​指先に祈りを込めて―ラベンダー色の恋の思い出―(前日譚)

山吹いずみ

大学時代

第1話

 都内有名大学の医学部――


 白とグレーの外壁の校舎が、手入れの行き届いた中庭の緑の芝生を見下ろす、都会的なキャンパス。


 5月中旬――2年生の大石はるかは、季節外れのインフルエンザにかかり、1週間ぶりに講義に出席していた。

 すごい速さで進む医学部の授業。1週間のブランクは大きかった。


 講義後に深い溜息を漏らす悠に、ノートを差し出すのは、1年生からの友人・阿部貴志。

 

「俺のノート見ていいよ。」

「ありがとう。でも……」


 悠は貴志のノートをパラパラとめくり、小さく笑って首を振った。


「残念だけど、読めないからいい。」


 いつも貴志の乱筆を読もうとしても解読に時間がかかる。

 友人の親切心はありがたいが、今はそれに割く時間が惜しかった。


「もしよかったら、わたしのノート使う?」


 背後から声をかけたのは、笹川菜摘。 

 2年生から同じクラスになった彼女とは、あまり接点がなく、会話を交わしたこともほとんどなかった。


「いいの?」


 悠は菜摘からノートを受け取ると、その中を確認する。

 貴志のノートとは雲泥の差――悠自身のとるノートよりもわかりやすく、講義内容の要点が的確にまとめられていた。


「ありがとう、助かる。」

「こういうのはお互い様。もう体調は大丈夫なの?」


 菜摘は首を傾げる。

 彼女が着ている上品なラベンダー色のブラウス。

 その胸元のリボンがひらりと揺れた。

 

「あ、うん。すっかり良くなった。」

「あんまり無理しないでね。わたし、この科目結構得意だから、わからないことがあったら聞いて。」

 

 菜摘はそうさらりと微笑み、教科書をまとめると教室を出ていった。


「うーわ、菜摘ちゃん、マジで天使!」


 貴志はその去り姿に小さく声をあげる。

 悠は、彼の口から事あるごとに菜摘の名前が上がっていたことを思い出した。

 可愛い!

 優しい!

 俺の心のマドンナ!

 去年から彼女を褒め称えていた貴志の言葉は、強ち大げさではなかった。


「いい子じゃん。」


 彼女の微笑みを思い出しながら、悠はノートを鞄にしまった。




   *




 翌朝、講義前に自習をしていた悠は、朝食をとるために訪れた学内の食堂で菜摘の姿を見つけた。


「笹川さん。」


 コンビニで買ったらしいコーヒーを片手に、解剖学の教科書を読んでいた菜摘は、悠の呼びかけに顔を上げた。


「あ、おはよう。」

「おはよう。昨日はノートありがとう。すごくわかりやすくて、助かった。」


 悠は、鞄から出したノートをお礼と共に差し出す。


「よかった。あの先生、授業早いから……昨日の授業、大変だったんじゃない?」


 菜摘は受け取ったノートをひらつかせる。


「正直さっぱり……実は、昨日の授業の分も、笹川さんのノートで復習させてもらったんだ。」


 悠の告白に菜摘は少し照れたように微笑んだ。

 

「昨日の分はまだ整理できてないから、分かりにくかったかも。」

「いや、全然そんなことなかったよ。」


 悠は素直な気持ちで否定する。

 それと同時に驚いていた。


「いつも授業のノートを整理し直しているの?時間かかるでしょ?」

「まぁ、そうだけど……いつか医師として勤務しても、医学部時代の基礎知識は糧になるって……父がいつも言ってるから。」


 菜摘はそう言うと手に持っていたコーヒーを口に運んだ。


「笹川さんのお父さんって、東京医大の内科の有名な先生なんだってね。」

「え、知ってたんだ?」


 昨日貴志から聞いた情報。

 菜摘は、驚いたように目を丸くした。


「あ、いや、昨日……貴志が。」

「あぁ。」


 納得がいったように菜摘は頷く。


「いつも仲良いもんね、阿部くんと大石くん。」

「うん。1年の時から、何かと縁があって。」


 その後も他愛ない会話が弾んだ。

 会話の切れ目でふと時計に目をやると、菜摘は小さく声をあげた。


「ごめん、わたし、この後当番なの。先に行かなきゃ。」

「そっか。」

「じゃあ、また後で……大石総合病院の大石くん。」


 そういたずらっぽく笑い、菜摘は去っていった。

 悠はわずかに息をのみ、その後ろ姿を目で追った。

 

