第2話
季節は流れた。
キャンパスを彩る木々も秋が深まるにつれて、赤や黄色に葉を染めていた。
夕方、日が落ちるのも早くなった薄寒い空からは、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。
「あ、傘忘れた。」
悠は、菜摘と最寄り駅まで肩を並べて歩きながら、空を見上げて呟いた。
「わたし折りたたみ持ってるよ。夜にかけて結構降るらしいから……使う?」
菜摘はトートバッグからベージュの折りたたみ傘を取り出した。
「いいの?笹川さんは……」
「わたしはこれがあるから。……少し小さいかもしれないけど、花柄よりいいでしょう?」
菜摘の腕に下げられた長傘は、ラベンダー色の薔薇の花が並んでいるものだった。
「ありがとう、助かる。」
悠は、差し出された折りたたみ傘を受け取り、お礼の言葉とともに傘を開いた。
傘に当たる雨が静かに音を立てる。
「……『なつみ』。」
「え?」
不意に悠が口を開く。
突然名前を呼ばれたことに、驚いて振り返る菜摘。
「ほら、傘にさ。」
悠は借りた傘の持ち手を指した。
そこにはマジックペンで名前が書かれている。
菜摘はそれに気づくと、思わず頬を押さえた。
「わぁ、恥ずかしい……!この傘、小学校の頃から使ってるのよ。壊れなくて、丈夫で。」
「はは、そうだったんだ。『な・つ・み』、いいね。」
「やだ、もうやめてよー!」
声をあげて笑い合う2人。
並んで歩く傘が、楽しげに揺れていた。
「“菜摘”……これから名前で呼んでいい?」
やがて、赤信号で足が止まったとき、悠が尋ねた。
「……うん、いいよ。じゃあ、わたしも。“悠くん”って呼ぼうかな。」
菜摘はそう微笑んだ。
彼女の微笑みに頬が熱くなるのをごまかすように、悠は小さく咳払いをする。
傘に落ちてくる雨粒が、静かな音を立てていた。
*
帰宅した後、自室で濡れた傘を乾かしながら悠は菜摘のことを思い出していた。
いつも落ち着いた雰囲気の彼女が、頬に手を当てて恥じらっている様子を思い返し、思わず小さく口元が緩んだ。
悠は、ズボンのポケットのスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げた。
今日はありがとう。助かった。
明日、昼ごはん一緒に食べない?
傘のお礼に奢るよ。
一瞬躊躇った後、メッセージを送った。
お礼は口実で、本当は菜摘ともっと一緒に話したいだけだった。
授業の合間、成り行きで2人で昼食を食べるのは珍しいことではない。
だが、改めて約束をすることは初めてだった。
「悠、晩ごはん食べるでしょう?早く降りてらっしゃいー」
「わかった。」
階下からの母の声に、悠はスマホを机に置いて部屋を出た。
父・勉は、今日も帰りが遅いらしい。
母・理菜と高校生の弟・真の3人で他愛ない話をしながら食卓を囲む。
だが、心の中では送ったメッセージが気になっていた。
菜摘が自分をただの同期としか見ていなかったら……
改めて昼食に誘うなんて、変に思われたんじゃないか……
そんな気持ちが胸に宿り、落ち着かなかった。
食事を終えると、悠はテレビを見る弟を横目に、私室に戻った。
菜摘のメッセージが気になるだけでなく、膨大な課題に取り組む必要があった。
部屋の机に置いていたスマホの画面は、メッセージの着信を知らせていた。
ありがとう。
楽しみにしてるね!
届いていた菜摘からのメッセージに、ほっと胸を撫で下ろす。
夕食を食べたばかりで満腹であるにもかかわらず、明日の昼休憩が待ち遠しかった。
だが、何故か同時に貴志の顔が脳裏によぎり、少し胸が苦しかった。
*
翌日、2時間目の講義を終えた悠は、3列後ろの窓際の席に座っていた菜摘を振り返る。
菜摘は悠と目を合わせると、小さく口元に微笑みを浮かべた。
「悠、昼飯、食堂行こうぜー。カレー食べたい。」
その目配せに気づかず、隣の席の貴志はいつものように悠を誘った。
「あ、ごめん。今日は約束が……」
とっさに口ごもる。
悪いことをしているわけではない。
だが、いつも菜摘ちゃん、菜摘ちゃん、と目を輝かせて彼女の話をする貴志には、何となく言い出しづらかった。
「悠くん、行こう。」
悠の躊躇いを他所に、菜摘が鞄を手に、席の横に来た。
“悠くん――”
いつの間に名前で呼ばれる関係になったんだ?
貴志は一瞬困惑の表情を浮かべるが、すぐに笑顔を作った。
「なんだ、“デート”かよ?」
冷やかし口調でありながらも、その心の中では否定を期待していた。
実習のグループ課題がある、とでも答えてほしい、と――
「うん、まぁ、そんなとこ。」
だが、悠は気まずさと照れくささから曖昧な笑みを浮かべ、菜摘と並んで教室を出ていってしまった。
置いていかれた貴志はその後ろ姿を目で追うしかなかった。
並んで歩くだけでも、誰もが似合いのカップルだと思うだろう。
おまけに、常に学年トップクラスの成績を保つだけでなく、有名な医師を父に持つ――
悠がライバルだと、とても太刀打ちできなかった。
「……ドンマイ、貴志。カレー食べに行こうぜ。」
近くにいた級友が彼の肩を叩いた。
*
キャンパスの端にあるお洒落なカフェテリア。
普段は講義棟の近くの食堂を使うが、今日はゆっくり話せそうなこちらを選択した。
「“デート”なんだ?」
学生食堂とは一線を画した彩りのいいランチプレートを前に、菜摘はいたずらっぽく笑った。
「あ、ごめん。俺はそのつもりだったんだけど。迷惑だった?」
「ううん、全然。」
その返事に悠も口元を緩めた。
いつもは真面目な顔で勉強の話をすることが多い。
だが、柔らかな日差しが射し込むランチタイムは、優しい時間が流れていた。
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