、最近情緒が不安定ですよ? カルシウム不足ですか? 煮干しを食べますか?」
「誰のせいだと思っている!」
殿下がツカツカと歩み寄ってくる。
その迫力に、私は思わず後ずさりした。
一歩、また一歩。
背中が冷たい壁に触れた。
「え……?」
逃げ場がない。
次の瞬間。
ドンッ!!
私の耳元で、爆発音のような衝撃音が響いた。
ルーカス殿下の右手が、私の顔の横の壁に叩きつけられている。
いわゆる『壁ドン』だ。
至近距離。
殿下の整った顔が、目の前にある。
荒い息遣いがかかるほどの距離だ。
「……シルビア」
殿下が、獲物を追い詰めた猛獣のような目で私を見下ろす。
「お前は、誰の秘書官だ?」
低く、甘く、そして独占欲に満ちた声。
普通の令嬢なら、腰を抜かして「貴方様だけのものですぅ!」と泣いて喜ぶシチュエーションだろう。
しかし、私はプロだ。
私はゆっくりと視線を動かし、殿下の手元――壁にめり込んでいる部分――を確認した。
「……殿下」
「なんだ」
「壁紙が、破れています」
「……は?」
「あと、漆喰にヒビが入っていますね。この壁、先月修繕したばかりの大理石風加工の高級品なんですが」
私は冷静に計算を始めた。
「修繕費、金貨五枚。職人の手配料込みで八枚。……殿下、今の『壁ドン』の代償は高いですよ?」
「お前……」
殿下の顔が引きつる。
「今、この状況で、壁の心配か?」
「当然です。壁ドンはときめきを生むかもしれませんが、利益は生みません。むしろ損失です」
私はため息をつき、殿下の胸を指先でツンと突いた。
「それに、近すぎます。ソーシャルディスタンスを守ってください。風邪が移ります」
「……フッ、クククッ!」
殿下は突然、肩を震わせて笑い出した。
「ハハハハハ! 最高だ! お前は本当にブレないな!」
殿下は壁から手を離し、私の頭を乱暴に撫で回した。
「ああ、そうだ。お前はそういう女だ。だからこそ……誰にも渡したくないんだがな」
最後の一言は、小さすぎて聞き取れなかった。
「なんですか? また不燃ごみの話ですか?」
「いや。……舞踏会の話だ」
殿下は真面目な顔に戻り、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「あのバカ王子(レイド)は、まだお前に未練があるらしい。舞踏会では、なりふり構わず接触してくるだろう」
「でしょうね。彼は『失って初めて気づくタイプ』の典型ですから」
「約束しろ、シルビア」
殿下は私の顎をくい、と持ち上げた。
「俺のそばを離れるな。一秒たりともだ」
「……」
その瞳には、冗談の色はなかった。
ただ純粋な、切実な意思が宿っている。
私は少しだけ動揺し、それを隠すように事務的な口調を作った。
「……業務命令ですか?」
「ああ。最優先事項だ」
「ならば、従います。筆頭秘書官として、ボス(雇用主)の護衛も業務のうちですから」
「よろしい」
殿下は満足げに微笑むと、ようやく私から離れた。
「さて、壁の修理代だったな? 俺の小遣いから引いておけ」
「承知しました。しっかり請求させていただきます」
殿下はマントを翻して部屋を出て行った。
残された私は、ヒビの入った壁を見つめて、ふぅと息を吐いた。
心臓が、少しだけうるさい。
「……あんな至近距離で見つめられたら、計算が狂うじゃないの」
私は熱くなった頬を両手で挟んだ。
「ダメよ、シルビア。あれは『筋肉アピール』の一種よ。求愛行動じゃなくて、威嚇行動だと思いなさい」
そう自分に言い聞かせる。
だが、あの時の殿下の瞳――燃えるような金色の瞳が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……まあ、いいわ」
私は気を取り直し、新しいメモ帳を開いた。
「とりあえず、舞踏会対策ね。レイド殿下が近づいてきた時の対処法。パターンA:無視。パターンB:毒舌。パターンC:請求書爆撃……」
私はペンを走らせた。
来たるべき決戦の舞台、舞踏会。
そこで私は、元婚約者に『絶望』を、そして今の雇用主に『勝利』をプレゼントしなければならない。
「待っていなさい、レイド殿下。貴方が焼いたバラの灰よりも、惨めな思いをさせてあげるから」
私は不敵に笑い、壁のヒビを指でなぞった。
壁の修理手配書を書く手つきは、いつもより少しだけ震えていたかもしれない。
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