第6話
悠は2日間後、いつもどおりに出勤した。
迷惑をかけたことを謝る悠に、宮下は落ち着いた口調で伝えた。
「何度も言うようだけど、高野さんが亡くなったのは悠先生のせいじゃない。助けられない命はたくさんある。僕たちはそれを前提に腕を磨くしかないんだから。初めての第一助手にしては、いい動きだったよ。」
宮下の褒め言葉に胸の奥が疼いた。
悠はその痛みを隠して、宮下の指導の元で懸命に働いた。
少しでも知識や技術を身に着けようと必死だった。
医学生時代から――いや、もっと昔から常に成績優秀で周囲の信頼や期待を受けてきた悠。
今まで大きな挫折を味わったこともない。
胸の奥の小さな傷にどう対処していいのかわからなかった。
*
悠は、それからも仕事をこなし続けていた。
上級医からの厳しい指導に応じ、第二・第三助手として入る手術も問題なく対応した。
だが、休憩時間にぼんやりと宙を見つめる時間が増えていた。
「悠先生、疲れてる?」
「いえ、大丈夫です。当直明けで少し眠いですけど。」
冗談めかして笑う悠のことを、周りのスタッフは言葉にしないものの少し気にかけていた。
宮下の先日の叱責を受け、悠は非番の日には素直に家に帰った。
だが、あの日以来、必ずと言っていいほど酒に頼って眠っていた。
何も考えたくなかった。
優作が亡くなった手術のことも。
これから外科医として向き合うべき命のことも。
そして、自分を心配して飲酒を諌めてくる菜摘のことも――
「飲むなら度数を落とした方がいいわ。」
「アルコールは睡眠の質を落とすよ。」
「手術で患者さんが亡くなったの、悠くんのせいじゃない。」
菜摘の正論が辛かった。
*
菜摘は病院の中庭のベンチに座りながら深いため息をついた。
さっき病棟ですれ違った悠。
指導医に指示を仰ぎながら、相変わらず熱心に仕事をこなしているようだった。
病院長でもある悠の父・勉は、少し力が入りすぎていると悠を心配していた。
彼の仕事に対する真面目さや熱心さは疑いようがない。
だが、私生活が荒んできているのを目の当たりにしているのもまた事実であった。
冷たい秋の風が中庭を吹き抜ける。
色づいた桜の葉が風に巻き上げられ、どんよりと重い空に彩りを加えた。
「菜摘ちゃん。」
貴志は菜摘の姿を見つけて歩み寄る。
「あ、お疲れ様。」
大学時代からの同期の登場に、菜摘はほっと笑みをもらした。
貴志は菜摘の隣に座り、コンビニ袋からパンを取り出す。
「最近どう?大丈夫?」
「うーん……仕事は頑張ってるよね。でも最近は非番のたびにお酒飲んで……ただでさえ忙しいのに、身体や心を悪くするんじゃないか心配してる。」
「あぁ、悠のことね。」
菜摘の言葉に、貴志は苦い表情を浮かべて頷いた。
「まぁ、宮下先生とか院長とか他の先生も……結構気にしてフォローしてくれているから大丈夫だと思うよ。今のところバーンアウトしそうな雰囲気はないし。」
「そっか……だったら良かった。」
「……俺が大丈夫か聞きたいのは、菜摘ちゃんのことなんだけど。疲れてない?」
菜摘は一瞬驚いたように貴志を振り返った。
誰もが悠を案じている。
その中で菜摘を心配してくれる言葉をかけたのは貴志が初めてだった。
「家で荒れてる悠を見るの辛くない?きちんと菜摘ちゃんは休めてる?」
「……」
思いがけない心配の言葉だった。
「うーん……少し辛い、かな。」
友人の優しさにポツリと本音が漏れ、菜摘は自分でも驚いた。
心療内科医として他人の心に向き合うことは慣れている。
だが、自分の心をさらけ出すのは得意ではなかった。
貴志は菜摘の話に耳を傾けてくれた。
悠の酒の飲み方が心配であること。
苦しそうな彼の表情を見ると、いけないのはわかっていても無理に酒を取り上げられないこと。
そして同じ家に住みながらも、互いに本音を言えないぎこちなさが続いて居心地が悪いこと。
貴志は黙って聞いていた。
「悠は、今もがいているんだ。元々、根が真面目だし責任感も強いだろ?……亡くなった患者さんとも親しくしていたから、その分堪えている。」
「……うん。」
「だからって、菜摘ちゃんにこんな顔をさせて良いはずないけどなぁ。」
笑って励ましてくれる貴志の優しさが、今は嬉しかった。
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