第4話

「……殿下。質問してもよろしいですか?」


ガタゴトと揺れる馬車の中。


私は手渡された『帝国の昨年度収支報告書(極秘)』を震える手で持ちながら、正面の男に問いかけた。


「なんだ? 分からない単語でもあったか?」


ルーカス殿下は、優雅にブランデーグラスを傾けながら答える。


「いいえ。単語は分かります。数字も読めます。ですが、意味が分かりません」


私は報告書の一点を指さした。


「この『雑費』という項目。国家予算の三割を占めていますが、具体的には何ですか?」


「ああ、それは城の修繕費や、ドラゴンたちの餌代、あとは俺が壊した訓練場の修理代だな」


「雑費で処理する額じゃありません!!」


私は思わず叫んだ。


「国家予算の三割ですよ!? 一国の経済規模に匹敵する額を『雑費』の二文字で片付ける神経が信じられません! 内訳は? 領収書は?」


「あるわけないだろう。面倒くさい」


「め、め、め……」


眩暈がした。


この国の経理担当者は、今までどうやって精神を保っていたのだろうか。


それとも、担当者がいないからこうなっているのか。


「あのですね、殿下。使途不明金がこれだけあると、横領し放題ですよ?」


「なに? 誰かが盗んでいるのか?」


「それを調べるのが帳簿でしょうが! ……ハァ、ハァ。次です。この『軍事費』の項目」


「我が国の誇りだ」


「九割ってどういうことですか」


「俺たちは強いからな」


「バランス!! 国のバランス!! 教育費と福祉費が『その他』にまとめられてる国がどこにありますか!」


「ここにある」


「ドヤ顔で言わないでください!」


私は頭を抱えた。


報告書をめくるたびに、地獄のような惨状が目に飛び込んでくる。


『北方要塞の暖房費:不明(とりあえずたくさん)』

『南方艦隊の食費:肉(いっぱい)』


「……これは、幼児のお絵描き帳ですか?」


「失礼な。宰相が三日かけて書いた力作だぞ」


「宰相の首を今すぐ刎ねてください。物理的に」


「そう言うな。あいつは剣を持たせれば強いんだ」


「筋肉で国が回るかッ!!」


私の絶叫が、深夜の街道に響き渡る。


ルーカス殿下は「ハハハ、元気だな」と他人事のように笑っている。


騙された。


これは「内政が停滞気味」なんてレベルじゃない。


「行政崩壊」だ。


「……帰りたくなってきました」


「契約書は交わしたぞ。違約金は……」


「分かってますよ! 働けばいいんでしょう、働けば!」


私は懐からマイ万年筆を取り出し、報告書に赤ペンを入れ始めた。


こうなったら毒を食らわば皿までだ。


このふざけた数字の羅列を、美しい数式に整えてやる。


私の事務屋としてのプライドに火がついた。


「まず、この『雑費』を解体します。ドラゴンの餌は卸売業者と直接契約してコストダウン。訓練場の修理は、壊した本人(殿下)のポケットマネーから天引きです」


「おい、俺の小遣いが減るじゃないか」


「自業自得です。次に軍事費。平和な時期にこんな予算は不要です。兵士たちに畑を耕させて、食料自給率を上げましょう。『筋肉農業』キャンペーンの開始です」


「ほう……兵士に鍬を持たせるか。新しいな」


「新しくありません、常識です! それから……」


私は揺れる馬車の中で、取り憑かれたように書類と格闘し続けた。


気がつけば、窓の外が白々と明け始めていた。


「おい、着いたぞ」


ルーカス殿下の声で、私はハッと顔を上げた。


「……え?」


窓の外を見ると、そこには異様な光景が広がっていた。


巨大な黒い城壁。


空を覆うように立ち並ぶ、無骨な尖塔。


そして、街全体から立ち上る蒸気と煤煙。


「ようこそ、帝都ヴァルハラへ」


そこは、花と芸術の国である私の故郷とはまるで違う、鉄と炎の都だった。


「うわぁ……空気が悪そう」


「第一声がそれか」


「洗濯物が外に干せませんね。乾燥魔道具の普及率を調べないと」


馬車は巨大な跳ね橋を渡り、城門をくぐっていく。


門番たちが直立不動で敬礼し、市民たちが道を開ける。


その眼差しは「尊敬」というより「恐怖」に近い。


「人気ないですね、殿下」


