第6話
「殿下。変装の定義をご存じですか?」
城下町のメインストリート。
私は隣を歩く男の姿を見て、深いため息をついた。
「なんだ? ちゃんと庶民の服を着ているだろう」
ルーカス殿下は、確かに平民風のシャツとズボンを身につけている。
しかし、そのシャツは筋肉でパツパツに張り裂けそうだし、腰には明らかに国宝級の魔剣を帯びているし、何より周囲の市民が半径五メートル以内の道を空けて土下座している。
「オーラが漏れすぎています。これでは視察になりません。『王様のお通りだ!』と看板を掲げて歩いているようなものです」
「細かいことは気にするな。それより見ろ、この活気を」
殿下は満足げに腕を広げた。
帝都ヴァルハラの商店街は、確かに賑わっていた。
武器屋、防具屋、魔物素材屋……。
軒を連ねるのは殺伐とした店ばかりだが、客入りは良いようだ。
「さて、まずは我が国最大の『商業ギルド』へ向かう。あそこのギルド長は古狸でな。俺も手を焼いている」
「武力最強の殿下が、商人に手を焼くのですか?」
「斬れば終わるが、そうすると流通が止まるからな」
「……学習能力がおありで安心しました」
私たちは、街の中心にある立派な石造りの建物に入った。
『ヴァルハラ商業ギルド本部』。
中に入ると、そこは外の喧騒とは打って変わって、静かで張り詰めた空気が漂っていた。
カウンターの奥から、恰幅の良い男が揉み手をして現れる。
「おやまあ! これはこれはルーカス殿下! 本日はお忍びですか? いやはや、相変わらずの覇気でございますなぁ!」
脂ぎった顔に、へばりつくような愛想笑い。
高そうな宝石の指輪をジャラジャラとつけたこの男が、ギルド長のボルグだろう。
「ボルグ。今日は監査に来た」
「監査? はて、先月の納税は済ませておりますが」
「俺の新しい『目』だ」
殿下は親指で私を指した。
ボルグの細い目が、値踏みするように私に向けられる。
「ほう……これはまた、可愛らしいお嬢さんで。殿下の新しい愛人でございますか?」
「財務顧問のシルビアです」
私は冷たく訂正し、一歩前へ出た。
「ボルグさん。単刀直入に伺います。先ほど街の相場を見せていただきましたが、この国の物価はどうなっているのですか?」
「どう、とは?」
「城に納入している小麦の価格。市場価格の五倍ですよね?」
私は懐から、先ほど露店で買ったリンゴ(比較用)を取り出した。
「一般市民への販売価格は適正。しかし、王室および軍部への納入価格だけが、異常に跳ね上がっています。これはどういう計算式ですか?」
ボルグの眉がピクリと動いた。
しかし、すぐに余裕の笑みを浮かべる。
「はっはっは! お嬢ちゃん、商売というものを分かっておられない。軍への納入はリスクが高いのですよ。急な発注、危険地帯への配送……そのための『手数料』です」
「手数料で原価が五倍になるなら、配送業者はドラゴンでも雇っているのですか?」
「まあ、似たようなものです」
ボルグは鼻で笑った。
「それに、これは先代の王からの慣例でしてね。殿下もご納得の上でお支払いいただいているはず。ねえ、殿下?」
「……俺は細かい数字は分からん。『必要な額だ』と言われれば払うだけだ」
殿下が不機嫌そうに唸る。
この国、本当にチョロい。カモだ。ネギを背負った筋肉だ。
私はニッコリと笑った。
「なるほど。殿下の無知……いえ、寛容さに付け込んで、長年にわたり不当な利益を貪っていたわけですね」
「人聞きが悪い! 我々は帝国の経済を支えているのですよ! もし我々がストライキでも起こしてみなさい、明日の食事にも困るのはそちらだ!」
ボルグが声を荒らげた。
「軍人が剣で戦うように、商人は金で戦うのです。嫌なら他を当たればいい。まあ、この帝都の流通は全て私が握っていますがね!」
完全な独占宣言だ。
これがまかり通っているなんて、独占禁止法委員会が見たら卒倒するだろう。
「……シルビア、もういい。斬るか?」
殿下が剣の柄に手をかけた。
「待ってください。ここで斬ったら、それこそ流通が麻痺します」
私は殿下を手で制し、ボルグに向き直った。
「ボルグさん。貴方は一つ、大きな勘違いをしています」
「勘違い?」
「貴方は『殿下が計算できないから騙せる』と思っているのでしょうが……残念ながら、今は私がいます」
私はカウンターの上に、一枚の羊皮紙を叩きつけた。
