第10話
「報告します! 隣国――ランカスター王国の株価が、またストップ安です!」
帝国の事務室。
私のデスクに、部下が滑り込むようにして駆け込んできた。
手には最新の『大陸経済新聞』が握られている。
「またですか? 昨日は『小麦先物取引』で失敗して暴落したばかりでしょう?」
私は羽ペンを走らせたまま、顔も上げずに答えた。
「今日は何をやらかしたのです?」
「はっ! どうやら本日の昼に行われた『王室主催・外交園遊会』にて、重大なトラブルが発生した模様です!」
「園遊会……ああ、例のアレね」
私はピタリと手を止めた。
記憶にある。
毎年この時期に行われる、各国の使節団を招いた重要な社交イベントだ。
私が婚約者だった頃は、三ヶ月前から招待客のリストアップ、アレルギー確認、宗教的タブーの調査、そして当日の天候予測まで徹底して準備していたものだ。
「で? 誰が誰の足を踏んだのです?」
「いえ、足を踏むレベルではありません。……マリア嬢が、東方諸国の厳格な教義を持つ大使に対し、『ハグ』を強要したそうです」
「…………」
室内に、凍りつくような沈黙が流れた。
「ハグ?」
「はい。『愛は言葉の壁を越えるの! さあ、フリーハグよ!』と言って抱きつき、大使のターバンをずり落としたとか」
「……あいつ、死にたいの?」
私は思わず素の声が出た。
東方諸国において、他人の頭部に触れるのは最大の侮辱だ。
ましてや異性の、それも王族関係者が公衆の面前で抱きつくなど、宣戦布告に等しい。
「大使は激怒し、『我が国の神への冒涜だ!』と叫んで帰国。これを受けて、東方諸国との『香辛料貿易』が全面停止。国内のスパイス価格が高騰し、経済パニックが起きているとのことです」
「……はぁ」
深すぎるため息が出た。
「あのバカ女……『天然』で済まされるのは学園の中だけよ。外交の場にメルヘンを持ち込むな」
私はこめかみを揉んだ。
「で、レイド殿下は?」
「その場で気絶したそうです」
「軟弱者!!」
バンッ! と机を叩く。
「気絶している暇があったら土下座でも何でもして引き止めなさいよ! 香辛料が止まったら肉の保存ができなくなるでしょうが!」
「お、おっしゃる通りで……」
部下が怯える中、私は新聞をひったくって記事に目を通した。
『王国の没落、秒読みか?』
『愛されヒロイン、外交を破壊する』
『シルビア嬢の抜けた穴、ブラックホールだった』
見出しが踊っている。
「……ざまあみろ、と言いたいところですが」
私は複雑な顔をした。
「あまりにレベルが低すぎて、笑う気にもなれませんね」
「シルビア、何が騒がしい?」
そこへ、昼休憩を終えたルーカス殿下がやってきた。
手にはリンゴを齧りながら、私のデスクに腰掛ける(行儀が悪い)。
「殿下、朗報です。我が国のライバルである王国の経済が、自滅によって崩壊しつつあります」
「ほう? 戦争もしていないのにか?」
「ええ。『ハグ』一発で国が傾きました」
私は事の顛末を説明した。
殿下はリンゴを吹き出して爆笑した。
「ブフォッ! ハハハハ! 傑作だ! ハグで貿易停止!? あの王子、どんな顔をしてたんだ?」
「気絶して現実逃避したそうです」
「情けない奴だ。……で、お前ならどうした?」
殿下が試すような目で私を見る。
「私なら?」
「ああ。もしお前があの場にいたら、その『マリア』とかいう暴走女をどう止めた?」
「簡単です」
私は即答した。
「まず、マリア嬢には当日、会場とは別の場所で『裏・お茶会』を開催させます。ぬいぐるみや小動物を集めて『可愛いもの選手権』でもやらせておけば、彼女は満足して出てきません」
「隔離か。合理的だ」
「そして大使には、事前に好みの舞り子を手配し、機嫌を取ります。もちろん、ターバンには触れないよう徹底させて。最後に、レイド殿下には『ニコニコして頷くだけの人形』になってもらいます。余計なことを喋るとボロが出るので」
「……完璧だな」
「それが『裏方』の仕事ですから」
私はフンと鼻を鳴らした。
「ですが、もう関係ありません。彼らがスパイス不足で腐った肉を食べようと、知ったことではないのです」
「そうだな。おかげで我が国には、東方の商人が『王国の代わりに取り引きしたい』と殺到している。棚からぼた餅だ」
殿下はニヤリと笑い、私の肩をポンと叩いた。
「シルビア、礼を言うぞ。お前を捨ててくれたあの国のバカ王子にな」
「……皮肉な話ですね」
その時だった。
「し、シルビア様! またしても緊急連絡が!」
別の部下が、真っ青な顔で飛び込んできた。
「今度は何? 火山でも噴火した?」
「いえ、もっと厄介です! 王国のマリア嬢が……国境の検問所に現れました!」
「は?」
思考が停止した。
「マリアが? ここ(帝国)に?」
「はい! 『レイド様が冷たいの! シルビア様、助けてぇ!』と泣き叫んで、検問を突破しようとしています! 兵士たちが『可愛すぎて攻撃できない』と困惑しており……!」
「……あの女、行動力だけは勇者級ね」
私は立ち上がった。
「通さないでください。追い返して」
「それが……『入れないとここで歌う』と脅しておりまして……彼女の歌声は、その……精神攻撃(マインド・ブラスト)に近い威力があるらしく……」
「公害じゃないの!」
私は頭を抱えた。
「行こう、シルビア」
ルーカス殿下が、面白そうに立ち上がった。
「殿下?」
「その『傾国の美女(物理)』を一度見てみたい。それに、お前がどうあしらうのか見ものだ」
「見世物じゃありませんよ……」
「安心しろ。もし危険なら、俺が斬る」
「斬らないでください。国際問題になります」
私は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「分かりました。行きましょう。……私の平穏な午後を返してほしいものです」
私たちは馬車に乗り込み、国境の検問所へと向かった。
まさか、あのピンク頭が敵陣(帝国)に単身乗り込んでくるとは。
(……甘えてくれば何とかなると思っているのでしょうね)
かつて、彼女はそうやってレイド殿下を奪った。
「でも、残念ねマリア」
私は揺れる馬車の中で、冷酷に微笑んだ。
「今の私の上司は、貴女の『涙』も『上目遣い』も通用しない、筋肉と鉄の塊(ルーカス殿下)よ」
そして何より、私自身がもう、貴女の理不尽を許容する「都合の良い女」ではない。
「覚悟していらっしゃい。現実という名の壁を、思い知らせてあげるから」
私の手には、先日完成したばかりの『帝国入国管理法・改定版』が握られていた。
第1条:『知性のない者の入国を禁ずる』。
この条文を、彼女の額に貼り付けてやるつもりだ。
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