第2話【真夜中の傍観者】2


 目の前にあるのは時が止まったかのように、変化することを嫌った真っ白なキャンバス。

 本来であれば、赤、緑、青。数々の色で、彩り豊かに着飾られるはずだったものだ。

 しかし、手に持っていた筆はとうの昔に乾き、結局そのキャンバスに色が乗ることはなかった。


 一体どれほどの時間をこのキャンバスの前で過ごしたのだろうか。


 気付けば季節は移り変わり一周していた。

 その間に、見える景色はビル群から、穏やかで落ち着いた街並みになっていて、聞こえる音も、車の走る音や騒がしく行き交う人の声から、一人の女性が自分を呼ぶ声に変わっていた。


「おーい、健斗くーん! 聞こえてるー? けーんーとーくーん!」


 綾音は寝起きの格好そのままに、サイズの合っていないブカブカのスウェット姿で健斗の後ろに立つと、首を左右に振って、両耳に声が届くようにそう名前を呼ぶ。


 都内から茂木乃市に越してきたというのに、その騒がしさだけは変わらない。


 健斗はガクンと肩を落とすと、未だに諦めることなく名前を呼び続ける声に答えるように振り向く。

 すると――


「お! やっと気付いた」


 綾音はニコニコとした笑みを健斗に向けていた。

 

「……なんですか?」


「今日はお休みだよね?」


「……そうですね」


 嫌な予感がした健斗は顔をギュっと歪ませ、視線を逸らす。


 このパターンは過去、何度もあった。

 そして、決まってそういうときは面倒なことが起こっていたからである。


「お休みってことは、時間は沢山ある。そういう認識でおけ?」


「……見ての通り、絵を描こうとしてたんですけど」


「そうなの? それにしては全然進んでないように見えるよ?」


 不思議そうに真っ白なキャンバスを覗き込む綾音。

 

「っていうか、キミがそのキャンバスに絵を描いているところを見たことがない」


「それは……」


 健斗は言葉を詰まらせる。

 綾音の言う通り、健斗はいつからかスランプに陥ってしまい、絵を描くことができなくなっていた。


(原因は……まぁ、目の前にいる人のせいなんだけど)

 

「まぁ、いいや。それより手伝って欲しいことがあるんだけど」


「……それは綾音さんの家――いや、物置の件ですか?」


 心当たりがあった健斗は先手を打つようにそう言う。

 すると案の定、綾音は大きく頷いて見せた。

 

「そもそも自分の家なんですから、掃除くらい自分でやって下さいよ」


「……私が掃除すると、なぜかもっと汚くなるんだよね」


「あー、なんとなくそんな感じしますね」


「お? キミも中々言うようになったねぇ~」


 綾音は特に恥じらうことなくそう言う。


「それで? キミは手伝ってくれるのかな?」


「もちろん嫌です」


「むー! 健斗くんは私の部下なはずなんだけど!?」


「仕事ではそうですけど、今日は写真館は休みです」


 健斗はキッパリそう言い捨てて、再度キャンバスに向き合う。

 しかし、そんな健斗に対して綾音はプクーっと頬を膨らませると、健斗とキャンバスの間に入り、ジッと目を見つめてきた。

 

「どいて下さい」


「嫌だ。キミが首を縦に振るまで動かない」


 年上とは思えない、まるで子供かのように振る舞う綾音に対して、大きなため息で応える健斗。


 これまでの経験上、手伝うと言うまで平行線のままだろう。

 だから――

 健斗は大きく肩を落とすと、一つの交換条件と共に提案することにした。


「それじゃ、綾音さんが写真を撮ってくれたら手伝いますよ」


「写真? いつも撮ってるじゃん」


「仕事で撮ってるやつじゃなくて……綾音さんの"作品"として撮る写真です」


 健斗の言葉に綾音の表情が変わる。

 それは"真夜中の傍観者"が与える悲しみや寂しさを孕んだような……そんな負の側面を持った表情だった。


「いつも言ってるじゃん。それは無理だって」


 小さく暗い声色でそう言うと、綾音は話を切り上げるように立ち上がり、椅子に掛けていた薄手のパーカーを羽織って家から出て行ってしまう。


 誰もいなくなった部屋で一人、健斗は罪悪感を吐き出すように息を吐いた。


 過去に何度もこのお願いをした。

 綾音に作品としての写真を撮って欲しい……と。

 しかし、決まってそのお願いをすると、綾音は先程見せたような表情を見せ、結局は一枚の写真も撮ることはなかったのだ。


 何かがあるのだということは、流石の健斗でも理解していた。

 そのお願いが綾音を苦しめているのも、もちろん分かっている。

 しかし、どうしても綾音の作品が見てみたいと健斗は思い、願っているのだ。


 絵を描く健斗と、写真を撮る綾音。

 同じ表現者でも、彼女とは立っている場所がまるで違う。


 真夜中の傍観者をきっかけにその差を痛感させられ、健斗は絵が描けなくなった。

 表現のレベルが段違いだった。


 綾音の立つ領域に達したい。

 そう意識すればするほど、筆を進めることができなくなって――


 だから健斗は、美術の専門学校を卒業して画家としての一歩を踏み出す前に、綾音の師事を仰ぐために橋本写真館に就職したのだ。

 

(結局ここに就職して、やってることと言えば綾音さんのお世話がメインなんだけどね)


 健斗は気持ちを落ち着かせるように二度目の大きなため息をつくと椅子から立ち上がる。

 そして、棚の引き出しから軍手を”二つ”手に取ると、今できることをしようと、家を出るのだった。

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