第8話
今日は早く帰れる。
昼休み、悠からメッセージが届いたのは、菜摘が家出したあの夜から1週間後のこと。
あの日以外は、菜摘は家に帰り、普段通りの生活を送った。
起きている時間に悠が帰ってこないのも、普段通りであると言えば普段通りのことだった。
会ってきちんと話したいとは思っている。
だが、いざ悠を目の前にして何を話せばいいのだろう。
酒をやめてほしい――
無理をしないで、もっとわたしを頼ってほしい――
だが、悠を想うその気持ちを“優等生”と言われてしまったら、自分に何ができるかわからなかった。
「……」
菜摘は嬉しいはずの悠のメッセージに返事ができないまま、黙ってスマホを鞄にしまった。
*
勤務を終え、菜摘は病院の駐車場に停めた自分の車の運転席に座っていた。
エンジンをかけ、ハンドルに手を置き……
だが、アクセルを踏み込めないまま、かれこれ30分以上経過していた。
悠の車はもうない。
きっと既に家で菜摘のことを待っている。
優しい悠のことだ。きっと先日のことを謝ってくるのだろう。
謝罪を受け入れたとしても、出来た心の傷は消えない。
これから先、ことあるごとに思い出してしまう自分が想像できた。
どう悠と向き合えばよいかわからず、家に帰るのが怖かった。
「菜摘ちゃん。」
そのとき、運転席の窓を叩かれ、我にかえる。
暗い寒空の下、紙コップを2つ手にして立っていたのは、白衣姿の貴志だった。
菜摘は運転席のドアを開く。
「どうしたの?」
「んー、医局から見ていたら、なかなか車が出ないからさ……気になって、当直抜け出して来てみたんだ。はい、ココア。寒いだろ?」
差し出された温かい紙コップを受け取る。コップを包む両手を通じて、じんわりと温もりが広がっていった。
「どうしたの?悠、今日早くに帰ったよ。」
「……うん。」
「違う、か……
苦い表情を浮かべる貴志の的確な言葉に、菜摘は俯いた。
貴志は運転席の傍に立ちながら自分のココアを啜る。
「……話、聞こうか?」
「……悠くん、“優等生”のわたしといても、安らげないんだって。」
菜摘はぽつりと漏らした。
「は?悠、そんなこと言ったの?」
貴志は思わず声をあげた。
「あいつ、菜摘ちゃんに甘えてるんだよ。口が滑っただけ。本心じゃないよ、きっと。」
「……わたしは、ずっと“優等生”でやってきた。親の前でも、友達の前でも、職場でも……悠くんの前でも……それがわたしなの。否定されても、もうどうしようもなくて……」
紙コップから上がる温かい湯気に誘われ、菜摘の目から涙がこぼれた。
「悠くんに会うのが怖い……」
「菜摘ちゃん……」
貴志は予期しない涙に動揺しつつ、慌てて白衣のポケットからハンカチを取り出す。
だが、出てきたのはくしゃくしゃに畳まれたハンカチだった。
「……これじゃ、涙拭いてって言えないな……」
残念そうな貴志の言葉に、菜摘は一瞬笑ってしまう。
だが、その心の緩みが引き金となった。
次から次へと涙が止まらなかった。
他人の前で声をあげて泣いたのはいつぶりだろう……
躊躇いながらも差し出された皺だらけの貴志のハンカチで、菜摘は顔を覆って泣いた。
貴志は空を仰ぎながら、菜摘の涙が落ち着くまで黙って寄り添っていた。
「……ごめんね、ありがとう。」
やがて菜摘は涙の残る赤い目で微笑んだ。
「恥ずかしいところ見せちゃったね……」
「そんなの、もっと見せてくれたら良いのに……あ、ほら、俺たち
貴志は思わず漏れた自らの本音に、慌てて言い訳をする。
「……たしかに菜摘ちゃんは“優等生”だよ。いつも真面目で優しくて……でも、こんな風に素直に泣くこともできる。優等生の菜摘ちゃんと同じくらい、赤い鼻の菜摘ちゃんも可愛い。」
「……!」
菜摘は慌ててハンカチで鼻元を抑える。
それを見た貴志が笑い、菜摘もつられて笑った。
貴志の言葉が温かく胸に広がっていた。
「……じゃ、俺そろそろ医局に戻らないと。」
貴志は時計を見て呟く。
「何かあったらいつでも相談に乗るよ。」
「……本当にありがとう、貴志くん。」
菜摘は手を振りながら去っていく貴志に礼を言った。
貴志が去った後、菜摘は鞄の中に入れている小箱を取り出した。
仕事柄、身につけることはほとんどないものの、お守りのように常に持ち歩いている――悠から贈られた婚約指輪だった。
大粒のダイヤモンドが、ルームライトに照らされて寂しく光っていた。
菜摘は、覚悟を決めたように深呼吸をするとスマホを取り出した。
ごめんね。
今日、家には帰りたくない。
また日を改めて話したい。
悠にそうメッセージを送った。
メッセージはすぐに既読になったが、返事はなかった。
菜摘は先日も泊まった近所のビジネスホテルに車を走らせた。
心を決めたからか、胸の中がどこかすっきりとしていた。
*
その夜、悠は何度もベッドで寝返りを繰り返していた。
ごめんね。
今日、家には帰りたくない。
また日を改めて話したい。
短いメッセージを何度も読み返す。
急な仕事で
それが今日
話したい内容とは、一体何なのか……
頭の中を様々な考えが巡った。
眠れないまま時間だけが過ぎ、ウイスキーの瓶に手を伸ばしかける。
だが――先日の菜摘とのやりとりを思い出してやめた。
1人で寝るには少し広すぎるダブルベッド。
菜摘のいない壁側のシーツを、悠はそっと撫でた。
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