第2話

「待て! 待てと言っているだろう、この守銭奴!」


馬車が動き出そうとしたその瞬間、バンッ! と乱暴に扉が叩かれた。


優雅な一人旅の始まりを邪魔され、私は眉間人差し指を押し当てる。


窓の外には、息を切らしたレイド殿下が仁王立ちしていた。


その後ろには、スカートの裾を掴んでヨロヨロと追いかけてきたマリア嬢の姿もある。


「……何でしょうか、元・婚約者殿。私のタクシーメーターはすでに回っておりますけれど?」


私は窓を少しだけ開けて、冷ややかな視線を浴びせた。


「タクシー……? わけのわからん単語を使うな! それより、さっきの請求書だ! どう考えてもおかしいだろう!」


レイド殿下の手には、先ほど執事が渡したバインダーが握られている。


「計算間違いでもございましたか? 当家の会計士は優秀ですので、一桁の誤差もないはずですが」


「額だ、額! なんだこの『精神的苦痛および過去の労働対価』というのは! 国家予算の二パーセントだぞ!? 城の修繕費より高いじゃないか!」


「当たり前です。城の壁は黙ってそこにいるだけですが、私は貴方様の尻拭いのために東奔西走していたのですから」


私は懐から予備のメモ帳を取り出し、サラサラとペンを走らせた。


「では、内訳をご説明しましょうか。まず、金貨一万枚。これは貴方様が『公務がだるい』と言ってサボった際の、代行手数料です」


「ぐっ……そ、それは……」


「次に金貨五千枚。貴方様が隣国の要人に『カツラがズレてますよ』と指摘しそうになった際、私がワインをこぼして話題を逸らした『危機管理手当』です」


「あの時は助かったが……いや、だからと言って金を取るのか!?」


「プロの仕事をタダで受けられると思わないでください。そして、これが一番高額ですが……金貨三万枚」


「な、なんだそれは! 俺はそんな高価なツボを割ったりしていないぞ!」


「いいえ。これは『レイド殿下の自作ポエムを聞かされる苦痛に対する慰謝料』です」


「ぶっっ!!」


レイド殿下が変な声を出してのけぞった。


周囲の御者や護衛騎士たちが、必死に笑いをこらえて震えているのが見える。


「き、貴様……俺の『愛の詩集・銀河の果てまで』を、苦痛だったと言うのか!?」


「ええ、地獄でした。特に第三章の『君の瞳は沼地のよう』という表現は、ロマンチックを通り越してホラーでしたので。あの時間を返していただくには、これくらいの額が妥当かと」


「ひ、ひどい……俺は君のために……」


「シルビア様!」


ここで、たまらずマリア嬢が割って入ってきた。


彼女はレイド殿下の腕にギュッとしがみつき、私を睨みつける。


「お金、お金、お金……! そんなに金貨が大事ですか!? レイド様の愛はお金なんかじゃ買えない、プライスレスなものなんです!」


「マリア……!」


「レイド様、こんな冷たい人の言うことなんて聞かなくていいんです。私たちが愛し合っていれば、どんな困難も乗り越えられます!」


二人は馬車の前で抱き合い、自分たちだけの世界に入り始めた。


キラキラとした背景効果音が見えそうなほどの熱愛ぶりだ。


私は懐中時計を見て、ため息をついた。


(あと三分で出発しないと、街道の宿場町に着くのが遅れるわね)


「あの、盛り上がっているところ恐縮ですが」


私は水を差すように、淡々と声をかけた。


「愛がプライスレスなのは結構ですが、生活にはコストがかかります。マリア様、貴女が今着ているそのドレス」


「えっ? こ、これですか?」


マリア嬢が着ているのは、最新の流行を取り入れたフリルたっぷりのドレスだ。


「とてもお似合いですよ。ですが、そのドレスの代金、まだ支払われていませんよね?」


「……は?」


「王室御用達の『マダム・ボヌール』からの請求書が、なぜか私の元に届いていたんですよ。『レイド殿下がマリア嬢へのプレゼントにするから、婚約者のツケにしておけと言った』と」


