婚約を経て

第3話

 月日が流れた。


 都内一等地に建つ落ち着いた低層マンション。

 勤務する病院からも車で5分程度と近く、商業施設や教育施設も含め、周辺の住環境も申し分ない。

 ここなら将来的に子供を持ったとしても、過ごしやすいだろう――

 悠と菜摘はそう話し合い、そのマンションの1室を購入した。

 医学部在学中から3年間交際し、卒業と同時に婚約した2人。

 医師2年目の秋。

 悠の父が院長を務める大石総合病院で、悠は脳外科、菜摘は心療内科――それぞれに勤務していた。


 

 ある夜、悠は仕事を終えて帰宅した。

 駐車場から部屋を見上げると、リビングの電気がついている。

 菜摘はまだ起きているようだった。


「ただいま。」

「おかえり。」


 玄関に入ると、既にパジャマ姿の菜摘が出迎えた。

 同じ家に住みながら顔を合わせて話すのは数日ぶりだった。


「今日は早かったんだ。」

「早い、かな?」


 リビングの時計は既に23時を過ぎている。

 思わず2人で苦笑する。

 当直を除いても、夜遅くまで勤務することが多い悠。

 日付を跨ぐ前に帰宅することは少なかった。

 

「わたしも今日早く上がれたから、野菜スープ作ったんだけど……食べる?」

「いいの?ありがとう。腹減っててさ。」

「うん。待ってて、準備するから。」


 キッチンに入っていく菜摘に感謝しながら、悠は自分の部屋に着替えに行った。

 クローゼットの上には、菜摘と撮った写真が何枚か飾られている。

 付き合い始め、大学時代にデートした時の照れた笑顔の写真。

 プロポーズが成功した日、贈った指輪と共に映った写真。

 両家顔合わせのとき、双方の親を混じえた緊張した表情の写真。

 着替えながらそれらの写真を眺めると、懐かしい思い出が蘇り、いつも胸の中に温かいものが広がった。

 

 悠が部屋着に着替えてリビングに戻ると、テーブルには既に湯気をたてたスープが置かれていた。

 悠は手に持っていた折り紙の作品をテーブルに置いてスプーンを手に取る。


「いい匂い、いただきます。」


 野菜たっぷりの優しい味。

 一口食べるごとに疲れが溶けていくようだった。


「美味い。」

「よかった。」

 

 菜摘は悠の向かいの椅子に座り、テーブルの折り紙を手に取った。


「これ、どうしたの?」

「あぁ。患者さんの子供――お見舞いに来た小学生の女の子がいてさ、色々作って俺にもプレゼントしてくれたんだ。」

「へぇー、お花に、クマかな?それに指輪。上手ね。」


 元々子供好きな悠。

 病棟管理の合間、患者の子供の遊び相手を務めることもよくあった。


「悠くん忙しいんでしょ?ちゃんと寝てるの?」

「まぁ、ぼちぼち。菜摘も来週の勉強会の準備で忙しいんでしょ。火曜と水曜に大阪だっけ。」

「うん。」


 食事を取りながらの他愛ない会話。

 短いやり取りだが、落ち着いた照明の光に包まれる穏やかな時間だった。


「そうだ、悠くん明後日の金曜日、夜非番でしょう?」


 菜摘は用事を思い出して尋ねる。

 

「うん。菜摘も休みだし、久々にどこか行こうと思ってたんだけど。」

「さっきお義母さんと、大石家で一緒に夕食とろうっていう話になったの。」

「そうなの?じゃあ、そうしようか。」


 未来の姑。

 菜摘は悠の母・理菜との交流もそつなくこなしていた。

 悠よりも頻繁に理菜と連絡を取り合い、仲良く2人で買い物にも行っているらしい。


「じゃあ金曜日19時に大石家に。遅れるなら連絡してね。」

「わかった。」


 悠はスープを食べ終え、両手を合わせる。


「ご馳走様。菜摘、いつもありがとう。」


 温かいスープで満たされた心と身体。

 菜摘は微笑み、先に眠るからと寝室に入っていった。




   *




 金曜日18時。

 菜摘は少し早くに悠の実家に到着した。


「いらっしゃいー」


 理菜は笑顔で彼女を出迎える。


「お邪魔します。これ、お願いされた卵とネギです。」


 菜摘は靴を脱ぎ揃えると、買い物してきた袋を示した。

 

「ありがとう。ごめんね、すき焼きなのに買い忘れちゃって。」

「ふふ、ついでに美味しそうなケーキも買ってきました。悠くん、また遅くなるかもしれませんし、先にケーキ食べませんか?」

「あら、いいわね!お父さんもまだ帰ってこないし。いただきましょ。」


 将来の義理の母。

 きちんとした礼儀はわきまえつつ、固すぎない態度。

 理菜にとって、菜摘は理想的な息子の婚約者だった。


 女2人、ケーキを食べながら楽しく話した。

 だが、約束の19時を過ぎても、悠も勉も姿を見せない。


「……お父さん、仕事で病院に戻るんだって。」


 学会から直帰するはずだった勉からの連絡に、理菜は肩を落とす。


「悠からの連絡はない?」


 理菜の言葉に菜摘はスマホを開く。

 だが、悠からの連絡は届いていなかった。


「きっと忙しくしているんでしょうね。」 

「もう2人で始めましょうか。せっかく美味しいお肉いただいたのに、うちの男達は本当に……」


 理菜はため息混じりに呟いた。


「ねぇ、菜摘ちゃん。脳外科医の妻ってずっとこの調子よ?本当に、悠とこのまま結婚して大丈夫?」


 菜摘は経験者の言葉に小さく笑って答える。 

 

「ふふ、覚悟はできています。」

「ごめんなさいね。」


 話しながらすき焼きを食べる。

 少しの寂しさはあるものの、いつものこと――

 そう受け止めながら、菜摘は上質な肉を味わった。


 結局、悠も勉も帰ってこないままその晩はお開きとなった。


 お疲れ様。今日も遅くなる?

 先に家に帰るからね。


 菜摘が送ったメッセージ。

 

 だが、翌朝、菜摘が目覚めたときも既読すらついていなかった。

 いつもはどれだけ忙しくても既読だけはつけてくれる悠。

 何かあったのだろうか。

 空のままのベッドの隣を見つめて、菜摘の胸に嫌な予感がかすめた。


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