第11話

「ラララ~♪ 愛の歌を~♪ 世界に届け~♪」


国境の検問所。


そこは、この世の終わりのような光景が広がっていた。


ピンク色の髪を揺らす少女――マリアが、即席のステージ(積み上げられた木箱)の上で、手振りを交えて熱唱している。


その周囲で、帝国の精鋭である屈強な兵士たちが、耳を塞いで蹲っていた。


「ぐあああ……鼓膜が……!」

「なんだこの歌は……精神が削られる……!」

「物理攻撃なら耐えられるが、これは無理だ……!」


音痴というレベルではない。


音程という概念を破壊し、聴く者の平衡感覚を奪う、まさに『音響兵器』だ。


「……到着しましたよ、殿下」


馬車を降りた私は、その地獄絵図を見て冷静に言った。


「なるほど。あれが噂の『歌』か。ドラゴンの方がまだ美しい鳴き声をするな」


ルーカス殿下は眉をひそめ、不快そうに耳を小指でほじった。


「マリア様!」


私が声を張り上げると、歌声がピタリと止んだ。


「あ! シルビア様ぁ!」


マリアは私を見つけるなり、パァッと顔を輝かせて木箱から飛び降りた。


そして、小動物のような速さで駆け寄ってくる。


「会いたかったですぅ! ひどいんですよ、みんな! 私の歌を聞いてくれないんです!」


「騒音公害だからです。即刻中止してください」


私は扇子で彼女の接近をブロックした。


「そ、そんな……。それより聞いてくださいよぉ! レイド様ったら、最近すごく冷たいんです!」


マリアは私の制止を無視して、堰を切ったように愚痴り始めた。


「『書類を読め』とか『計算をしろ』とか、難しいことばっかり言うんです! 私、そういうの苦手なのに! 『君が王妃になるなら必要なんだ』って、鬼のような顔で……」


「それは王族として当然の義務です」


「違いますぅ! 私たちが愛し合っていれば、国なんて勝手に平和になるんじゃないんですかぁ?」


「なりません。誰かが税金を計算し、誰かが外交を調整し、誰かが下水を掃除しているから平和なのです。貴女の愛で下水が流れますか?」


「もう、シルビア様ったら現実的すぎますぅ!」


マリアは頬を膨らませた。


「だから私、思ったんです。シルビア様が戻ってきてくれればいいんだって!」


「……は?」


「シルビア様が面倒な仕事を全部やってくれれば、レイド様もニコニコに戻るし、私もドレスを選んでいられるし、みんなハッピーじゃないですかぁ!」


「…………」


私は眩暈がした。


この女の脳内には、『他人の都合』という回路が存在しないらしい。


「あのですね、マリア様。私は今、帝国の公務員です。貴女たちの尻拭いをする義務も義理もありません」


「えー、ケチぃ! 友達でしょ?」


「友達ではありません。元婚約者を奪った泥棒猫と、被害者です」


「そんな言い方ひどぉい! 愛に国境はないんですよ!?」


「国境はあります。現に今、貴女は不法入国で捕まりかけているのですよ」


私が冷たく突き放すと、マリアはウルウルと涙目になった。


そして、ふと私の隣に立つルーカス殿下に気づいたようだ。


「……あら? そちらのワイルドな方は?」


マリアの目が、ハンターのようにギラリと光った。


「紹介しよう。俺は……」


「キャッ! なんて素敵な筋肉……!」


マリアは殿下の言葉を遮り、うっとりとその胸板を見つめた。


「貴方様が噂の皇太子様ですね? 怖そうな顔……でも、その瞳の奥には深い孤独が見えますわ……」


「……あ?」


「分かります、私には分かるんです。貴方様はずっと待っていたのですね? 貴方様の凍った心を溶かしてくれる、運命の乙女を……」


マリアはコテンと首を傾げ、最大級の「上目遣い」を発動した。


これが彼女の必殺技だ。


レイド殿下も、学園の男子生徒たちも、この技でイチコロだった。


「私でよければ、癒して差し上げますわ。……ギュッて、していいですか?」


マリアが甘い声で囁き、殿下の腕に触れようとする。


私は黙って見ていた。


(……馬鹿ね。相手を間違えているわ)


