第10話 「子供部屋おじさん、誇りを持つ」

六畳の部屋は、夜になると少しだけ狭くなる。


昼間は気にならない壁の距離が、暗くなると輪郭を取り戻す。

畳の匂いが、じわっと上がってくる。

机の角、古い本棚、カーテンの裾。全部が「ここにある」と主張しているみたいだ。


修司は座布団に腰を下ろし、湯呑みを両手で包んだ。

湯気が、鼻先をくすぐる。

ほうじ茶の香ばしい匂いが、胸の奥の硬さを少しずつほどいていく。


「……はあ」


今日も、特別なことはなかった。

窓口で書類を確認して、少し怒鳴られて、少し頭を下げて、帰ってきただけだ。


それなのに、今夜は少し違った。

胸の奥に、落ち着かない温度がある。


階段を上がってくる足音がして、襖がすっと開いた。


「まだ起きてたの」


母だった。

パジャマの袖口から、柔軟剤の匂いがする。


「うん。ちょっとだけ」


「寒くない?」


「大丈夫」


母は、修司の部屋に入ると、少しだけ周りを見回した。

子どもの頃のままの棚。

擦れた机。

天井の木目。


「……懐かしいねえ」


「そう?」


「あなた、ここでよく宿題してた」


修司は、小さく笑った。


「しなかった日も多いけど」


「ふふ」


母の笑い声は軽い。

でも、その軽さが、今夜はやけに沁みた。


母は、敷居に腰を下ろし、湯呑みを覗き込む。


「ほうじ茶?」


「うん。落ち着くから」


「あなた、昔からそうね」


湯気の向こうで、母がこちらを見た。

視線が、まっすぐだ。


「……ねえ、修司」


「なに」


母は、少しだけ息を吸う。

言葉を選ぶ、間。


「この前の家族会議のこと」


修司の心臓が、ほんの少しだけ鳴った。


「……うん」


「あなた、謝ったでしょう」


「うん」


「足りてなかったって」


修司は、視線を落とす。


「……俺、恥ずかしかったんだよ」


「うん」


「親孝行だって、勝手に思ってた」


湯呑みの縁を親指でなぞる。熱が、皮膚に残る。


「でもさ、計算したら全然で」


「……」


母は、すぐに言葉を返さなかった。

その沈黙が、責める沈黙じゃないことが分かる。


修司は、続ける。


「俺、あのとき初めて、ほんとの意味で“家族の一員”になった気がした」


自分で言って、少し照れる。


「遅いけど」


母が、ふっと笑った。


「遅くないよ」


「……いや、遅いだろ」


「ううん」


母は首を振った。


「あなたは、ちゃんと生きてるよ」


その言葉が、湯気の中をまっすぐに飛んできて、修司の胸に落ちた。


「……」


修司は、返事ができなかった。

喉の奥が、きゅっとなる。


母は続ける。


「同窓会で、笑われたって言ってたでしょう」


「……言った」


「あの人たちの声が大きかったのは、きっと自分のことを守ってたのよ」


修司は、昨夜の静かな再会を思い出す。

小さくなった声。

疲れた顔。


「……そうかもな」


母は、修司の湯呑みを見て、ぽつりと言う。


「派手な人生じゃなくてもね」


「うん」


「毎日、起きて」


「うん」


「働いて」


「うん」


「家に帰ってきて」


「うん」


「ごはん食べて」


「うん」


「家族の話を聞いて」


「うん」


母は、修司を見た。


「それ、すごいことだよ」


修司は、静かに笑った。


「……なんか、説教みたい」


「違うって」


母は、少しむきになって言う。


「母さん、あなたのこと、誇りに思ってるの」


その言い方が、少し照れくさくて、修司は湯呑みを口に運んだ。

熱い茶が喉を通る。

じんわりと、体の内側に染みる。


「……俺さ」


修司は、湯呑みを置いた。


「派手じゃない人生って、負けだと思ってた」


母は何も言わない。

ただ、聞いている。


「タワマンもないし、結婚もしてないし、SNS映えもしないし」


「……うん」


「でも、残ってるものが多いって、最近やっと気づいた」


修司は、指を折りそうになるのをやめた。

数えたくない。

数え上げると、途端に嘘っぽくなる。


ただ、胸の中に並んでいるものを感じる。


壊れていない関係。

逃げなくていい数字。

明日も行ける職場。

ちゃんと眠れる夜。


そして、今。


母の目の端が、少しだけ潤んでいる。


「……」


修司は、息を吐いた。


「俺、子供部屋おじさんなんだよな」


母が、少しだけ眉を寄せる。


「その言い方、嫌い」


「え」


「あなたが自分を笑う言葉で呼ぶの、母さん嫌」


修司は、思わず笑ってしまった。


「……じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」


母も、つられて笑う。


「修司は、修司」


「雑だな」


「雑じゃない」


母は言い切る。


「修司は、ちゃんと生きてる」


修司は、六畳の天井を見上げた。

木目の節が、いつもと同じ場所にある。


——派手じゃなくていい。

——遅くたっていい。


修司は、胸の奥で、ゆっくりと言葉を組み立てる。


積み上げた人生は、誰にも奪えない。

奪われないように守ってきたのは、結局、自分だ。


「……母さん」


「なに」


「ありがとう」


母は、目を細める。


「こちらこそ」


「生まれてきてくれて、ありがとう」


その言葉は、少しだけ重い。

でも、嫌じゃない重さだった。


母が立ち上がり、襖を閉める前に振り返る。


「おやすみ」


「おやすみ」


襖が閉まる。

足音が遠ざかる。


六畳に、また静けさが戻る。

でも、さっきまでの静けさとは違う。


修司は、日記帳を開いた。

ペンを握ると、紙のざらつきが指先に伝わる。


『今日、感謝できること』


少し考えてから、修司は書いた。


『母さんが、「ちゃんと生きてる」と言ってくれたこと』


書き終えて、ペンを置く。


「……よし」


独り言が、部屋の中で柔らかく響く。


布団に入る。

畳の冷たさが背中に触れて、すぐに体温で温まる。


修司は目を閉じた。


子供部屋おじさん、誇りを持つ。


それは、誰かに見せびらかす誇りじゃない。

静かで、折れにくい誇りだ。


この夜もまた、人生は一段積み上がった。

そして明日も、きっと、積み上がっていく。


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