カラカス・ゼロ:沈黙の油田
不思議乃九
カラカス・ゼロ:沈黙の油田
第一章:熱帯の憂鬱、あるいは不純な沈黙
シモン・ボリバル国際空港の自動ドアが、喘息患者のような頼りない音を立てて開いた。その隙間から流れ込んできたのは、腐った果実と排気ガスが、赤道直下の熱で煮詰められたような濃厚な大気だ。
「レン」と呼ばれたその男は、タラップを降りた瞬間から、自分が異物の肺として機能し始めたことを自覚した。肺胞の一つ一つが、ベネズエラの重く湿った沈黙を吸い込み、代わりに「偽り」という名の二酸化炭素を吐き出していく。
入国審査官の眼窩には、絶望が澱(おり)のように溜まっていた。男が差し出した日本のパスポートは、この崩壊しかけた極彩色の国において、あまりに清潔で、あまりに無機質な聖書のように見えた。
「滞在の目的は」
審査官の声は、砂を噛んだような嗄れ方をしている。レンは答えなかった。代わりに、指先に馴染んだ二十ドル札を、パスポートの頁の間に、あたかも最初からそこに咲いていた徒花(あだばな)であるかのように忍ばせた。
沈黙という名の取引。紙幣が消える瞬間、審査官の瞳に宿った卑屈な光こそが、この国の唯一の通貨だった。
ゲートを抜けると、カラカスの夜がレンを待ち構えていた。
山の斜面にへばりつくスラム街「バリオ」の無数の灯火。それは遠目には美しく、しかし近づけば火傷を負う、都市の壊死した細胞群だ。星の降らないこの街では、地上の灯だけが暴力的なまでの生命を主張している。
迎えを待つレンの影を、一台の黒いセダンが蹂躙した。
排気音は低く、獲物の喉元を狙う獣の唸りに似ている。後部座席の窓が、重々しいカーテンが引かれるようにゆっくりと降りた。
「日本からの旅人よ。この国の空気は、君の清潔な肺には少々毒が強すぎやしないか」
サングラスの奥にある眼差しは、熱帯の夜にあって、そこだけが絶対零度の真空を保っているようだった。SEBIN(ベネズエラ情報局)――死を司る官僚たちの冷気が、レンの背骨を薄氷のように撫でていく。
レンは、ジャケットの内側に潜ませたワルサーの重みを、己の心臓の鼓動よりも確かに感じていた。
「毒こそが、私をここへ連れてきたのだ」
言葉が夜の闇に溶ける。それは、宣戦布告にしてはあまりに詩的な、破滅への序曲だった。
第二章:真空の対話
黒いセダンは、死者を運ぶ棺のように無機質で、静かだった。カラカスの狂騒は防弾ガラスに遮られ、車内にはただ、高性能なエアコンが吐き出す「人工的な冬」の音だけが満ちている。
隣に座る男の、重厚な革靴の香りが鼻を突く。男はサングラスを外さず、窓の外を流れる廃墟のような街並みを眺めながら、歌を口ずさむように問いかけた。
「君たちは、常に計算を間違える。この国の重質油を、ただの黒い液体だと思っているだろう?」
男の指先が、レンの膝の上にあるアタッシュケースの冷たい銀色を、愛撫するように撫でた。
「あれは、この国の血だ。そして、血を啜(すす)ろうとする者には、相応の報いが必要になる」
車は、かつて政治犯が収容されたという古い洋館の地下へと吸い込まれていった。レンが連行されたのは、窓のない、四方を分厚いコンクリートに囲まれた一室だ。天井から吊るされた裸電球が、振子のように揺れ、不規則な影を壁に刻んでいる。
男は机を挟んでレンと向き合い、ようやくサングラスを外した。その眼窩には、光を反射しない黒い虚無が張り付いている。
「さて、始めようか。商社マンとしての君の履歴書は、実に見事な工芸品だ。だが、香りが違う。君からは、書類のインクではなく、硝煙と……そう、ひどく古い孤独の匂いがする」
男は、レンのパスポートを電球の火にかざした。熱で歪み始める偽造の証明書。
「本名を言え。あるいは、君をここへ送り込んだ『主人』の目的を。それとも、このままこの部屋の一部となって、永遠の沈黙を演じ続けるか?」
レンは、縛られた手首に食い込む縄の感触を、一つの感覚器官として受け入れていた。痛みは思考を研ぎ澄ます。彼はゆっくりと視線を上げ、男の影が揺れる壁を見つめた。
「名前など、ラベルに過ぎない。中身が空なら、ラベルに何と書かれていようと価値はないはずだ。……あなたが本当に知りたいのは、私の名前ではなく、私が『誰と』会う約束をしているか、ではないのか?」
沈黙。部屋の温度が、一気に数度下がったような錯覚。
取調官の口角が、剃刀で切り裂いたような笑みの形に歪んだ。
「ほう。……では、聞こう。その『誰か』は、君を助けに来るのか。それとも、君を始末しに来るのか」
第三章:凍土の記憶
レンの視線は、揺れる電球の光を射抜き、その奥にある男の深淵へと潜り込んでいった。
肺に溜まった冷たい空気を、祈りのようにゆっくりと吐き出す。
