第7話
「……開けますよ? 心の準備はよろしいですか?」
王城の最上階。
重厚な黒檀の扉の前で、私はドアノブに手をかけたまま静止していた。
背後のルーカス殿下が、少しバツが悪そうに視線を逸らす。
「あー……待て。やっぱり明日にしないか? 今日は湿気が多いから、埃が舞うかもしれん」
「往生際が悪いです。『執務室の書類が雪崩を起こして寝室を侵食している』とおっしゃいましたよね? それを放置して寝るのは、地雷原でピクニックをするようなものです」
「俺はどこでも寝られる」
「私が許しません。国のトップがゴミ屋敷に住んでいて、健全な政治ができるわけがありませんから」
私は無慈悲にノブを回し、扉を押し開けた。
ギィィィ……と、ホラー映画のような音が鳴る。
そして、目の前に広がった光景に、私は三秒ほど思考を停止させた。
「……」
「……」
そこは、部屋ではなかった。
紙の海だ。
書類、書類、書類。
羊皮紙の山脈が幾重にも連なり、その合間に飲みかけのワインボトルや、脱ぎ捨てられたマント、そしてなぜか訓練用のダミー人形(首が取れている)が埋まっている。
床は見えない。
家具も埋没している。
かろうじてベッドらしき隆起が奥に見えるが、その上にも書物がタワーのように積まれている。
「……殿下」
「なんだ」
「ここはゴミ処理場ですか?」
「俺のプライベートルームだ」
「前言撤回します。ゴミ処理場の方がまだ分別されています」
私はハンカチで口元を覆い、恐る恐る一歩を踏み出した。
グシャッ。
足元で何かが潰れる嫌な音がした。
拾い上げてみると、それはクシャクシャになった紙切れだった。
「……『西方諸国との不可侵条約・原本』」
私はその紙を読み上げ、殿下を振り返った。
「殿下。これは国の命運を左右する外交文書ですよね? なぜ床に落ちているのですか?」
「ああ、それか。探していたんだ。三日前に鼻をかもうとして、紙がなくて……」
「鼻紙にするつもりだったんですか!?」
私は悲鳴を上げ、慌ててシワを伸ばした。
「信じられません……! よくこれで戦争になりませんでしたね!?」
「俺が睨めば、相手国は黙るからな」
「外交を顔面圧力で解決しないでください!」
私は腕まくりをした。
もう、見て見ぬ振りはできない。私の「整頓スキル」が、このカオスを浄化しろと叫んでいる。
「いいですか、殿下。今から大規模な発掘作業を開始します。貴方様も手伝ってください」
「俺がか? 俺は疲れて……」
「拒否権はありません。自分の尻は自分で拭く。これは幼稚園児でも知っている常識です」
私は床に落ちていたモップ(なぜ寝室にモップが?)を殿下に突きつけた。
「さあ、動いて! この魔窟を人間が住める場所に戻しますよ!」
「……チッ。人使いの荒い女だ」
殿下は渋々といった様子でモップを受け取った。
こうして、深夜の「大掃除」が幕を開けた。
***
「そこ! その書類は『重要』ボックスへ! 脱ぎ捨てた靴下は洗濯カゴへ! なんで剣がベッドの下から出てくるんですか! 危ないでしょう!」
「うるさいな! 枕元に武器がないと落ち着かないんだ!」
「抱き枕でも抱いて寝てください!」
作業は困難を極めた。
この部屋は、単に散らかっているだけではない。
「重要機密」と「ただのゴミ」がミルフィーユ状に重なっているのだ。
油断して捨てようとした紙切れが「暗号解読コード」だったり、大切に保管されている箱の中身が「拾った綺麗な石」だったりする。
「……殿下。この箱は?」
私が棚の奥から見つけた、豪奢な装飾が施された小箱。
厳重に封印魔法がかけられている。
「あ、おい! それは開けるな!」
殿下が慌てて止めようとしたが、私の手の方が早かった。
「怪しいですね。裏帳簿ですか? それとも愛人リストですか?」
パカリ。
箱が開く。
中に入っていたのは――
「……『どんぐり』?」
コロコロと、可愛らしいどんぐりが三つほど転がり出てきた。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。
大陸最強の武人、冷酷無比な皇太子ルーカス殿下の宝箱の中身が、どんぐり。
私はゆっくりと顔を上げた。
殿下は耳まで真っ赤になって、そっぽを向いている。
「……幼い頃、初めて森で狩りをした時に……拾ったんだ……」
「……そうですか」
「捨てるなよ! 絶対に捨てるなよ!」
