第10話
菜摘と別れてから3ヶ月が経っていた。
父・勉から実家に顔を出すように言われ、しぶしぶ仕事終わりに立ち寄った。
病院から歩いてすぐ――病院長の自宅に相応しい、立派な一軒家だった。
「最近、全然顔を見せないんだから。今までは菜摘ちゃんがあなたを連れて顔を出してくれていたのに。」
菜摘のことを娘のように可愛がっていた理菜。
別れたことを報告したときには、肩を落として落ち込んでいた。
「……色々と忙しいんだよ。」
キッチンから向けられる母の眼差しから逃げるように、悠はテレビ画面に目をやるが、ふと違和感を感じた。
違和感の原因はすぐにわかった。
以前、テレビ台に飾られていた悠と菜摘の写真が入った写真立て――いつの間にか片づけられていた。
「……悠。」
リビングのソファで論文を広げていた勉が顔を上げる。
「お前は、将来のビジョンをどう描いてるんだ?」
「……」
父からの突然の質問。
悠はすぐに答えられなかった。
「別に、菜摘さんと別れたことを言っているわけじゃない。人同士には相性もある……だけど、今の悠からは自分の人生をどう生きたいのか、それが全く伝わってこない。」
淡々とした口調ながらも、勉の言葉には厳しさが滲んでいた。
元々、口うるさいタイプの両親ではない。
医師になることを強制されたこともない。
もちろん、悠が勉と同じく医学の道を志したときは喜び、全力で応援してくれたが……
「脳外科を選んだ以上、いや、医師である以上、患者の死は避けて通れない。傷つくな、とは言わないが、一体いつまで引きずるつもりなんだ?」
「……」
「仕事には真面目に取り組んでいるから、院長としてとやかく言うつもりはない。だが、酒に頼って、菜摘さんを傷つけて……いつまでダラダラと生活している?」
悠は何も答えられないまま、問いを重ねる父のまっすぐな眼差しに向き合っていた。
「今の辛さを乗り越えられないなら、医者をやめなさい。酒に逃げ続けるより、ずっと自分のためになるだろう。」
厳しい言葉だった。
だが、核心をついた父の言葉は胸に刺さった。
リビングの壁に掛けられた、古びた父の医学部卒業証書。
その隣には、悠の卒業証書も飾ってある。
無事に大学を卒業したとき、母が嬉しそうに額縁に入れてくれた姿が蘇った。
「……家に帰ります。」
「え、夜ご飯食べないの?」
母の声を振り切り、悠は実家を後にした。
1人で暮らすには広すぎるマンションの部屋。
書斎の中の本棚には、大学時代からのノートが山程残っている。
父と同じ脳外科医になりたい――
たくさんの人の命を救いたい――
そう思った過去の自分がそこにいた。
その夜以降、悠は強い酒を飲むのをやめた。
そして、自身の心のトラウマと向き合う覚悟を決め、紹介された心療内科に通い始めた。
*
季節は流れた。
初めて第一助手として入った優作の緊急手術から1年。
最近、指導医・宮下の執刀する下で、第一助手となる機会も増えてきた。
私生活も落ち着き、時々貴志たち同僚と飲みに行く程度に飲酒量も減った。
だが、まだ優作の亡くなった手術の場面は夢に見る。
目覚めは苦しいものの、あの辛い経験を思い出すことは、悠にとって1つの糧となっていた。
二度と自分の力不足を悔やむことがないように……
悠は懸命に医者としての使命に向き合った。
「あ……」
ある日、悠は中庭のベンチに座る菜摘の姿に気づいた。
別れる直前のぎこちない微笑みではなく、昔のような穏やかな優しい微笑みを浮かべながらコーヒーを飲んでいた。
それは、悠が学生時代から好きだった、菜摘本来の笑顔だった。
声をかけようとするが、彼女の隣に座って同じくコーヒーの紙コップを持つ貴志の姿に気づき、足を止める。
ベンチに座り楽しそうに話す2人を前に、秋の風が落ち葉をそっと巻き上げていった。
*
それから数日後、貴志から誘われた飲みの席。
「俺、菜摘ちゃんと付き合うことになったんだ。」
喜ばしい話に似つかわしくない神妙な顔で、貴志は悠に告げた。
「そう、なんだ……」
悠は一瞬言葉に詰まり、目を泳がせる。
親友と元恋人の恋――名前を持たない複雑な想いが胸に生まれた。
「悠にはまず一番に報告しないとって……」
「そっか……おめでとう。」
悠は内心を取り繕うように笑顔を作った。
学生時代、まだ悠が菜摘と仲良くなる前から「菜摘ちゃん、菜摘ちゃん」と貴志の口から彼女の名前が出ていたことを思い出す。
「……いつから?」
「学生時代――菜摘ちゃんが悠と付き合い始める前から、俺は彼女が好きだった。」
「え、ずっと?」
思いがけない言葉に問い返す悠。
「いや、ずっと一途にってわけじゃない。」
貴志は慌てて首を振った。
「悠と付き合って婚約までして……俺だって何度も諦めようとした。他の女の子ともたくさん付き合ったし。でも……菜摘ちゃんの顔を見たら、それだけでいつも気持ちが戻ってしまった。親友の恋人なのに、さ……」
「……」
貴志の口から語られる想いを悠は黙って聞いていた。
学生時代、貴志が菜摘に心を寄せていたことには気づいていた。
だが、今、本人の口から語られるその気持ちの強さや深さに、ただ驚かされていた。
「菜摘ちゃんが幸せそうだったから、片想いでも別に良かったんだ。でも……2人が別れる前、菜摘ちゃんが泣いているのを見たら、もう、我慢できなくなって……」
「……菜摘、泣いてたの?」
「え?あ、うん。」
悠の問いかけに頷く貴志。
悠は深く息をついた。
6年間付き合ってきて、今まで彼女の涙を見たことがなかった。
強い女性だと思っていた。
だが、自分が知らないだけだったのかもしれない。
菜摘に甘え、彼女の弱さを知ろうとすらしていなかった。
「……ごめん。悠と別れて弱っていた菜摘ちゃんに付け込んだのは事実だよ。でも、そうじゃないと俺は悠に勝てない。俺……どうしても、菜摘ちゃんと付き合いたかったんだ。」
貴志らしい、まっすぐな言葉だった。
テーブルの上のグラスの氷が静かな音を立てる。
グラスの中のウーロン茶はすっかり薄くなっていた。
「……“勝つ”とか“負ける”ではないと思うけど……」
悠は口を開く。
「俺といるよりも、貴志といる方が菜摘は幸せだと思う。」
「……」
貴志は黙って悠を見つめ返した。
「この前、中庭で2人でいるのを見かけたよ。菜摘、楽しそうに笑ってて……それに、俺の前じゃ、涙を見せたことがない。」
悠は小さく笑った。
“勝ち負け”ではない。だが、悠は確実に目の前の貴志に負けていた。
「……幸せに、な。」
まだぎこちなさはあるものの、心からの祝福の言葉だった。
「ありがとう、悠。結婚式の披露宴の友人代表スピーチ、お前に任せるから。」
「え、そこまで決まってるの?」
驚く悠に、貴志は歯を見せて笑う。
「まさか、まだまだ。俺の妄想だよ。」
「……何だよ、それ。」
張り詰めていた2人の間の空気がふっと緩む。
新しい飲み物を注文し、互いの明るい未来を祈りながらグラスを合わせた。
『指先に祈りを込めて―ラベンダー色の恋の思い出―(前日譚)』完
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