「……ガルシア。あるいは、かつて市ヶ谷の湿った地下で、私に『影の歩き方』を説いたあの男の名で呼ぶべきか」
取調官の指先が、机の上で僅かに、氷が割れるような音を立てて止まった。
部屋を支配していた絶対的な優位性が、微かな、しかし致命的な亀裂を生む。レンはその裂け目に、容赦なく言葉の楔を打ち込んだ。
「『感情を殺せ、だが感覚を研ぎ澄ませ』。それが彼の口癖だった。……その教え通り、私は今、この部屋の隅に漂う彼の残り香を嗅ぎ取っている。あの男、九条(くじょう)は、この奥の部屋で私たちが踊るのを眺めているのではないか?」
取調官の黒い瞳が、不規則に脈動した。九条――かつて日本の防衛省情報本部で「鬼」と恐れられ、数年前に全ての記録を抹消して表舞台から消えた伝説の教官。
「……貴様、あの男とどういう関係だ」
取調官の声から、先ほどまでの余裕が剥がれ落ち、生々しい殺意が覗く。
「教え子だ。……そして、彼が最後に仕留め損ねた、唯一の『獲物』でもある」
その時、重厚な鉄の扉が、油の切れた機械のような悲鳴を上げて開いた。
入ってきたのは、仕立てのいいスーツを纏いながらも、その立ち姿だけで周囲の酸素を奪い去るような圧を放つ、一人の初老の男だった。
白髪の混じった短髪、岩のように頑強な顎。そして、かつてレンが何度もその鋭さを叩き込まれた、死神のような灰色の瞳。
「久しぶりだな、レン。……相変わらず、無駄に詩的な喋り方をする」
九条だった。
かつての師は、ベネズエラの暗部で、民間軍事会社の「死のコンサルタント」として完成されていた。
九条は取調官を顎で下がらせると、レンの目の前に椅子を引き、深く腰掛けた。
「お前がここへ来ることは、数ヶ月前から分かっていた。お前を送り出した連中が、誰を、どのルートで捨てるか。……そのパターンを組んだのは、他でもない私だからな」
レンの喉の奥が、乾いた砂を飲み込んだように熱くなる。自分が信じていた「任務」そのものが、師によって描かれた、自分を誘い出すための筋書きだったとしたら。
九条は懐から一本の葉巻を取り出し、その紫煙をレンの顔に吹きかけた。
「さて、稽古を始めようか。お前が私を殺すか、私が、お前という『失敗作』を今度こそ廃棄するか」
第四章:堕天の契約
九条の吐き出した紫煙は、電球の光を遮り、二人の間に灰色のカーテンを引いた。その向こう側で、師の瞳はかつて教壇で語った理想など微塵も感じさせない、ただの「機能」へと変質していた。
「レン、お前は国家という名の虚像に殉じようとしている。だが、この国の油田に眠っているのは希望ではない。古(いにしえ)の生物が腐敗してできた、純粋な『死』だ。……それを誰が啜るかというだけの話に、命を懸ける価値があると思うか?」
九条は、机の上に一通の古びた封筒を置いた。その紙質だけで、それが日本の「組織」の深部から漏れ出したものであることが分かった。
「お前が守ろうとしている日本の利権……その背後で、お前の主人はこの国の独裁政権と裏で握っている。お前はただの、体裁を整えるための『生贄』だ。お前がここで死ねば、日本はベネズエラに抗議し、その見返りとして油田の優先権を得る。お前の死は、ガソリン数万リッター分の価値に換算されている」
レンの心臓が、冷たい泥を打ち付けるように重く脈打った。
師の言葉は、いつも正しかった。正しすぎて、吐き気がするほどに。
「私と共に来い、レン。……私はこの国の混乱を利用し、石油ではなく『情報』を、世界中の最高入札者に売り飛ばす。国家という足枷を外し、個の純粋な意志として、この混沌の王になる」
九条は懐から一振りのフォールディングナイフを取り出すと、レンの手首を縛る縄を、まるで絹糸を断つように静かに切り裂いた。
「自由にしてやろう。だが、その代償は重い。……今ここで、お前を送り出した組織の通信コードを全て吐け。それをすれば、お前は今この瞬間から、地図に載らない自由を手に入れる」
解放された手首に、熱い血が通い出す。痺れが引いていく感覚と共に、レンの脳裏には、かつて九条から教わった最後の教えが蘇っていた。
『真のスパイは、自分すらも裏切る。だが、その裏切りの果てに守るべきものが、一つだけある』
レンはゆっくりと、赤く腫れた手首をさすりながら、師の灰色の瞳を見据えた。
「……取引の条件としては、あまりに魅力的だ。教官」
レンの指先が、机の上に置かれた封筒の角に触れる。
「だが、一つだけ確認させてくれ。……あなたは今、自由なのか。それとも、この熱帯の湿気に脳を焼かれ、ただの『石油の亡霊』に成り下がったのか?」
九条の表情から、一切の感情が消えた。
「答えは、お前の吐き出すコードの内容で決まる。……言え。さもなくば、この部屋がお前の墓標になる」
