第8話 画面外の甘さ

【ルカ=ノエル配信画面】

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 コメント:文化祭お疲れー!/昨日の緊急配信アーカイブ消えた?/何かあったの?

 スーパーチャット:なし

 ルカ=ノエル(穏やかな声で):昨日はごめんね、ちょっとバタバタしちゃって。……でも、すごく大事なものを見つけたから、結果オーライかな。……ね、アカリちゃん?


 ✎ܚ


「……心臓が持たない」


 月曜日のキャンパス。

 私はいつもの席で、教科書を立てて顔を隠していた。

 隣には、月野ルカ。

 相変わらずの彫刻フェイスで、何食わぬ顔をして授業を受けている。


 クラスの女子たちの視線は、相変わらず「遠巻き」だ。

「月野くん、今日も近寄りがたいね」

「目合わせたら凍りそう」

 そんなひそひそ話が聞こえてくる。


 甘い。

 甘すぎる。

 君たちは知らなすぎる。

 この絶対零度の氷の下に、マグマのような甘さが煮えたぎっていることを。


『……ね、アカリちゃん?』


 昨夜の配信での「私信」。

 あれを聞いた瞬間、私はベッドから転がり落ちた。

 完全に私との「秘密」を楽しんでいる。


 授業中、彼がシャーペンの芯を出そうとしてカチカチと音をさせた。

 その音だけで、私は金曜日の準備室での出来事を思い出して、耳が熱くなる。

『アカリちゃん』

『全部、届いてるよ』

 あの時の手の温もり。低音の響き。


「……星宮」


 不意に、隣から声をかけられた。

 ビクゥッ! と肩が跳ねる。

 恐る恐る顔を出すと、彼が教科書のページを指差していた。

「……ここ、教授がテストに出すって」

「あ、うん! ありがとう!」


 普通の会話だ。

 傍から見れば、ただの事務的な連絡。

 でも。

 彼が私の方を向いた瞬間、周りに聞こえない音量で、唇だけを動かした。


『……昨日は、ありがとね』


 音のない言葉。

 でも、その眼差しは、配信で「愛してる」と言う時と同じくらい、とろりとしていた。

 私はショート寸前で頷くことしかできない。


 授業終了後。

 私は逃げるように教室を出た。

 このまま隣にいたら、顔が赤すぎて不審者として通報される。

 人が少ない中庭のベンチで、熱った頬を冷やしていると。


「……ここ、いい?」


 影が落ちた。

 月野くんだ。

「えっ、あ、うん……」

 彼が隣に座る。

 近い。距離感バグってる。

 今まで半径2メートル以内に近寄らせなかった「氷の王子」が、今は肩が触れそうな距離にいる。


「……あのさ」

 彼は缶コーヒーを開けながら、前を向いたまま言った。

「学校では、秘密にしてほしいんだ。……身バレしたら、活動続けられなくなるし」


 それはそうだ。

 彼ほどの人気VTuberが顔バレしたら、大学にいられなくなる。

「う、うん! もちろん! 墓場まで持っていく!」

 私はブンブンと頷く。

「誰にも言わない! 私の心臓に誓って!」


 ふっ、と彼が笑った。

 初めて見る、素顔での「声を出した」笑い声。


「……よかった。アカリちゃんなら、信じられると思ってた」


 アカリちゃん。

 リアルでその呼び方は反則だってば。


「……でもさ」

 彼は少し身を乗り出し、私の方へ顔を寄せた。

 周りに人がいないことを確認するように。

 そして、私の耳元で。

 配信マイクに対するよりも、もっと近く、もっと親密な距離で。


「……二人きりの時だけは、いいよね?」


「え?」


「……俺も、我慢したくないから」


 彼の吐息が耳にかかる。

 低音が、背骨をゾクゾクと駆け上がる。


「……アカリちゃん。今日の服、すごく似合ってる。……可愛いよ」


 ドサッ。

 私が持っていた教科書が地面に落ちた音。

 私の理性が完全崩壊した音。


 彼は悪戯っぽく微笑むと、私の教科書を拾ってくれた。

「……ん。大事にしてね」

 手渡される時、指先がゆっくりと絡む。

 その一瞬の熱量だけで、私はあと10年は生きていける。


 彼は立ち上がり、何事もなかったかのように去っていく。

 背中越しに、ヒラリと手を振って。


「……無理」


 私はベンチに突っ伏した。

 これは拷問だ。

 甘くて、苦しくて、致死量を超えた幸福な拷問だ。

 画面越しですら致死量だったのに。

 フィルターなしの高純度イケメンボイスを、ゼロ距離で浴びせられるなんて。


「……溶ける……ほんとに、溶けちゃう……」


 秋の風が吹く中庭で。

 私は一人、液状化していた。

 これから毎日、この「秘密の甘やかし」が続くのかと思うと、私の心臓が最終回まで持つか、本気で心配になってきた。


(続く)



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