第3話

「降りろ。殿下がお待ちだ」


騎士たちに促され、私は渋々馬車を降りた。


夜の街道は静まり返り、不気味なほどの静寂に包まれている。


周囲を囲むのは、黒い軍服に身を包んだ屈強な男たち。


彼らの装備は洗練されており、動きに無駄がない。


(バルバロッサ帝国の精鋭部隊『黒狼騎士団』……まさかこんな所で見ることになるなんて)


私の頭の中にある『各国の軍事力比較データ』が、危険信号を点滅させている。


我が国のゆるふわ騎士団とは、練度が段違いだ。


「こちらへ」


案内されたのは、街道脇に停められた巨大な漆黒の馬車だった。


車輪だけで私の身長ほどもある、動く要塞のような代物だ。


扉が開かれると、中から琥珀色の光が漏れ出し、甘い葉巻の香りが漂ってきた。


「失礼します」


私はドレスの裾をつまみ、あくまで優雅に乗り込んだ。


たとえ拉致監禁の被害者であろうと、公爵令嬢としての品位は売り渡していない。


車内は予想以上に広かった。


革張りのソファ、高級な酒瓶が並ぶ棚、そして書類が山積みになった執務机。


そのソファの中央に、一人の男が踏ん反り返っていた。


「よお。待っていたぞ、悪役令嬢」


低い、腹の底に響くような声。


燃えるような真紅の髪に、野獣を思わせる金色の瞳。


シャツのボタンを三つほど開け、鍛え上げられた胸板を惜しげもなく晒している。


隣国バルバロッサ帝国の皇太子、ルーカス・フォン・バルバロッサ。


別名『戦場の狂犬』。


(うわぁ……実物は肖像画の三割増しで柄が悪いわね)


私は内心で舌打ちしつつ、ニコリと微笑んだ。


「お初にお目にかかります、ルーカス殿下。このような夜更けに、野外での密会とは。随分と熱烈なアプローチですこと」


「ふん、減らず口を叩く女だ」


ルーカス殿下は面白そうに口角を上げ、手元のグラスを揺らした。


「単刀直入に言おう。シルビア・ランカスター、お前を我が国へ連行する」


「お断りします」


私は即答した。


「は?」


「聞こえませんでしたか? 『No』です。『Nein』です。『いいえ』です。私はこれから実家の領地で、朝寝坊と二度寝を繰り返す自堕落な生活を送る予定なのです。貴方様の国のような、筋肉と鉄の匂いがする場所に行く予定はございません」


「……拒否権があると思っているのか?」


「ありますよ。国際法をご存じないのですか? 正当な理由なき拉致は、宣戦布告と見なされます」


私は扇子を開き、口元を隠して目を細めた。


「それとも、バルバロッサ帝国は我が国と戦争をお望みで? あいにく我が国は今、私の婚約破棄騒動で上を下への大騒ぎですが、戦争となれば話は別です」


「ハッ! あの腑抜け王子が治める国とか? 三日で落ちるな」


「……まあ、否定はしませんけど。二日は持ちこたえるかもしれませんわ」


「謙虚だな」


ルーカス殿下は声を上げて笑った。


野性味あふれる笑顔だが、目は笑っていない。


「安心しろ。戦争は起こさん。お前を連行する理由は、正当な『犯罪捜査』だからな」


「犯罪?」


「ああ。お前は我が国の『重要機密』を持ち出した疑いがある」


私は呆れて溜息をついた。


「言いがかりも甚だしいですね。私が貴国に行ったのは、三年前の社交パーティーが最後です。その時に持ち帰ったものといえば、不味いカナッペの記憶くらいですが」


「とぼけるな。俺が言っているのは『国家運営に関わる最高レベルの頭脳』のことだ」


「はい?」


「我が国の諜報員からの報告だ。『ランカスター公爵家の領地経営データ』『王国の裏帳簿』『対隣国通商条約の抜け穴リスト』……これらを作成し、運用していたのが誰か。俺はすべて知っている」