第五章:毒を食む蛇
レンの口角が、微かに、剥落する壁のように歪んだ。それは、九条ですら見誤るほどの完璧な「敗北」の演技。
「……勝てませんよ、あなたには。自由の味を、教えてもらいましょう」
レンは、絞り出すような掠れ声で、一連の数字とアルファベットを口にし始めた。日本の外務省裏組織「班」が、有事の際にのみ使用するはずの——そして、その実態は「発信源を特定し、周辺ごと一掃する」ための自爆シーケンスを内包した、偽装の通信コード。
九条は、その数字を一つ一つ、骨を拾い上げるような手つきでメモ帳に刻んでいく。その灰色の瞳には、かつての愛弟子を屈服させたという、獲物を仕留めた獣特有の暗い愉悦が宿っていた。
「……『三、七、ホテル、フォックストロット』。よろしい。これで日本の『班』は、その存在の根幹を、私が操るマーケットへと晒すことになる」
九条は満足げにメモを閉じると、無線機を構えた部下に合図を送った。
「直ちにこのコードで、カラカス中央局へアクセスしろ。日本のサーバーに楔(くさび)を打ち込め」
部下が部屋を飛び出していく。その足音が遠ざかるのを待ちながら、レンは肺の奥に溜まった淀んだ空気を、すべて吐き出した。
「教官。一つだけ、教わっていないことがありました」
九条が、怪訝そうに眉を寄せる。その刹那、地下室の厚い壁を突き抜けて、遠く、しかし地響きを伴う重厚な爆発音が鳴り響いた。
一度、二度。
それは、偽装コードが中央局のメインフレームに接触した瞬間に発動する、物理破壊プログラム——あるいは、その信号を追尾してきた「班」の無人機による精密爆撃の音だ。
「……なんだと?」
「あなたは私に、『自分すらも裏切れ』と教えた。だから私は、あなたを信じようとした自分を裏切ったんです」
九条の顔から、温度が消えていく。彼が手にしたメモは、今や彼自身の死刑執行書へと変わっていた。
「あのコードは、鍵ではない。……この場所を、日本の防衛衛星が『焼却対象』として認識するための、生贄の座標だ」
部屋の天井から、パラパラと塵が舞い落ちる。次の衝撃は、もっと近く、もっと残酷にやってくるだろう。
レンは、自由になった手で、机の上に置かれた九条のナイフを静かに手に取った。
「共に地獄へ行きましょう、教官。……あそこなら、石油も国境も、湿気すらもないはずだ」
最終章:硝煙の向こう側
爆音は鼓膜を、そして過去を蹂躙した。
地下室の天井が絶望的な悲鳴を上げて崩落し、粉塵がすべてを白く塗り潰していく。九条は、自分が作り上げた「欺瞞」という名の檻の中で、ただ灰色の瞳を虚空に向けていた。彼が手にしたメモは、炎に舐められ、一片の黒い蝶となって消えた。
「……見事だ、レン」
それが、師の最期の言葉だったのか。それとも、瓦礫が砕ける音がそう聞こえただけなのか。レンは振り返ることなく、崩れゆく通路を、野良犬のような足取りで突き進んだ。
地上に出ると、カラカスの夜風が、血と熱にまみれた頬を冷酷に撫でた。
遠くでサイレンが鳴り響き、街は新たな混沌に沸き立っている。だが、その喧騒も、レンにとっては水底の音のように遠い。
彼は路地裏で、用意していた安物のシャツに着替え、血の付いたリネンのジャケットをゴミ溜めへと捨てた。それは「レン」という、一人の諜報員が死んだ瞬間でもあった。
翌朝、シモン・ボリバル国際空港。
そこには、前夜の騒乱など無関係だと言わぬばかりの、退屈な日常が流れていた。
搭乗ゲートに向かう列の中に、一人の「日本人観光客」がいた。
疲れ果てた表情、手には現地で買った安っぽい土産物。どこにでもいる、この国の崩壊を見物にきた無害な異邦人。
機体が熱帯の湿った空気を切り裂き、高度を上げていく。
眼下に見えるカラカスの街は、朝日を浴びて、まるで何事もなかったかのように輝いていた。あの地下室で、一人の男の野望と、一人の男の過去が灰になったことなど、誰も知らない。
レンは目を閉じ、肺の奥に残ったわずかな「毒」を感じていた。
国に戻れば、また新しい名前と、新しい嘘が彼を待っている。
「班」からの連絡は、まだない。
だが、ポケットの中で、現地で調達した使い捨ての携帯電話が、一度だけ短く震えた。
それは、帰還を促す信号(シグナル)か。あるいは、次の「生贄」への招待状か。
レンは窓の外、どこまでも続く、冷たく、澄み渡った青い空を見つめた。
そこには、もう詩的な言葉は必要なかった。
ただ、乾いた風だけが、彼の肺を満たしていた。
了
カラカス・ゼロ:沈黙の油田 不思議乃九 @chill_mana
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