名前をください

天野綾

雪の日の出会い

 ――名前が欲しい。

 わたしの願いはそれだけだった。いや、欲を言うのなら愛されたいし、家族が欲しい。でも、それは高望みだってわかっている。だからせめて――名前をください。


 体の芯まで冷える冬の夜。わたしは、段ボールの中に敷き詰めた布団に包まり、体を丸めて朝を待っていた。雪が、布団に入りきらなかった肌を冷やしていく。

 とても眠いのに、眠ったらもう目覚めることはできない気がする。

 ――誰か助けて。さっきは、名前以外はいらないなんて強がったけど、本当は寒くてたまらない。ただの強がりだって認めるから、誰か――!


 願いが届いたのか、誰かの足音が聞こえた。

 今しかないと思って、必死に声を出した。

 ――お願い、助けて。


「え、これ……どうしよう、すごく冷たい。……そうだ、私のコートを着せれば!」


 これまで触れたことのない、手触りの良い布に包まれた。……暖かい。わたしを、助けてくれたんだ。

 わたしは、必死にお礼を述べたけど、『その人』は困ったように笑うだけだった。安心したら、眠くなってきた。さっきまでの不安が解けるように消え、わたしはすっかり気が抜けて、その中で眠ってしまった。


 *

 

 目が覚めたとき、ほかほかしていた。

「あ、目が覚めたんだね。ご飯食べようね。これからは、私がそばにいるからね」

 屈託のない笑顔で近づく人がいた。驚いて、わたしはのけぞってしまう。その人は悲しそうに笑った。

 その笑顔を見て気がついた。この人は、わたしを助けてくれた人だ。髪を下ろして、格好も変わっているから気が付かなかった。


「急に固形の物を食べるのは良くないみたい。こんなのしかあげられなくてごめんね」

 

 差し出されたのは、並々と注がれた白い液体だった。見るからに怪しく、しばらくは黙って見つめた。でも結局は空腹に負けて、恐る恐る、わたしは飲みこんだ。

 あまりの甘さに驚愕して、わたしは夢中になって口をつけた。わたしが飲みやすいよう、温度を調整されていることに気がついた。

 その人が謝る理由がわからない。わたしにとってこれは、初めて食べるご馳走だった。気づけば、お皿は空になっていた。わたしはその人に、もっと欲しい、と目で訴えるが、

「今日はもうダメ。明日、病院に行こうね。許可が出れば、もっと美味しいものをあげるから」

 わたしは不満げに口を尖らせた。我ながら図々しいなって思うけど、その人の優しさについ甘えてしまう。


 *


 ――信用して後悔した。

 次の日、その人は約束通り白い液体――その人が言うのには「ミルク」というらしい――を出してくれて、わたしはとても喜んだ。

 そのあと、抱き抱えられたと思ったら、急にあたたかい水をかけられた。冷たくはなかったけどとても驚いて、わたしは悲鳴をあげた。それなのに、その人は「ごめんね」と言いながらも手を止めなかった。

 酷い、悪魔。何度も怒ったけど、結局びしょ濡れにされた。怒っていたら、今度は風を当てられる。また文句を言ったけど、その人は困ったように笑うだけ。


 体が乾いたと思ったら、今度は箱に閉じ込められた。その感覚には、覚えがある。

 わたしが、初めて外に出た時だ。わたしの前の家族は、わたしを急に外に出し、そのまま帰ってこなかった。

 そのことを思い出して、わたしは震えが止まらず、涙が溢れてきた。

 わたしはまた、捨てられるの? 怒ったり、文句を言ったから? ――嫌だ。ごめんなさい、謝るから、もう捨てないで……

 わたしはずっと箱の中で震えていた。

「大丈夫だよ。出ておいで」という、その人の声が聞こえても、わたしは動けなかった。


 *


「怖かったよね。ごめんね。もう、大丈夫だから。出てきて……」

 

 わたしは、怖くてまだ震えていた。そっと箱の中から様子を伺うと、そこはその人の住む家だった。縮こまっているうちに、家まで連れて帰ってくれたみたいだ。わたしは、勢いよく箱から抜け出した。そして、その人を睨む。

 ――怖かった。捨てられるかと思った。大嫌い。

 ――でも、捨てないでくれてありがとう。大好き。

 対極にある二つの思いに頭がクラクラして、わたしは涙を浮かべた。

 

 すると、その人も泣き出してしまった。わたしは驚いて、その人の元に駆け寄って、泣かないで、って声をかけた。でも、その人の涙は止まらない。

「驚かせてごめんね。君が、どれだけ傷ついてきたんだろうって思うと、捨てた人が許せなくて。ごめん、君の方が辛いのに……」

 その人は、わたしを抱きしめた。今まで出会った誰よりも、暖かい優しさが胸を満たした。

 しばらく涙を流して、その人は覚悟を決めたように、わたしを抱き上げて言った。

 

「決めた。わたし、君の家族になる」


 そして、わたしの体の毛並みを整え、その人は言った。


「君の名前はゆき。白猫だし、雪の日に出会ったから。――これからよろしくね、ゆき」


 わたしは、誰よりも幸せな猫だ。

 ――世界一優しいその人に、出会えたのだから。

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