マリア嬢の顔が凍りついた。


レイド殿下がギクリと肩を揺らす。


「レ、レイド様……? 『王家の倉庫に眠っていた生地で作らせた』って……」


「あ、あー……その、なんだ。細かいことは気にするな!」


「気にしますよ。そのドレス代、金貨五十枚。今回の慰謝料に上乗せしておきますね」


「鬼か貴様は!!」


「鬼で結構です。さあ、どうなさいますか? 一括払いが無理なら、王家の領地の一部を譲渡していただく形でも構いませんが」


「領地だと!? 父上に殺されるわ!」


「では、分割払いですね。金利はトイチ(十日で一割)で……」


「闇金より暴利じゃねーか!!」


レイド殿下が叫ぶが、私は聞く耳を持たない。


「契約成立ということで。初回のお支払いは来月末までにお願いします。遅れた場合は、王城の家具を差し押さえに参りますので」


「ま、待て! 話を聞け! シルビア!」


「御者さん、出発して。これ以上ここにいると、私の『知性』まで目減りしそうだから」


「は、はいっ! 御意!」


御者が慌てて鞭を振るう。


馬車がガタゴトと動き出した。


「シルビアアアアア! 覚えてろよおおお!」


「最低ですぅぅぅぅ! 悪魔ぁぁぁ!」


遠ざかっていく二人の絶叫が、心地よいBGMのように聞こえる。


私は窓を閉め、ふかふかのシートに背中を預けた。


「ふう。これで心置きなく、未練も断ち切れましたわ」


未練など最初からミリ単位もなかったが、貸し借りを綺麗にするのは商売の基本だ。


手元のメモ帳には、『回収予定額:莫大』と記してある。


「さて、実家に戻ったら、お父様に報告して……明日の朝には領地へ出発ね」


公爵家が所有する北の領地。


そこは自然豊かで、余計な社交界のしがらみもない私の楽園だ。


そこで農業改革をして、特産品を開発して、悠々自適な隠居生活を送る。


完璧な計画だ。


「……ん?」


馬車が王都の城門を抜け、街道に入ってしばらくした頃だった。


ふと、窓の外の景色に違和感を覚えた。


実家である公爵邸へ向かうなら、西の大通りを進むはずだ。


しかし、馬車はなぜか東の森へ続く一本道――国境方面へと進んでいる。


「ちょっと、御者さん? 道が違って……」


私が声をかけようとした時、馬車が急停車した。


ガクンと衝撃が走り、私は前の座席に手をつく。


「な、何事!?」


「検問だ! 止まれ!」


外から野太い声が聞こえてくる。


検問?


こんな夜更けに、王都のすぐ外で?


「失礼します、レディ」


ガチャリと扉が開かれ、見知らぬ騎士が顔を覗かせた。


王国の騎士団の制服ではない。


黒を基調とした、鋭利なデザインの軍服。


その胸元には、獰猛な『黒狼』の紋章が刻まれている。


(……黒狼? あれは確か、好戦的で有名な隣国・バルバロッサ帝国の……)


私の背筋に、嫌な予感が走った。


「シルビア・ランカスター公爵令嬢ですね?」


「……ええ、そうですが。何か?」


私は精一杯の虚勢を張って微笑んだ。


「貴女に『国家重要機密持ち出し』の容疑がかかっています」


「は? 機密? 私が持ち出したのは、元婚約者への請求書だけですが」


「問答無用。ご同行願います」


「ちょっと! 離しなさい! 私はスローライフに行くのよ! 北へ行くの! 東じゃないわ!」


私の抗議も虚しく、騎士たちは手際よく馬車の進路を変えさせた。


「連れていけ。殿下がお待ちだ」


殿下?


レイド殿下ではない。


もっと恐ろしく、もっと厄介な『殿下』の影が、私のスローライフ計画に忍び寄っていた。

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