第5話

 優作が亡くなった金曜日の夜から日曜日にかけて、本来は非番。

 だが、悠は休まなかった。

 医局にこもり、1人で脳の模型を相手にシミュレーションを繰り返す。


「溝口先生、見てもらっていいですか?」

「鈴白先生、この場合の対応なんですが……」


 少しでも手が空いている上級医を見つけると、すかさず声をかけ積極的に指導を受けた。

 最初は若い研修医の熱意に感心していた上級医たちだが、あまりの熱心さにだんだんと口が重くなってきた。


「ちょっと仮眠してきたら?」

「その対応で全く問題ないよ……だから、少し休んで。」


 それでも、悠は手を止められなかった。

 少しでも気を緩めると、手術室の光景が目の前に蘇る。

 止まらない真っ赤な血を思い出しては手が震えた。


 脳外科医を目指してきた悠は、ずっと手術の現場は憧れだった。

 執刀医を手術室の片隅から食い入るように見つめて来た学生の頃から、常に夢見てきた場面だった。

 だが……優作の命は呆気なく消えてしまった。

 言い方は悪いが、名も知らぬ救急搬送されてきた患者だったなら、ここまで苦しくはなかったかもしれない。

 だが、愛娘と一緒に折り紙を折る彼のにこやかな笑顔――

 その幸せそうな表情が、頭から消えなかった。



 結局、僅かな休息だけで病院に残り続けた悠。

 月曜日の朝、通常勤務に入ろうと看護師と打ち合わせをしている悠の横に、宮下が立った。

 

「悠先生、シフト調整したから、今から2日間非番ね。家で休んできて。」

「……いえ、大丈夫です。」


 明らかに疲れが見える悠に、宮下は静かに首を振った。


「先日の高野さんの手術は、先生のミスじゃない。でも、そんな寝不足の状態で仕事をされたら、本当にミスを引き起こしかねない――チームで仕事をする以上、迷惑だよ。」


 厳しい宮下の言葉に静まり返るナースステーション。

 悠は何も返せなかった。


「……1度ゆっくり寝て、頭をすっきりさせてから出勤してください。」


 スタッフの目線が宮下と悠に集まる中、悠は無言でロッカールームに向かう。

 出勤前に、悠の着替えと差し入れの入った紙袋を届けに来ていた菜摘。

 彼女の目の前を、悠は唇を噛み締めたまま素通りしていった。


「あ、菜摘ちゃん……」


 力ない後ろ姿を目で追う菜摘に気づいた貴志。


「……悠くんの着替え持ってきたの。机に置いておいてくれる?」


 菜摘は小さく笑顔を作り、貴志に紙袋を委ねた。


「おにぎり入ってるから、良かったら貴志くん食べておいて。鮭と梅干し。」

「あ、うん。ありがとう。」

「じゃあ、わたしも仕事だから……」


 菜摘はそのまま心療内科の病棟に足を進める。

 すれ違った時の、悲しそうな悔しそうな――見たことのない悠の表情が目に焼きついていた。


 


   *



 帰宅した悠。

 菜摘が仕事に行っているため、家の中は静けさに包まれていた。

 熱いシャワーを浴び、とりあえずベッドに入ってみるものの眠れなかった。

 数日間まともに眠っていないにもかかわらず、辛いほど頭が冴え渡っていた。

 遮光カーテンを引いているはずなのに、目を閉じると眩い光に照らされる赤い血が蘇る。


「……」

 

 悠は起き上がると、キッチンに置いてあったウイスキーを手近にあったマグカップに注ぎ、そのまま口に流し込んだ。

 喉が焼けるような熱さが心地よかった。

 仕事柄、普段はほとんど飲まないものの、未だかつて酔いつぶれた経験がないほど酒に強い悠。

 ウイスキーを無心で煽り、再びベッドに倒れ込む。

 世界が優しく揺れていた。

 悠は思考を手放し、深い眠りに落ちていった。



 やがて玄関からの物音に悠は目覚めた。いつの間にか、外は暗くなっている。

 重い頭を持ち上げて、悠は寝室から出た。


「……おかえり。」


 玄関には買い物袋を下げた菜摘が立っていた。


「ただいま。スーパーに寄ったら、秋刀魚が売ってて美味しそうだったから買っちゃった。もう秋なんだね。」


 普段通りに笑ってみせる菜摘。

 だが、それは玄関のドアを開ける前に考えていた台詞だった。

 朝見た悠の思い詰めた表情。

 少しでも彼を元気づけたかった。


「秋刀魚か……いいね。」


 悠もまた小さく口元を緩めようとする。固い微笑みであるのは、自分でもわかった。


「急に非番になったんだけど……今朝、荷物届けてくれたんだね。貴志から連絡来てた、ありがとう。」

「おにぎりも入れてたんだけど……貴志くんにあげちゃった。美味しかったって律儀にお礼ラインまでくれたのよ。」


 いつものような他愛ない会話がどことなくぎこちなく感じた。

 キッチンに買い物袋を置いた菜摘は、出されたままのウイスキーの瓶に目を留める。


「……珍しいね、昼から飲んだんだ。」

「うん、まぁ……」


 悠は曖昧に頷き、買い物袋の中身を冷蔵庫に片づけていった。

 菜摘と目を合わすことができなかった。

 心配そうな表情を浮かべる彼女には、飲みたくなった理由を話せなかった。

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