「俺は暴君として知られているからな」


「開き直らないでください。イメージ戦略も私の仕事になりそうですね……」


私は手元のメモ帳に『殿下の好感度アップ作戦(無理ゲー)』と書き込んだ。


やがて馬車は、城の正面玄関に横付けされた。


待ち構えていたのは、軍服を着た家臣たちの大行列だ。


「総員、敬礼!! 殿下のお戻りだ!!」


ドスッ! と地面が揺れるほどの足踏み音。


全員が筋骨隆々の大男だ。文官らしき人間が見当たらない。


(……ここ、本当に役所? ジムじゃなくて?)


私は遠い目になった。


「降りるぞ、シルビア」


ルーカス殿下が手を差し出してくる。


エスコートの手つきだけは、悔しいほど洗練されている。


私は覚悟を決めて、その手を取った。


馬車を降りた瞬間、数百人の男たちの視線が一斉に私に突き刺さる。


「おい、見ろ……女だ」

「殿下が女を連れて帰ってきたぞ」

「すげぇ美人だが、目が死んでるぞ」

「獲物か? それとも餌か?」


ヒソヒソ話の声がデカい。全部聞こえている。


「紹介する!」


ルーカス殿下がよく通る声で宣言した。


「こいつは今日から俺の『頭脳』となる女、シルビアだ! 俺の命令と同じく、こいつの言葉にも従え! 逆らう奴は……」


殿下はそこで言葉を切り、ニヤリと笑って腰の剣に手をかけた。


「斬る」


『イエッサーーーー!!!』


怒号のような返事が返ってきた。


単純だ。


この国の人たち、私の元婚約者とは違うベクトルで単純すぎる。


「……あ、あの。殿下。一つ訂正を」


私は小声で言った。


「なんだ?」


「『頭脳』じゃなくて『期間限定の派遣社員』にしてください」


「却下だ」


殿下は私の腰を強引に引き寄せ、城の中へと歩き出した。


「さあ、まずは歓迎会といこうか」


「いえ、結構です。それよりお風呂とベッドを。徹夜の残業明けなんです」


「そうか。では、最高の部屋を用意してある」


案内されたのは、王族専用区画にあるゲストルームだった。


扉を開けた瞬間、私は言葉を失った。


「……広い」


実家の自室の三倍はある広さ。


床には最高級の絨毯が敷き詰められ、天蓋付きのベッドは雲のように柔らかそうだ。


窓からは帝都の街並みが一望できる。


「気に入ったか?」


「……悪くありませんね」


私は努めて冷静に答えたが、内心ではガッツポーズをしていた。


(このソファ、本革だわ! それにあの壺、見たことない東方の工芸品……!)


「食事は三食、専属のシェフがつく。掃除洗濯はメイドがやる。お前はここで、ただ『思考』することだけに集中すればいい」


「……お菓子は?」


「言っただろう、食べ放題だと。地下の宝物庫にある最高級の蜂蜜も好きに使っていい」


「契約更新、前向きに検討します」


「現金な奴だ」


ルーカス殿下は呆れたように笑い、部屋を出て行った。


「ゆっくり休め。仕事は午後からだ」


バタン、と重厚な扉が閉まる。


部屋に一人残された私は、とりあえずふかふかのベッドにダイブした。


「ふあぁぁぁ……最高……」


スプリングの弾力が、疲れ切った体を優しく包み込む。


天井のシャンデリアを見上げながら、私は独りごちた。


「まあ、一ヶ月だけだしね。環境は良いし、あのおバカな筋肉集団を指揮するのも、ゲームだと思えば悪くないかも」


私は枕に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


「それに、あの殿下……意外と話は通じるし」


少なくとも、私の意見を頭ごなしに否定したりはしなかった。


「……なんてね。騙されないわよ。私は悪役令嬢なんだから」


警戒心を解いてはいけない。


ここは敵地。私は捕虜。


そう自分に言い聞かせながらも、襲い来る睡魔には勝てなかった。


泥のように眠る私の枕元には、すでに修正テープだらけになった『帝国収支報告書』が転がっていた。


これから始まる日々が、私の想像を絶する『激務』と『溺愛』のサンドイッチになることを、この時の私はまだ知る由もなかった。

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