第4話

 一方――

 

 菜摘と約束をしていた金曜日の夕方、悠は脳外科医局で指導医の宮下から指導を受けていた。

 

「この部分のカルテ間違えているから修正して。あと、谷口さんの術後経過の記録、今日の分の反映をお願いします。それから……」


 次々と指示される内容を必死にメモし、1つずつ対応していく。

 医師2年目の夏の終わり。

 慣れてきたことも多いとはいえ、日々新たな壁に遭遇し、自分の経験の少なさや未熟さを痛感していた。


「悠先生、救命のコンサル要請入った。一緒に来てくれる?」

「はい。」


 カルテ修正に頭を捻っていると、電話を置いた宮下に呼ばれ、急いで立ち上がる。

 ちらりと壁にかかる時計を見ると、いつの間にか19時半――菜摘との約束の時間は既に過ぎていた。


「30代男性、交通外傷で頭部受傷。搬入時から意識レベル低下。どういう可能性を考える?」


 廊下を速足で歩きながら、宮下が問いかけてくる。


「急性硬膜外血腫、急性硬膜下血腫……あと脳挫傷。」

「ほかには?」

「……血腫がなくても、外傷性くも膜下出血による意識障害、それから……」


 頭の中をフル回転しながら答える悠に、宮下は満足そうに頷いた。


「うん、正解。じゃあ一度、悠先生が初期対応してみてください。必要ならすぐフォローするから。」

「わかりました。」


 悠は気を引き締めて頷き、救命科の処置室に足を踏み入れた。




    *


 


 救命での対応が終わり、ようやく一区切りついた頃には、病棟は既に夜の空気に包まれていた。

 医局には悠と宮下の2人だけ。

 手術室では、緊急搬送されてきた高齢男性の脳梗塞の手術が行われているという。


「悠先生、今日は非番でしょ?もう帰っていいよ。カルテは明日で大丈夫だから。」


 宮下にそう言われ、悠は白衣のポケットにメモ帳をしまいながら深く息をついた。

 もう21時前。

 仕事とはいえ、夕食の約束をすっぽかしてしまったことに、菜摘はともかく、母からのお小言が予想された。


「ありがとうございます。じゃあ……」


 悠が言いかけたところで、医局の扉が勢いよく開き、看護師が顔を出す。


「宮下先生!高野優作さん、急変です!」

「え、高野さん?どういう状態?」


 緊迫した声で伝える看護師に、宮下はすぐに立ち上がり病室に足を向ける。

 悠も迷わず宮下の後ろに続いた。


「意識レベルが急に低下、呼びかけにも反応が薄くて、血圧も下がっています。」

「そうか……夕方は異常なかったのに。」

 

 高野優作――脳腫瘍で入院中の30代の男性。

 今日の午後、病室を訪れたときには会話もしっかりできていた患者の急変情報に、悠も驚いていた。

 今日も彼の娘・沙理から折り紙の作品をもらった。

 愛娘と折り紙を楽しんでいた優作の楽しげな笑顔が頭をよぎった。


  

 ベッド上の優作はぐったりし、呼びかけにもほとんど反応がなかった。


「瞳孔、左右差あり……これはまずいな。すぐ手術室の確保、家族にも連絡して。」


 立ち尽くす悠の目の前で、宮下は即座に判断して看護師に指示を与える。


「CTは?」

「まだです。今準備を……」

「いや、間に合わない。脳圧が一気に上がってる。すぐ手術だ、これ命にかかわるぞ。」


 看護師が息を呑む。


「でも今日オンコールの溝口先生は……」

「今脳梗塞の手術だよね。田辺先生は学会でいないし……鈴白先生はどこ?」

「連絡しましたが、ICUの方で手が離せないとのことです。」

「じゃあ、院長は?誰でもいいから早くきてもらって。」

「電話してみます!」


 さっき帰宅しようとしていたのが嘘のように、慌ただしい空気が流れていた。


「悠先生。」

  