「これは?」
「私がここに来るまでの十五分間で作成した、『帝国流通改革案』および『新規御用商人公募のお知らせ』の草案です」
「は?」
「貴方が独占している流通網ですが、実は隣国の商会が参入したがっているのをご存じですか? 関税を撤廃し、自由競争を導入すれば、彼らは喜んで今の半値以下で物資を納入するでしょう」
ボルグの顔色が変わった。
「ば、バカな! 他国の商人がこの危険な帝国に来るわけが……」
「危険? いいえ、彼らにとって一番の魅力は『太客』です。金払いの良い帝国軍は、喉から手が出るほど欲しい顧客リストですよ」
私は言葉を続ける。
「さらに、私は元婚約者(バカ)のせいで、近隣諸国の商業ギルドともコネがあります。『バルバロッサ帝国が市場を開放する』と手紙を一通書けば、明日には行商人の大行列ができるでしょうね」
「そ、そんなことをすれば、国内の産業が……!」
「潰れるでしょうね。努力を怠り、殿下の財布に寄生していただけの店は」
私は冷徹に言い放った。
「さあ、選んでください。このまま『新規参入業者』との価格競争で負けて破産するか、それとも……」
私は懐中時計をカチリと鳴らした。
「今までの不正利益を『寄付金』として全額返還し、今後の納入価格を適正値に戻すか。今なら、過去の横領罪については……まあ、殿下の剣が届かない範囲で情状酌量しますけど」
ボルグの額から、滝のような汗が流れ落ちる。
彼はチラリとルーカス殿下を見た。
殿下は、肉食獣が獲物を狙うような目で、剣を半分抜いている。
「……ひっ!」
「あ、ちなみに返還額の計算は終わっています。金貨八千万枚ですね。利子込みで」
「は、八千万……!?」
「嫌なら結構です。殿下、どうぞ」
「おう」
シャラン、と剣が抜かれる音がした。
「ま、待ってくれぇぇぇぇ!!」
ボルグはその場に土下座した。
床に額を擦り付け、震える声で叫ぶ。
「は、払います! 払わせていただきます! 価格も戻します! だから命だけは! 商売権だけはァァァ!」
「契約成立ですね」
私は素早く『誓約書』を取り出し(いつ書いたのかと聞かないでほしい)、ボルグの前に置いた。
「サインを。血判でもいいですよ」
「……鬼だ。悪魔だ……」
ボルグは泣きながらサインをした。
その姿を見下ろしながら、私は満足げに頷いた。
「悪魔? いいえ、私はただの『悪役令嬢』ですわ」
店を出ると、外の空気は相変わらず煤煙混じりだったが、私の気分は晴れやかだった。
「すごいな、お前」
ルーカス殿下が、心底感心したように私を見つめている。
「剣を一振りもせずに、あの古狸から八千万枚も巻き上げるとは」
「巻き上げたのではありません。回収したのです。これで、当面の軍事予算と、城の修繕費が賄えますね」
「ククク……ハハハハハ!」
殿下は腹を抱えて笑い出した。
「最高だ! やはりお前は俺の国に必要な人材だ! どうだ、一生ここにいないか?」
「お断りです。あと二十九日と二十時間で帰ります」
「つれないな。まあいい、次だ。今の金で美味いものでも食いに行くぞ」
「経費で落とすつもりですか? 自腹でお願いしますね」
「……お前、俺の財布の紐より固いな」
私たちは並んで歩き出した。
最初のような「拉致された被害者と加害者」という空気は、少しだけ薄れていた。
代わりに、「手のかかるボスと、口うるさい秘書」のような関係ができつつある。
……いや、これはこれで不本意だわ。
私は気を引き締めた。
心を許してはいけない。
これはあくまでビジネス。契約期間が終われば、私は優雅なスローライフへ戻るのだ。
「あ、そうだシルビア。城に戻ったら、俺の部屋に来い」
「……は? 何ですか藪から棒に。セクハラですか?」
「違う。執務室の書類が山崩れを起こして、俺の寝室まで侵食してきているんだ。片付け方を教えてくれ」
「……」
前言撤回。
この国、内政だけじゃなくて、生活能力も死んでいる。
私は天を仰いだ。
「別料金ですよ、殿下」
「言い値で払おう」
こうして、私の帝都での一日は、商人を脅し、国家予算を回収し、そしてこれから王子の部屋の掃除(という名の発掘作業)に向かうことで幕を閉じるのだった。
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