第5話
「……地獄ですね」
午後一時。
ふかふかのベッドで仮眠を取り、完璧に体力を回復させた私が連れてこられたのは、王城の中枢にある『軍議の間』だった。
扉を開けた瞬間に漂ってきたのは、男たちの汗と鉄の匂い。
そして、飛び交う怒号。
「おい! 北の砦に送る肉が足りねえぞ! 誰がつまみ食いした!」
「知るか! それより南の演習場で武器が壊れた! 新しい斧を三百本よこせ!」
「予算がないだと!? 気合いで捻り出せ! 根性が足りんのだ根性が!」
広い部屋には長机が置かれ、その周囲を数十人の巨漢たちが取り囲んでいる。
彼らは一様に顔を真っ赤にし、机を叩き、書類を紙吹雪のように撒き散らしていた。
ここは証券取引所か、それとも暴動寸前の酒場か。
「どうだ、活気があるだろう?」
隣に立つルーカス殿下が、満足げに腕を組んで言った。
「殿下。辞書で『活気』と『阿鼻叫喚』の違いを調べてから出直してください」
私はこめかみを揉んだ。
「彼らは何をしているのですか?」
「定例の予算会議だ。毎月こうやって、各部隊の長が予算を奪い合う。勝った奴が金を持っていくシステムだ」
「……まさか、物理的な殴り合いで?」
「最後はな。だが安心しろ、死人はめったに出ない」
「そういう問題ではありません!」
私は足を踏み鳴らし、スタスタと部屋の中央へ進み出た。
「そこまでです! 全員、静粛に!」
私の声は、怒号の海にかき消され……なかった。
なぜなら、ルーカス殿下が私の背後で、殺気という名の圧力をドッと放出したからだ。
ピタリ、と巨漢たちの動きが止まる。
数十人の視線が私――正確には私の後ろの魔王(ルーカス)――に集中した。
「殿下……? そちらの嬢ちゃんは?」
一番体格の良い、熊のような髭面の男が口を開いた。
胸には勲章がジャラジャラとついている。おそらく将軍クラスだろう。
「紹介しよう。今日から財務および内政の全権を任せることになった、シルビアだ」
「はあ!? 女ぁ!?」
熊将軍が素っ頓狂な声を上げた。
「殿下、ご乱心ですか! 戦場も知らねえような女に、俺たちの命綱である予算を握らせるなんて!」
「そうだそうだ!」
「女はすっこんでろ!」
「俺たちに必要なのは計算機じゃねえ、ダンベルだ!」
野次が飛ぶ。
予想通りの反応だ。
男尊女卑とかそういうレベルではない。彼らにとって『強さ』とは『物理攻撃力』のことなのだ。
私はスッと息を吸い込み、冷ややかな笑顔を貼り付けた。
「……計算機じゃなくてダンベルが必要、とおっしゃいましたね?」
私は熊将軍の前に立った。
身長差は倍近くある。見上げるような巨体だ。
「ああ、そうだ! 俺たち黒狼騎士団は、大陸最強の武力集団だ! ちまちました数字遊びなんざ必要ねえ!」
「なるほど。では質問ですが、将軍閣下。貴方の部隊、先月の食費が予算を三割オーバーしていますが、これはどうやって解決するおつもりで?」
私は手元のバインダー――朝のうちに修正しておいたあの報告書――を開いた。
「は? 食費? そりゃあ……気合いで狩りをして補うとか……」
「周辺の森の生態系が崩れるほど乱獲して、環境省(あるのか知りませんが)からクレームが来ていますよ。それに、狩りの獲物だけでは兵士の栄養バランスが偏り、壊血病のリスクが高まります。病気で倒れた兵士は、ダンベルを持ち上げられませんね?」
「ぐっ……そ、それは……」
「次に、武器の損耗率。貴方の部隊、斧を折りすぎです。一回の演習で五十本? 木を切るのに刃こぼれするような使い方をしているのですか? 研磨師への発注コストだけで、隣国の小都市が買える額になっています」
「そ、それは俺たちの力が強すぎるからで……!」
「道具の使い方が下手なだけです。力の制御もできない筋肉は、ただの贅肉と言います」
「な、なんだとォ!?」
熊将軍が顔を真っ赤にして立ち上がった。
威圧感は凄まじいが、私は一歩も引かない。
「いいですか、皆様。筋肉は裏切りませんが、予算は裏切ります。金貨は畑から生えてきませんし、空からも降ってきません」
私はバインダーをパチンと閉じ、教室の教師のように彼らを見渡した。
「今この瞬間から、予算の申請はすべて『書類』で行っていただきます。殴り合いでの決定は禁止。必要経費の根拠を数字で示せない部隊には、来月の配給を『もやし』のみにします」
「も、もやしぃぃぃ!?」
悲鳴が上がった。
彼らにとって、肉のない食事は死と同義らしい。
「嫌なら頭を使いなさい。脳みそも筋肉の一種だと思って鍛えるのです」
「き、貴様……ふざけるな! ぽっと出の女が偉そうに!」
熊将軍が拳を振り上げた。
「力づくで分からせてやる!」
巨大な拳が私の顔面に迫る。
普通の令嬢なら悲鳴を上げて気絶するところだろう。
だが、私は動じない。
なぜなら――
ガシィッ!!