 急に名を呼ばれ、悠の意識は現実に引き戻された。


「時間がない。他の先生捕まるまで、第一助手入って。」

「え……」


 突然のことに、悠は一瞬答えることができなかった。

 第二助手、第三助手に入った経験はあった。

 だが、第一助手は初めて。しかも、スタッフの数が限られる夜間の緊急手術――


「早く支度しないと間に合わないよ。」


 厳しい指導医である宮下。

 常に悠を見て、悠を信頼しているからこそ、第一助手を任せることを決めた。


「はい……!」


 悠は唾を飲み込み、頷く。

 握る拳に力が入る。

 鼓動の音が速く大きく聞こえた。

 だが、優作の笑顔を思い、宮下とともに手術室に急いだ。



   *



 手術室の空気は張り詰めていた。


「麻酔、準備OK。いつでも始められます」


 麻酔科医の声に宮下が頷く。


「じゃあ、始める。悠先生、指示出すから頼みます。」


 眩しいほどのライトが照らされた。

 宮下は無駄のない動きで指示を出しながら、次々と手を進めていった。


「ここ、固定頼む。」

「はい。」

「切開いくよ。」

「はい。」


 悠は呼吸を整え、宮下の手の動きをひたすら追った。

 汗が額に滲む中、懸命に手を動かす。

 しかし、手術が進み、腫瘍周辺に近づいたときだった。


「……出血してきたな。吸引、お願い。」

「はい!」


 急に噴き出すような赤い色。

 悠は吸引を差し込み、指示通りに血を引こうとする。


「違う、そこじゃない、もう少し右……いや、そこは浅い!」


 宮下の声が鋭くなる。

 悠が焦るほど、吸引の先が思うように操れない。

 どんどんと血が広がり視界が遮られていく。


「ダメ、全然術野が見えない。吸って、もっと深く!」

「すみません……!」


 だが、経験の浅さが容赦なく露呈した。

 宮下の求める微妙な角度のズレを悠の手では再現できなかった。

 そのときだった。


「代わって!」


 手術室のドアが開き、院長――悠の父である勉が駆け込んできた。


「宮下先生、術野確保のための吸引ですね?」


 短く確認すると、悠の手から吸引を奪うように受け取り、迷いのない動きで術野に差し込む。

 すると瞬時に視界が開けていく。


「助かります、見えてきました!」


 勉の手際は圧倒的だった。

 手首のわずかな角度だけで、血液の流れが変わっていくのがわかる。


 悠は数歩、後ろへ下がった。

 手袋をはめた指が震えていた。

 目の前で宮下と勉が、懸命に止血と処置を続けた。

 しかし――優作の容体悪化はあまりに急激だった。

 モニターが、不穏なリズムを刻む。


「輸液と薬、追加!」


 宮下の指示。

 しかし、モニターの反応は乏しく、再びアラーム音が手術室に響く。

 結局、モニターの線は戻らず、手術室から音が消えた。


「……時刻、記録して。」


 宮下の声は低かった。

 勉も深く息を吐き、手袋を取った。


「残念だったね……ご家族への説明は、宮下先生、お願いできるかな?」

「はい。院長、来ていただいてありがとうございました。」

「いいんだよ、お疲れ様。……悠先生も。」


 気落ちした声ではあるものの、淡々と言葉を交わす勉と宮下。

 悠だけが視界が揺れるのを必死にこらえていた。

 さっきまで笑っていた優作。

 手術台の上で動かなくなっているのが信じられなかった。


「……宮下先生、吸引が上手くできずすみませんでした……」


 悠は震える声で言いながら頭を下げる。


「いや、初めてにしては上出来だったよ。結果は残念だったけど……あそこまで急激な悪化だと、手が出せないから。」

「でも、もしかしたら夕方の回診時に……」

「異変あった?」

「いえ……私には見つけられませんでした。」

「そうでしょ。」


 自分のせいで優作が亡くなったのではないか――

 悠の顔に浮かぶ自責の念に、宮下は首を振った。


「悠先生、今回のは予期しない急変だった。少なくとも夕方の回診では異変がなかったし、術中の吸引が数秒遅れただけで結果が変わるものではないよ。」


 初めて第一助手に立った若い研修医に励ましの言葉を与え、宮下は手術室を出ていった。

 家族に説明をする必要があった。

 悠は黙って宮下の後ろに続いた。


  

 応接室に入ると、優作の妻・香恵はすでに到着していた。

 青ざめた顔で立ち尽くし、隣に立つパジャマ姿の沙理の手を固く握りしめていた。


「……高野さんの容体ですが……最善を尽くしましたが、救うことができませんでした」


 宮下の静かな声が響く。

 妻は肩を震わせながらも、気丈に説明を聞いていた。 


「悠お兄ちゃん、パパ、死んじゃったの……?」


 悠に懐いていた沙理の問いかけ。

 何か声をかけようとするが、言葉が出てこなかった。


「やだよぉ、パパー!」


 その泣き声が、悠の胸を鋭く貫いた。

 涙を堪えるように、悠は唇を噛んだ。


 肩を落として医局に戻る途中、目をやった優作の病室。

 沙理が折った色とりどりの鶴が、枕元に飾られたままになっていた。


 

 菜摘からのメッセージを開いたのは、翌日の昼を過ぎてからだった。


 昨日はごめん。

 今日も帰らないと思う。


 力を振り絞り、短いメッセージだけ何とか送った。


 事情を知らない菜摘は、そのメッセージに小さくため息をついたが、その後、理菜に昨夜の礼を言うために電話を入れたときに状況の概要を聞かされた。


「お父さんが言ってたんだけど……悠が助手に入った手術で患者さんが亡くなったらしいのよ。結構ショックを受けているようだから、支えてあげてくれるかしら?」


 菜摘はその電話を切った後、目を伏せた。

 早く助手に入りたい――

 そう熱く語っていた悠の笑顔を思い出していた。

 

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