「捨てませんよ。誰にでも、心のオアシスは必要ですからね」
私は優しく箱を閉じて、棚の特等席に戻した。
「意外と……可愛いところがあるんですね」
「うるさい! 忘れろ! 今の記憶を消去しろ!」
「ふふっ。弱みを握りました」
「くそっ、これだから女は……!」
殿下は顔を赤くしたまま、ヤケクソのようにモップを動かし始めた。
それから二時間後。
「……終わった」
部屋は見違えるように綺麗になっていた。
床が見える。家具の配置が分かる。空気が美味しい。
分類された書類は、壁際の棚に整然と並べられ、ゴミ袋の山が廊下に積み上げられている。
「どうですか、殿下。これが『部屋』というものです」
「……広いな」
殿下は呆然と部屋を見渡した。
「俺の部屋、こんなに広かったのか」
「埋もれていたからです。これで、明日からは書類を探す時間をゼロにできます。その分、仕事が早く終わりますよ」
「なるほど……理屈は通っている」
殿下は満足げに頷き、そしてベッドにドカッと座り込んだ。
「よくやった、シルビア。褒めてやる」
「お褒めの言葉より、特別手当をお願いします。深夜料金込みで」
「相変わらずだな。……まあいい、腹が減ったな」
殿下が手を叩くと、どこからともなくメイドたちが現れた。
ワゴンには、湯気を立てる料理が満載されている。
「うわぁ……」
私は思わず声を漏らした。
厚切りのローストビーフ、新鮮な野菜のサラダ、魚介のスープ、そして山盛りのフルーツ。
王国の実家で食べていた食事よりも、はるかに豪華だ。
「さあ、食え。労働の後の飯は美味いぞ」
「……いいんですか? 私、捕虜なんですが」
「俺の『所有物』に粗末な餌を与える趣味はない。最高の働きには、最高の燃料が必要だろ?」
殿下は豪快に肉を切り分け、私の皿に乗せてくれた。
私はフォークを手に取り、一口食べる。
「……っ!!」
美味しい。
悔しいけれど、絶品だ。
肉汁が口の中で爆発し、スパイスの香りが鼻腔をくすぐる。
(なによこれ……王国の宮廷料理よりレベルが高いじゃない……!)
「どうだ?」
「……悔しいですが、美味しいです。シェフを引き抜きたいくらいです」
「ハハハ! そうかそうか。なら、もっと食え」
殿下は嬉しそうに、次々と料理を勧めてくる。
私はもぐもぐと咀嚼しながら、ふと思った。
(衣食住は完璧。仕事は大変だけど、私の裁量で動かせる。上司(殿下)は話が通じるし、意外と単純……)
あれ?
もしかして、ここでの生活。
「悪役令嬢」として後ろ指を指されながら生きていた王国時代より、ずっと快適なんじゃないかしら?
「シルビア、ワインも飲むか? 百年もののヴィンテージだ」
「……いただきます」
私はグラスを受け取り、琥珀色の液体を流し込んだ。
体が温まり、心地よい疲労感が包み込む。
(……まあ、一ヶ月だけだし。この待遇なら、少しは楽しんであげてもいいわね)
チョロいのは殿下ではなく、胃袋を掴まれた私の方かもしれない。
そんな予感を打ち消すように、私はローストビーフをもう一枚、口に運んだ。
「あ、殿下。ちなみにその『どんぐり』の箱の隣に、もう一つ箱がありましたが」
「ん? ああ、あれか」
殿下はワインを揺らしながら、何でもないことのように言った。
「『国庫の鍵』だ」
「ブッッ!!!」
私はワインを吹き出しそうになった。
「な、なんでそんな重要アイテムが、どんぐりの隣に無造作に置いてあるんですか!?」
「一番大事なものの隣に置くのが、一番忘れないだろう?」
「セキュリティ意識!! 泥棒が入ったらどうするんですか!」
「俺の部屋に忍び込める泥棒など存在しない。入った瞬間に俺が斬る」
「……はぁ」
やっぱり、この国はダメだ。
私がいないと、セキュリティも経済も崩壊する。
「明日、金庫を買います。最新式の、頑丈なやつを」
「お前に任せる」
殿下はニヤリと笑った。
「やはりお前は、俺の隣にいるのが似合っているな」
「……酔っ払いの戯言として聞き流します」
私は赤くなった顔を隠すように、グラスを傾けた。
窓の外には、帝都の夜景が広がっている。
鉄と炎の都は、夜になると宝石箱のように輝いていた。
私の「捕虜生活」一日目は、こうして満腹と疲労と共に幕を閉じたのだった。
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