ルーカス殿下は、無表情のままマリアの手首をパシッと掴んだ。


「痛っ!」


「触るな。菌が移る」


「えっ……?」


マリアが固まった。


殿下は汚いものを見るような目で、彼女を見下ろしている。


「おいシルビア。なんだこの生き物は。言葉は通じるようだが、会話が成立していないぞ」


「『ヒロイン』という名の別種族です。自分の都合の良い解釈しかできない呪いにかかっています」


「そうか。不気味だな」


殿下はマリアの手を放り投げた。


「癒し? 孤独? 寝言を言うな。俺の心は充実しているし、筋肉もパンプアップしている。お前のような貧相な女に用はない」


「ひ、ひどい……! 私、こんなに可愛いのに!?」


「可愛さなら、うちのドラゴンの方が上だ。鱗の艶が違う」


「ドラゴン以下ぁ!?」


マリアがショックでよろめいた。


最強の「天然」も、最強の「筋肉」の前では無力だった。


論理も情緒も通じない相手には、攻略フラグなど立ちようがないのだ。


「さて、茶番は終わりだ」


殿下は兵士たちに顎で合図した。


「つまみ出せ。二度と国境に近づけるな」


「イエッサー!!」


耳栓をした兵士たちが、復活して駆け寄ってくる。


「い、嫌ぁ! 離してぇ! レイド様ぁ! シルビア様ぁ!」


マリアがジタバタと暴れる。


私はその前に進み出た。


「お待ちください」


「なんだ? 助けるのか?」


「いいえ。……請求書を渡すのを忘れていました」


私は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、マリアの胸元にねじ込んだ。


「これ、なんですかぁ……?」


「『国境騒乱罪』の罰金と、兵士たちへの『精神的慰謝料』、および私の『出張手当』です。金貨五百枚。帰りの馬車代がなくなる前に、検問所で支払ってくださいね」


「ええええええ!!」


「払えないなら、貴女がつけているその宝石類を没収します」


私はマリアの指輪やネックレスを指さした。


「そ、それはレイド様に買ってもらった大切な……!」


「愛はプライスレスなんでしょう? 宝石なんてなくても生きていけますよ」


私はニッコリと微笑み、兵士に目配せした。


「連れて行って。あ、ついでに『入国禁止ブラックリスト』に登録しておいてね」


「了解です! 連行しろ!」


「いやぁぁぁ! 鬼ぃ! 悪魔ぁ! 筋肉ダルマぁぁぁ!」


マリアの絶叫が遠ざかっていく。


やがて、彼女は国境の向こう側へと放り出された。


「……ふう。騒がしい午後でしたね」


私は扇子を閉じた。


「あいつも懲りないな。わざわざ敵地に飛び込んでくるとは」


「学習能力がないのです。あるいは、自分が『主人公』だから、どこへ行っても歓迎されると信じているのでしょう」


「主人公、か。……俺の物語の主人公は、お前だけどな」


殿下がボソッと言った。


「……はい?」


私は聞き返した。


「なんでもない。帰るぞ。腹が減った」


殿下はそっぽを向いて、馬車へと歩き出した。


その耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


(……この筋肉皇太子、たまに不意打ちをしてくるから油断ならないわ)


私は小さく溜息をつき、その後ろを追いかけた。


「殿下、今日の夕食は野菜中心ですよ。偏食は許しませんからね」


「肉だ! 肉をよこせ!」


「ダメです。ピーマンを食べないと、国庫の鍵を没収しますよ」


「鬼かお前は!」


そんな平和な(?)口論をしながら、私たちは帝都への帰路についた。


一方、国境の向こう側では。


身ぐるみ剥がされ、宝石を没収されたマリアが、トボトボと歩いていた。


「うぅ……ひどい目にあった……。レイド様に言いつけてやるんだから……」


しかし、彼女はまだ知らなかった。


彼女がいない間に、王城ではレイド王子が『過労』で倒れ、王国の実権がさらに傾き始めていることを。


そして、帰国した彼女を待っているのは、慰めてくれる王子ではなく、激怒した国王陛下と、山積みの『請求書』であることを。

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