 いつもは少し重荷に感じる、代々続く大病院の院長の息子という肩書き。

 だが、菜摘の纏う落ち着いた空気は、その肩書きすらも柔らかく包んでくれるようだった。

 彼女が自分のことを知っていた。

 悠の胸の中に小さな温もりがそっと宿った。




   *



 悠と菜摘の距離が縮まったのは、解剖実習のグループが一緒になったことが大きかった。

 医学部に入学しても、本能的に苦手とする学生もいる解剖。

 だが、外科系の進路を希望している悠にとっては、他の講義とは異なる緊張を感じるものの、興味深いものであった。

 いつもその隣で真剣な眼差しを放つのは菜摘だった。


「笹川さんって、どんな分野に興味があるの?外科?それともやっぱりお父さんと同じく内科?」


 悠は講義の後、食堂で昼食を取りながら菜摘に尋ねる。


「うーん。わたしは、どっちかというとメンタルが気になるのよね。」


 菜摘の返事は意外なものであった。


「身体と精神……今の医学じゃ身体中心だけど、精神的な治療を必要としている人も多いでしょ?だから、精神科か心療内科に進めたらなって。」


 いつものような穏やかな彼女の口調だが、悠は圧倒されていた。

 悠は、脳外科医である父の背中を見て育ちながら、疑うことなく同じく医師という道を志した。

 モデルである父が外科医である以上、同様に外科を目指すことを、当然のように受け入れていた。

 だが、目の前に座る菜摘は、父と同じ職業を選びながらも、自分の意志で歩んでいる。

 彼女の凛とした微笑みが眩しく見えた。

 

「大石くんはどうしたいの?」

「俺は……脳外科かな。安直だけど、父の背中をみてきたから。」 

「そうなんだ。お父さんの壁を越えるのは大変そう。でも……大石くんなら大丈夫だろうね。」


 菜摘からのまっすぐな応援の言葉。

 どんなときも寄り添ってくれる菜摘の存在。

 彼女と話すと、いつも不思議なほど心が安らいだ。

 胸の中に小さな熱がともるのを感じる。

 悠の中で彼女の存在が大きくなってきていた。




 *



 

 ある日、補講を終えて帰宅の準備をしながら、隣の席の貴志と雑談を交わす。

 もうすぐ始まる短い夏休み――

 大学の近くに下宿している貴志は、実家のある北海道に帰るという。


「地元で高校のときの友達と集まるんだけど、皆バイトに恋愛、青春を謳歌していてさ。」

「医学部以外そんなもんだろ。でも、恋愛はともかく、貴志はバイトしてなかったっけ?」


 大学近くの24時間営業のファストフード店。

 つい最近まで、授業終わりの遅い時間からバイトに繰り出す貴志を尊敬しながら見送っていた。

 アルバイト仲間の女の子が可愛いとか、近くの高校に通う女子高生の制服に癒されるとか、そんな話ばかりしつつ、学業の合間の気分転換としてアルバイトを楽しんでいたようだった。


「あぁ、ダメダメ。バイトやめて学業に専念しろって親父がうるさくて。試験結構落としたからな。」


 貴志は残念そうに首を振った。

 札幌で開業医をしているという貴志の父。


「まぁ、社会勉強とはいえ、留年したら洒落にならないし……仕送り増やすことを条件に、バイトは先月やめたよ。」


 軽い口を叩きながら、貴志も父には逆らえないようだった。


「そうだったんだ。」

「あーあ、実家に帰ったらまた成績のことを言われるんだろうな。チクチクと煩くて、結局実家でも机に向かうんだよ……」


 そうぼやく貴志。

 

「俺はそれが毎日。実家暮らしは楽だけど、圧がしんどい。」


 悠も思わず溜息をもらす。

 悠の成績は悪くなく、両親もうるさく言うタイプではない。

 だが、単位を落とさないことが当然。

 留年なんてもってのほか。

 優しさの裏にある無言の信頼が重く感じることもあった。


 そのとき、悠の視界に入った菜摘の後ろ姿。

 暑い中、長い髪をポニーテールにまとめながら教室を出ていこうとしていた。


「あ、貴志、ちょっとごめん。」


 悠は貴志との話を中断して立ち上がり、揺れるポニーテールを呼び止める。

 

「笹川さん。明日の実習のことなんだけど、……」


 顔を寄せて話す2人に、席に座ったままの貴志は複雑な表情を浮かべていた。


「じゃあ、お疲れ様。」

「お疲れ、バイバイ。」


 菜摘を見送り、貴志の隣に戻ってきた悠。


「悠さ……菜摘ちゃんと最近よくつるんでるよな。」 


 悠は、貴志の声のトーンが先ほどまでと比べて僅かに低いことに気づいた。


「あぁ……まぁ実習グループが一緒だし。」

「……そうか。」


 貴志は一瞬何かを言おうとしたが、途中で口を閉ざした。

 親友との間に、微妙な空気が漂っていることを察しながら、悠はそれをあえて追及しなかった。

 言語化すると戻れなくなる。

 そう思うと、追及したくなかった。


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