第7話

 その晩、帰宅したのは菜摘の方が遅かった。

 キッチンから漂う香ばしい匂いに、菜摘は頬を緩める。


「作ってくれたんだ。」

「おかえり。今できたところだよ。簡単なものだけど。」


 悠はチャーハンとサラダをテーブルに並べる。

 手が空いている方が料理を作る。

 互いに忙しかったら無理はしない。

 その緩いルールでやってきたが、悠がキッチンに立つのは久しぶりだった。


「あ、スープも作ろうか?」

「ううん、いい。美味しそう、早く食べたい。」


 ここしばらくずっと張り詰めていた2人の間の空気が緩んだようで、菜摘は少しホッとしていた。


 2人向き合って食事を取る。

 他愛ない話をしたり、つけたままのテレビのニュースに耳を傾けたり。

 このまま何気ない幸せが戻ってほしい――

 菜摘は祈る気持ちでいた。

 それは悠も同じだった。

 ぎこちない空気を生み出している自覚はあった。

 優しい菜摘を苦しめている――

 だがその自責の念もまた悠を追いつめていた。


 

「ねぇ、今夜……どうかな?」 


 シャワーを浴びた後、寝室のベッドに腰かけて論文を読んでいる悠に、菜摘は少し恥じらいながら声をかけた。

 流れる空気が穏やかな今日、関係の改善を図りたかった。


「……今日はやめとこう。」 


 一瞬躊躇いながらも悠は首を振り、寝室を出ていく。

 菜摘の気持ちはわかる。

 だが……どうしてもそんな気分にはなれなかった。

 逃げるようにキッチンに入り、いつものようにウイスキーの瓶を取り出す。

 

「飲むの?だったら、わたしも一緒に飲もうかな。」


 無理した明るい口調が背中越しに聞こえてくる。


「……何飲む?」

「悠くんは?」

「……」


 悠は黙ってウイスキーを氷を入れたグラスに注ぐ。


「……何がいいかわからないから……自分でしてくれる?」


 グラスを手にソファに座る悠。

 明らかに濃いウイスキーがなみなみと注がれているグラスに、菜摘は思わず眉をひそめた。


「それ、入れ過ぎよ。身体に悪いわ。」

「……明日は非番。別にいいだろ。」


 悠は菜摘の注意から目をそらし、グラスに口をつける。


「非番とか関係なくて、本当によくないよ。お酒がないと眠れないなら、きちんと専門の病院で相談した方がいい。」

「……」


 ガチャン――

 

 グラスをサイドテーブルに置く音が、やたらと大きく響く。

 重たい沈黙が部屋を包んだ。


「……いつも菜摘は“優等生”だよな。」


 ポツリと漏らす悠。

 菜摘はその言葉に息を呑む。


「職場でも気を張っているのに……家でも“優等生”に監視されたら、全然安らげないんだよ。」


 冷たく静かな言葉だった。

 

「……何よ、それ……」


 菜摘は唇を震わせた。

 悠を想っているからこそ、懸命に寄り添ってきた。

 自分の苦しみは二の次にして……

 涙が浮かぶのを必死に堪えた。


「……今日は一緒にいたくない。どこかに泊まるから。」


 菜摘は背を向けてリビングを出ていった。

 部屋で支度をしたのか、玄関のドアが閉まる音が響くまでの数分――

 悠はソファに背を委ねながら、グラスの中の氷をぼんやりと見つめるだけだった。

 

 元々、菜摘の落ち着いた空気に惹かれて付き合い始めた。

 大声を上げるわけではないものの、楽しそうに微笑む笑顔が好きだった。

 だが、最近の彼女はそんな風には笑わない。

 作り笑顔を貼り付けた彼女は、“恋人”から“心療内科医”に変わってしまった。

 正しい彼女の言葉にどんどん追いつめられていく。

 それはもちろん、菜摘のせいではない。

 彼女を変えてしまった――

 いや、変わってしまったのは、悠自身だった。


 グラスの中の氷が、カラリと虚しい音を響かせた。


 


 翌朝、当然のことながら菜摘の姿はなかった。

 窓の外から彼女の駐車場を確認しても、白い車はない。

 悠は窓辺でブラックコーヒーを飲みながら、深いため息をつく。

 サイドテーブルには昨夜のグラスが残ったままだった。

 昨日の発言は、明らかに悠が悪い。

 それは間違いなかった。

 言葉にしたことで菜摘を傷つけてしまった。

 だが――悠の本音でもあった。

 何の通知も来ていないスマホを手に取る。


 昨日はごめん。

 どこにいる?迎えに行くよ。


 メッセージを打つものの、送信ボタンを押せなかった。

 菜摘に謝りたい気持ちはある。

 だが、謝った先にある自分の気持ちがわからなかった。




   *



 それから数日経った。

 急に寒い日が続き、脳外科はさらに忙しさを加速させていた。

 仕事に忙殺され、家にほとんど帰ることができない悠。あの日以降、菜摘と顔を合わせることもなかった。

 

 今日は帰れない。

 ――わかった、お疲れ様。

 

 今日は遅くなるから先に寝てて。

 ――了解。前に言ったとおり、わたし明日明後日大阪に出張だから。

 いってらっしゃい。気をつけて。


 そんな最小限のやりとりをする日々。

 先日の失言を謝ることすらできていなかった。

 

 日付を跨いでから、悠は真っ暗な家に帰った。

 既に寝室で眠っている菜摘を起こさないよう、ソファで毛布を被って眠る。

 

 だが、またあの手術の夢を見た。

 赤い血が溢れて止まらない光景に息を乱して飛び起きる。

 ひんやりとしたリビング。

 シャツを冷たい汗が濡らしていた。

 悠は暗闇の中、頭を抱えソファに蹲った。

 

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