第2話 声の一致

 火曜日の3限目。現代社会論。

 この講義は、私にとって「睡眠導入剤」としての機能しか果たしていない。

 大教室のざわめき、教授の単調な声、窓から差し込む午後の気だるい日差し。

 すべてが私を夢の世界へ誘うための舞台装置だ。


「……ふあ」


 小さくあくびをして、頬杖をつく。

 隣の席には、いつものように「氷の王子」こと月野ルカがいる。

 彼は今日も完璧だ。

 背筋を伸ばし、視線は黒板に固定され、手元のノートには無駄のない字で要点がまとめられている(ちらっと見えた)。

 彫刻かよ。

 生きる彫刻なのかよ。

 あんまり動かないから、たまに息をしているのか心配になるレベルだ。


 私はスマホを取り出し、机の下でこっそりと昨夜のアーカイブを開く。

 イヤホンを耳に押し込み、再生ボタンをタップ。


『……んっ、ごめん。ちょっと喉イガイガするかも』


 昨日の配信の中盤。

 ルカ=ノエル様が、珍しく咳き込んだシーンだ。

 コメント欄が「大丈夫!?」「のど飴舐めて!」「代わってあげたい(過激派)」で埋め尽くされた瞬間。


『ごめんね、みんな。……ん、んっ。ゴホッ』


 ああ、この咳払いすら尊い。

 低くて、少し掠れていて、胸の奥をくすぐるような振動。

 もはや咳払いを着信音にしたい。

「私の推しは咳すらファンサ」という名言を、今ここに刻みたい。


 私は画面の中の彼(の立ち絵)を見つめながら、ニヤニヤを噛み殺す。

 現実の講義なんてどうでもいい。

 私の耳には、天使の声が流れているのだから。

 隣の氷像くんには悪いけど、私の世界は今、ルカ=ノエル様一色で――


「……ん」


 隣から、小さな音がした。

 衣擦れの音と、息をのむ気配。

 ふと意識が現実に戻る。

 視界の端で、月野くんが口元を長い指で覆っていた。

 あれ、珍しい。

 いつも微動だにしない彼が、少しだけ眉を寄せている。


「……んっ、ゴホッ」


 ――時が、止まった。


 私の指が、スマホの画面上で凍りつく。

 イヤホンから流れる『……んっ、ゴホッ』というアーカイブ音声。

 そして今、鼓膜を直接震わせた、隣の席からの生音。


 完全に、同じだった。

 音程。リズム。息継ぎの余韻。喉の奥で鳴るわずかなノイズ。

 すべてが、恐ろしいほどの精度で「一致」していた。


「え?」


 思わず声が出た。

 私の間の抜けた声に、月野くんがゆっくりと視線を向けてくる。

 冷ややかな、ガラス玉のような瞳。

 いつもなら、その視線に射抜かれて「す、すみません」と縮み上がるところだ。

 でも、今は違う。


 その瞳の奥に、ほんの一瞬。

 本当にコンマ1秒だけ、焦りのような色が走ったのを、私は見逃さなかった。


 彼はすぐに視線を外し、何事もなかったかのように黒板へ向き直る。

「……、なんでもない」

 ボソリと呟いた、その声。


『なんでもない』


 脳内で、ルカ=ノエル様の声が再生される。

 いつも配信で、照れ隠しをする時に言う、あのトーン。

 低くて、ぶっきらぼうで、でもどこか甘さを残した、あの声。


 カシャン。

 私の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。

「現実」と「配信」を隔てていた分厚い壁に、巨大なヒビが入った音だ。


 待って。

 待って待って待待って。

 嘘でしょ?

 ありえない。だって彼は、月野ルカだよ?

 女子のアプローチをすべて「……無理」で粉砕し、サークルの勧誘も「興味ない」で断ち切り、大学生活という青春をドブに捨てている(失礼)、あの氷の王子だよ?


 彼が?

 あんなに甘く囁くの?

『アカリちゃん、大好き』って?

『君がいないと始まらない』って?


「……ないないない。絶対ない」


 私はブンブンと首を振る。

 偶然だ。ただの声色の偶然。世の中には自分に似た人が3人いるって言うし、声が似てる人がいたって不思議じゃない。

 そうだよ、彼はただの「声がルカ=ノエル様に激似なだけの、残念なイケメン」なんだ。

 そうに決まってる。


 私は震える手でイヤホンを耳から引き抜き、ケースにしまう。

 心臓がうるさい。

 ドラムンベースのライブ会場みたいに、肋骨を内側から蹴り上げている。


 落ち着け、私。

 冷静になれ。

 もし万が一、億が一、彼が「本人」だとしたら。

 私は今まで、隣の席で、彼に向かって(心の中で)散々「愛想がない」だの「氷像」だの悪態をついていたことになる。

 しかも、毎日欠かさず赤スパを投げ、痛々しいリプライを送りつけ、裏垢で愛を叫んでいる相手が、すぐ隣に座っていることになる。


「…………死ぬ」


 顔から火が出そうだった。

 羞恥心で蒸発しそうだった。


 私は机に突っ伏して、熱くなった顔を腕に埋める。

 チラリと、隙間から隣を見る。

 月野くんは、相変わらず無表情でノートを取っている。

 その端正な横顔は、やっぱりどう見ても「氷の王子」だ。

 配信画面の、あの表情豊かに笑う銀髪の天使とは、似ても似つかない。


 ……でも。

 彼がシャープペンシルを置いた、その左手。

 薬指と小指の爪の形が、配信で実写カメラ枠の時に映った手元と、怖いくらいに似ていた気がした。


「……あー、もう」


 私は小さく呻く。

 私の安息の地、聖域であるルカ=ノエル様。

 その存在に、現実の気配が侵食し始めていた。


 ✎ܚ


 講義終了のチャイムが鳴る。

 私は逃げるように鞄を掴み、席を立った。

 この場にいたくない。彼の顔を見たくない。声を聞きたくない。

 もしもう一度あの声を聞いて、確信してしまったら、私は二度と推し活ができなくなる。


「……星宮」


 背筋が凍った。

 呼び止められた。

 初めてだ。入学してから半年以上、一度も名前なんて呼ばれたことなかったのに。


 恐る恐る振り返る。

 月野くんが、座ったまま私を見上げていた。

 逆光で表情が見えにくい。

 でも、その声は。

 低くて、低くて、私の脳髄を溶かすあの周波数で。


「……消しゴム、落ちた」


 彼が指差した先。私の足元に、MONO消しゴムが転がっている。

「あ、あ、ありがと……!」

 私はひったくるように消しゴムを拾い、全速力で教室を飛び出した。


 廊下を走りながら、耳に残った残響を反芻する。

『星宮』

『消しゴム、落ちた』


 ぶっきらぼうで、感情のない声。

 でも。

「……なんで、名前知ってるの……?」


 私たちは一度も自己紹介なんてしていない。

 出席確認だって、教授は番号で呼ぶ主義だ。

 彼が私の名前を知る機会なんて、ないはずなのに。


 私の心臓の暴走は、もう誰にも止められそうになかった。


(続く)



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