ルーカス殿下は身を乗り出し、私の顔を覗き込んだ。


至近距離で見ると、その瞳の迫力に圧倒されそうになる。


「レイド王子の影で、実質的に国を回していたのはお前だろ? シルビア」


「……買いかぶりですわ。私はただ、数字合わせが好きなだけのしがない令嬢です」


「嘘をつけ。お前が婚約破棄された瞬間、王国の株価が暴落したぞ」


「あら、仕事が早いですわね。空売りしておけばよかった」


「そういう所だ」


ルーカス殿下はニヤリと笑い、一枚の書類をテーブルに放り投げた。


「見ろ。お前の元婚約者が、我が国に送ってきた通商協定の修正案だ」


私は書類を拾い上げ、一瞥した。


そして、三秒で眉間にシワを寄せた。


「……何ですか、このゴミは」


「だろう? 関税の計算式が間違っている上に、こちらの輸出品目に対する制限がザルだ。これをこのまま通せば、お前の国は一年で破産する」


「あのバカ……! 先月教えたばかりの『損益分岐点』の概念をもう忘れたの!?」


私は思わず書類を握りつぶした。


「修正ペン! 修正ペンはありませんか!? 今すぐここを直さないと、我が国の主要産業である小麦農家が全滅します!」


「おいおい、落ち着け。もうお前の国じゃないだろう」


「職業病です! 目の前に計算間違いがあると、蕁麻疹が出る体質なんです!」


「ハハハ! いいぞ、その反応! やはり本物だ!」


ルーカス殿下は楽しげに膝を叩いた。


「シルビア、俺はお前が欲しい」


「……は?」


唐突な言葉に、私は動きを止めた。


「勘違いするなよ。愛だの恋だの、そんな不確かなものではない。俺が欲しいのは、お前のその『脳みそ』だ」


彼は長い指で、私のこめかみをトンと突いた。


「我が帝国は武力では最強だが、内政が追いついていない。古臭い貴族どもが既得権益にしがみつき、経済は停滞気味だ。俺の覇道を支えるには、切れ味の鋭い『知の参謀』が必要なんだ」


「……つまり、私に帝国で働けと?」


「そうだ。俺の秘書官になれ。地位も名誉も、望むだけの金もやる」


条件としては悪くない。


むしろ、あの泥舟のような王国にいるより、よほど将来性はあるだろう。


だが、私には譲れない夢がある。


「条件は魅力的ですが、お断りします」


「なぜだ?」


「私は『スローライフ』がしたいのです! 朝起きて、畑のトマトに水をやり、縁側でお茶を飲む! そういう老後みたいな生活を十代で送るのが夢なんです!」


「トマトだと?」


「ええ。もう書類とは決別しました。数字も見たくありません。これからは土と対話して生きていきます」


私は胸を張って宣言した。


しかし、ルーカス殿下は鼻で笑った。


「甘いな。お前のような女が、田舎の静寂に耐えられるわけがない」


「耐えられますとも! 私の適応能力を侮らないでください」


「ほう。では賭けるか?」


「賭け?」


嫌な単語だ。レイド殿下もよく賭け事を好んだが、負けるのはいつも彼だった。


「俺の城に来て、一ヶ月だけ働いてみろ。それでも『畑仕事がしたい』と言うなら、倍の慰謝料をつけて解放してやる。もちろん、実家の安全も保障しよう」


「……倍?」


私の耳がピクリと反応した。


「ああ。王国に請求した額の倍だ。金貨にすれば……そうだな、国家予算の四パーセント分か」


「四パーセント……」


私は頭の中で素早く計算を始めた。


それだけの資金があれば、ただのスローライフどころか、領地ごと独立して『シルビア公国』を建国できるレベルだ。


最高級の肥料も、全自動の水やり魔道具も買い放題。


「……労働条件の確認を」


「お、乗ってきたな」


「勤務時間は?」


「基本は朝八時から夕方五時まで。ただし緊急時は除く」


「残業代は?」


「一分単位で出す。深夜、休日は五割増しだ」


「福利厚生は?」


「王宮内の温泉、食堂、図書館の利用は自由。菓子は食べ放題だ」


「……契約書は?」


「ここにある」


ルーカス殿下は、まるで用意していたかのように一枚の羊皮紙を取り出した。


用意周到すぎる。最初から私をはめる気満々じゃないか。


でも、条件が良すぎる。


ブラック企業(王国)からホワイト企業(帝国)へのヘッドハンティング。


しかも、一ヶ月の短期契約でボーナス確定。


(一ヶ月……たった一ヶ月我慢すれば、一生遊んで暮らせる巨万の富が……)


私の商魂が、スローライフへの憧れを一時的に凌駕した。


「……ペンを貸してください」


「賢明な判断だ」


ルーカス殿下がニヤリと笑い、万年筆を差し出した。


私は震える手でそれを受け取り、サインをした。


『シルビア・ランカスター』


その文字が、私の新たなる多忙な日々の幕開けとなった。


「契約成立だ。ようこそバルバロッサ帝国へ、俺の『参謀』殿」


「一ヶ月だけですからね! 絶対に一ヶ月で辞めますからね!」


「はいはい。精々努力するんだな」


ルーカス殿下は満足げに頷き、窓の外へ合図を送った。


馬車が動き出す。


進む先は北の田舎ではない。


大陸最強の軍事国家、バルバロッサ帝国の帝都だ。


「ああ、私のトマト……私の二度寝……」


遠ざかる王国の方向を見つめ、私は涙を飲んだ。


でも、懐には『契約金・前払い』として渡された小切手が入っている。


その額面のゼロの数を思い出し、私は自分を慰めた。


(大丈夫。一ヶ月なんてあっという間よ。適当に仕事して、適当にサボって、お金だけもらってトンズラすればいいんだわ)


そう。


私はまだ知らなかったのだ。


この国の内政事情が、私の想像を絶するほど『壊滅的』であることを。


そして、一度この男(ルーカス)に捕まったら、二度と逃げられないということを。

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