第9話
菜摘は、2日後の週末に家に戻ってきた。
「別れたいと思っている。」
テーブルに向かい合って座った悠と菜摘。
菜摘は落ち着いた口調で、そう告げた。
「悠くんがわたしといることに安らげないのと同じように、わたしも悠くんといることに疲れてしまったの。」
覚悟していた言葉だった。
あの手術の後から続いている過飲酒。
数ヶ月離れないで寄り添ってくれていたことに感謝もしないまま、先日の失言――
悠は、菜摘を引き止めることなどできなかった。
「……わかった。」
静かに頷く悠の眼差しに、菜摘の胸は痛んだ。
6年間交際していたのだ。
愛も情も、簡単に消えるものではない。
だが……
菜摘は、婚約指輪の入った箱をテーブルの上に置いた。
「これ、返すね。あと……ご実家にも今度お詫びにいく。マンションの名義のこととか事務的なことはまた改めて話そう。婚約していたわけだし、もし、慰謝料とかも……」
「……そんなこと、言うはずないだろう。悪いのは全部俺なんだから。」
悠は目を伏せて小さく唇を噛み締めた。
2人で指輪を選んでいたときの幸せな気持ちが胸に蘇り、もう一度菜摘に縋りたくなる。
だが、目の前に座る彼女の顔は、既に心を決めていた。
「……菜摘、傷つけてごめん……幸せにできなくてごめん。」
悠は深く頭を下げた。
「ううん、わたしこそ……これ以上傍にいられなくてごめんなさい。」
菜摘は寂しげに悠に微笑んだ。
学生時代から順調に交際を続け、1度も喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった2人の関係は、静かに幕を降ろした。
*
行きつけの病院近くの居酒屋。
悠はウーロン茶の入った自分のグラスを、貴志のビールジョッキに合わせた。
非番の貴志と違い、悠はオンコールの日。
いつ呼ばれるのかわからない中、アルコールはご法度だった。
悠は貴志に菜摘と別れたことを報告した。
「そうなんだ……」
菜摘が出ていったことを聞き、貴志は複雑な表情を浮かべる。
あの夜の彼女の涙も、目の前の親友のため息も、両方の気持ちを目の当たりにして、かける言葉が出てこなかった。
「……6年付き合ってきたのに、壊れるときは一瞬なんだな……」
そう力なく笑う悠。
未練や後悔……そして、それ以上に別れを決意させた菜摘への申し訳ない気持ちが胸を満たしていた。
「……本当に“一瞬”なのかな?」
貴志はジョッキの泡を見つめながら小さく呟く。
「悠の言葉に傷ついたとは思うけど……その一言だけで別れを決めたとは思えない。そんな感情的に動く子じゃないだろ、菜摘ちゃんは……相当、辛かったんだろうね。」
「……」
大学時代からの付き合い。
貴志もまた菜摘のことをよく知っている。
そんな友人の独り言のような呟きが、悠の胸に染みた。
「マンションとかどうするの?」
「俺がそのまま住む。次に休みが合うときに、菜摘と手続きしにいかないと……気まずい、かな。」
悠は小さくため息をついた。
「大丈夫だよ。悠も菜摘ちゃんも、取り繕うのが上手な“優等生”だから。気まずくても、表面上うまくやれる。」
「……なんだよ、それ。」
貴志の言葉に、思わず苦い笑みが漏れる。
「まぁ、とにかく。最初はぎこちなくても……いつか、本心で笑いあえる
友人の優しさに感謝しつつ、悠はウーロン茶を飲んだ。
柔らかいほのかな苦みが口に残った。
数十分後、悠は病院から呼び出され、慌ただしく店を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、貴志は深くため息をついた。
親切そうな物言いの裏に、自分の密かな願望が込められていることに貴志は気づいていた。
もう
悠と付き合い始める前から菜摘に惹かれていた。
次に彼女を幸せにするのは、自分だ――
悠の残像が残るテーブルで、貴志は静かに誓った。
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