鈍い音がして、熊将軍の拳が止まった。
私の顔の五センチ手前で、ルーカス殿下の片手がそれをガッチリと受け止めていたのだ。
「……おい、ガンダル」
殿下の声が、地獄の底から響くように低くなる。
「俺の『最高傑作』に傷をつける気か?」
「で、殿下……しかし……」
「こいつの言うことは絶対だ。こいつの計算は、俺の剣よりも鋭い。それに従えない無能は、我が軍には要らん」
ギリギリと、将軍の拳が締め上げられる。
熊のような男が、脂汗を流して膝をついた。
「わ、分かりました……! 従います! 従いますからぁ!」
「よし」
殿下はパッと手を離した。
そして、ニヤリと私を振り返る。
「どうだ、シルビア。これで静かになっただろう」
「……手荒すぎます。これでは恐怖政治です」
「結果オーライだ」
私はため息をつきつつ、怯えるマッチョたちに向き直った。
「さて、恐怖で大人しくなったところで、業務を開始します。まず、そこの机の上にある書類の山。全部『未決裁』ですね? 今から私が仕分けます」
私は腕まくりをした(ドレスなので袖はないが、気分の問題だ)。
「伝票読み上げ! 第一部隊、遠征費! 却下! 近場で済ませなさい! 第二部隊、宴会費! 自腹でどうぞ! 第三部隊、馬の購入費! これは承認、ただし相見積もりを取ること!」
私は次々と書類をめくり、瞬時に判断を下していく。
「え、あ、はいっ!」
「は、速え……!」
「俺たちの申請書が、一瞬で処理されていく……」
男たちは呆気にとられ、やがて私の指示に従って右往左往し始めた。
「そこ! 紙を食べるな! ヤギですか!」
「そのインク壺は飲み物ではありません!」
「計算間違い! 桁が二つ違います! 小学校からやり直してきなさい!」
怒号の種類が変わった。
これまでは不毛な喧嘩の声だったが、今は生産的な(?)指導の声だ。
一時間後。
山積みだった書類はすべて片付き、机の上はピカピカになっていた。
「……終わった」
私は肩を回し、コキリと鳴らした。
周囲の男たちは、憔悴しきった顔で床に転がっている。
脳みそを使いすぎてオーバーヒートしたらしい。
「見事だ」
一部始終を見ていたルーカス殿下が、パチパチと拍手を送ってきた。
「我が国の兵站会議が、殴り合いなしで終わったのは建国以来初めてだ」
「どれだけ野蛮な国なんですか」
「ふっ、気に入った。やはりお前は俺の国に必要だ」
殿下は上機嫌で近づいてくると、私の腰に手を回した。
「褒美をやろう。何がいい?」
「定時退社です」
即答した。
「今は午後二時だぞ?」
「精神的な疲労が限界突破しました。これ以上働くと、慰謝料の請求額が増えますよ」
「ハハハ! 強欲でいい!」
殿下は楽しそうに笑い、私の耳元で囁いた。
「だが、まだ帰さんぞ。次は『現場』視察だ」
「……現場? これ以上、何があるんですか」
「城下町だ。我が国の商業組合(ギルド)の連中にも、お前の顔を売っておかないとな」
「嫌です。絶対に嫌な予感がします」
「拒否権はない」
再び、私は殿下の腕に担ぎ上げられた。
「きゃっ! 歩けます! 自分で歩けますから下ろしなさい!」
「暴れるな。軽いな、ちゃんと飯を食ってるのか?」
「貴方たちの筋肉基準で測らないでください!」
こうして、私の帝國勤務初日の午後は、休む間もなく次の戦場へと移行することになった。
背後で見送るマッチョたちが、「あねご……すげえ……」「もやしは嫌だ……」と呟いているのを、私は聞かなかったことにした。
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